トシコロのありのままの暮らし


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新聞が世界の人々を好戦的にしたかもしれない

2015-03-16 11:40:03 | 日記



  最近、ミャンマーでの中国系住民の紛争と、それによるミャンマー空軍の中国領誤爆事件があり、中国人4人が死亡した事を新聞で知った。何分、ミャンマーには400年前に中国から渡ってきた種族がいて、常にミャンマー人たちとトラブルを起こしているわけである。どちらも僕は支持しないが、死亡された4人のご冥福を祈る。

  それはともかく、僕はこのような事を思った。死亡した4人の他界直前の気持ちはどうだっただろうか。又、4人それぞれの人生は。肉親、配偶者、友人は。それらが本当は「一番大事な事」である。でも、ロボットが壊れた時のように、単に「4人死亡」としか書かれていない。何もそれに限った事ではない。昔から世界中の新聞の戦争記事はそうなのだ。ましな時でも、社会背景を淡々と解説するだけ。僕の少年時代のベトナム戦争報道を思い出してもそうだった。連日、「ベトナム解放軍が58人死亡し、アメリカ軍は12人死亡」とか。戦死した人たちの気持ちや人生、死亡した時のむごたらしさは一切報道していない。それゆえ、当時の僕が通っていた学校の先生や生徒たちも、軍事情勢や南ベトナム政府の政治腐敗の事は話しても、戦死した人たちの気持ちなどの事は一切語らなかった。気が付かなかったわけである。中東戦争などの時も同じであった。19世紀後半から20世紀前半の日本の社会を描いた多くのドラマを見ても、日本がしている戦争の事も含めて、同じであったようだ。特に、日清・日露戦争に日本が勝つと、新聞も威勢の良い記事を書きあげ、多くの日本人は戦争が好きになり、戦争を遂行する政権を望むようになった。新聞の発達した国ほど、そうだった。確かに、戦死したり、軍隊に誤爆などをされて死亡した多くの人の悲しみ、怖さ、むごたらしさなど、一番肝心な事が伝えられなければ、戦争は恰好が良いものだと思いこむような人たちもたくさん出てくる。かと言って、新聞が「気持ち」などを載せようとしても、それは本来は文にすることができないわけだから、新聞も成り立たなくなる。難しい問題である。19世紀半ばのマルクスはまだ見抜けなかったが、「新聞」は経済以上に20世紀の戦争の元凶になったと言わざるを得ない。その状況から抜け出す事は2つ。一つは新聞を上回るメディアの出現。もう一つは「心の大きさ」に気が付くことである。心は文にする事はできないだけ、大きいわけだから。

  新聞は真理は伝えないから、信じるなと、世界中の皆様に訴えて、終えたい。

  (追伸的に述べると、「社会状況だけ伝えて、心は伝わらない」は世界中の福祉関係の新聞報道でも同じだと。ハンセン氏病関係の療養所隔離とか、障碍者のコロニー収容は20世紀に世界的に行われたが、その根の一つも新聞報道があると。又、ナチス下のドイツのユダヤ人虐殺が、ドイツ内で許された問題とかも。虐殺されるユダヤ人の気持ちは新聞では一切伝わらなかった。新聞は恐ろしいと言わざるを得ない。)

フェイスブック投稿から・言葉の事

2015-03-13 11:09:58 | 日記
  あるアメリカの友人のコメント欄に「War’s are very BAD」と書きました。悪いを強調するため、それに当たる英語を大文字で。以前、戦争を単数形で書いたから、今度は複数形にして。非常に単純な英語ですが、これで英語の判る全世界の人たちに通じるわけです。一方、「我好魚」式の非常に簡単な中国語でも、中国・台湾の人たちに通じる。
  以上の事からも、言葉は単純でよい事になってきますね。大事なことは「いかに自分の心を伝えるか」ですね。昔、日本の身障運動家で、複雑な話ばかりしていた人たちも見て来ました。何言っているか、僕は判らず、付き合えなかったです。そのような人たちはその後はどうしているのか、判りませんが。運動は成功しなかったでしょう。何も福祉関係に限らず、言葉は単純明快に限りますね。

福祉の心伝えについて

2015-03-12 11:36:43 | 日記


  「阪神・淡路大震災」に遭われた人たちの恐ろしさの事をブログに書いた後、気が付いた事がある。

  これまで僕は多くの身障者、ハンセン氏病元患者、福祉関係者の本や手記、手紙を読んだり、話を聞いてきたが、大体、論文を読む・論説を聞く感じで、理屈的にとらえてきたのだ。障碍の有無の別なく、僕の多くの旧友たちも同じだった。1980年前後に多く僕と交流した学生ボランティアさんたちも。

  でも、心は本当は理屈ではとらえられないのだよね。福祉で大事なことは、例えば、「在宅で暮らしたい」とか「施設隔離はいやだ」、「身体障碍を持っていても、恋愛や結婚がしたい」などの訴えや叫びだと。あるいは、「ヘルパーさんたちの生活を保障してくれ。議員さんたち、頼む」みたいな。それらは文章化とか、会話化、本にすることは不可能。それゆえ、実際は僕もそれらの本や手記などからは何も得ていないし、僕の多くの旧友たちも同じだと。

  僕も以上に気が付かず、今までは福祉の事を文章化してきた。今後、それは一切やめることにした。僕の今まで書いたものも、多くの他人に誤解を生んできたと気が付いたからだ。あるいは、上べだけしか伝わなかったり。これでは、反福祉行動だったと思う。今までの僕の一番の問題も、福祉などの事を文章化してきた事だったと。今はすでに国会議員さんたちに「訴え」の言葉を送らさせていただいているが、その要領でいい。他の人たちにもそうすればいいと。

  マスコミの発達している現代は、誰でも言葉信仰になり、福祉に限らず、ありとあらゆる事を多弁したり、長文化したりしがちだが、考えものだと思う。

神戸の人たちの恐怖感を受け止められなかったこと

2015-03-10 11:44:51 | 日記


   1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。テレビのニュースで知った時は僕も驚きました。でも、それから2ヶ月たち、オウム真理教事件が起きると、僕の関心もオウム真理教に向かい、阪神の大震災の事は次第に忘れるようになりました。その年の秋にラジオで、神戸で震度7の地震に遭われた一人の短い発言を聞きました。

  「すでに日本中の人たちが神戸震災の事を忘れている。過去の事だと思い、冷たい態度を取る。でも、震度7の体験を受けた我々は忘れるものではない。復興も程遠いありさまだ」。

  その時から16年たち、東日本大震災で東京でも震度5。僕も神戸の人たちの恐怖感を判っていなかったことがよく判りました。ただし、その時は何故判らなかったのか?という事までは考えませんでした。

  東日本大震災を振り返り、阪神・淡路大震災の事も一緒に考えてみると、1995年の時は僕も新聞・テレビ・ラジオなどの放送とか、災害ボランティアで行かれた人たちの手記文を通して聞いたものばかりだったから、恐怖感が伝わらなかったと思います。それらは会話言葉や文によって伝えるシステムですね。でも、「恐怖感」はまともな会話や文にする事ができるでしょうか。できません。僕の東日本大震災の時の恐怖感も言葉にはいまだにできないわけだし。言葉には限界があるわけです。

  1995年当時の僕はパソコンはしておらず、また、フェイスブックなどのSNS(Social Net Service)もなかった時代でした。人々の情報はマスコミと出版に頼っていたわけです。マスコミや出版関係はその性質上、まともな文や会話にできない言葉は切り捨てていくシステムですから、当然ながら、「恐怖感」とか「差別や隔離された叫び」も切り捨てられ、世間に伝わらない。それゆえ、大震災に遭われた人たちの恐怖感とか、ハンセン氏病元患者の隔離された叫びなども世間に伝わらなかった。伝えられたのは、体裁よい言葉にできる部分だけです。それは、上べだけの言葉です。阪神・淡路大震災の事が忘れられたのもこのようないきさつがあったと思います。

  でも、東日本大震災の時にはSNSが発達していましたから、被災民たちが「叫び・恐怖感」を、会話にならない言葉を発信し、日本を越えて、世界中に広まった。大きな違いですね。

  最後に僕の子供時代の事をお話しします。自我が芽生えてきた小学4年から6年に掛けて、特に僕は作文を嫌いました。苦手でもあった。一度、白紙回答した事もあります。でも、情景描写みたいな事は書けるのです。当時の日本の学校での作文指導は「自分の気持ちを書かせる」ことに力を入れていた。どうやら、「気持ちをまともな文にできるか」という事が白紙回答した理由だったと思います。ある意味ではその通りなんですね。当時の僕なりに、「正解」していたようです。叫びや恐怖感をムリに文章化すると、まったく違った内容になり、逆効果だと思われるからです。そのような遠い過去の事も思い出されました。