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仲間の件の追伸

2018-11-20 13:54:37 | 日記
  誤解される方がいると困るので述べますが、仲間関係みたいなものに疑問を呈しているからと言って、何も孤立や孤独を勧めているわけではありません。それどころか、僕は他人への関わりは積極的に進めた方が良いという考え方です。でも、多くの体験上も、歴史を見ても、仲間関係・意識には疑問を持たざるを得ないわけです。 


   それでは、孤独・孤立・寂しさは何を表すのでしょうか。愛の欠落か不足を表す状態だと思います。マザー・テレサは「愛の反対は無関心」と述べましたが、確かに他人に無関心にされると誰でも寂しいですね。無関心も愛の欠落の状態の一つだと思います。良くないわけです。とは言え、愛の欠落は無関心だけでしょうか。他にも状態はあると思います。その「愛」の心理学研究も遅れているように僕には思えます。大体、心理学自体が歴史の浅い学問ですから。例えば、宇宙物理学は今はビッグバン以前の事も解明しつつありますが、それに比べても諸々の研究が遅れているようです。愛の心理学考察も初歩程度です。


  そして、仲間関係を作ると、どうしても仲間外の人たちには「無関心」になる。愛の反対をすでに含んでいるわけです。又、仲間内の人たちも実際は寂しいようです。各自が自分の思惑で付き合っている状態ならば、相互の愛や思いやりも出てこないではないですか。それでも、仲間意識に愛は含まれていない事を知らないと、構成員はより強く仲間関係を求めて、同じ行動をしたり、同じ意見を述べ合う。昔、僕の所属した複数の会でも見られた事だし、70年代前半の赤軍派とか、90年代のオウム真理教でもそのような事があったわけです。ナチス内もそうだったらしいし。仲間関係の他、愛の心理学解明が遅れていれば、こうなるのかなとも今は思います。

   因みに、僕は複数の会で、自分の欲しいものは仲間関係・意識ではないと比較的早くに気が付いた。でも、仲間関係の欠陥を説明できなかった。じれったかったし、怒りも感じました。説明できない自分への怒りね。寂しさとは別の感情がありました。その為、若い時の僕は怒ってばかりいて、変に思った人たちもいたようです。高校時代まではそのような事はなかったと。今になり、メールやフェイスブックで付き合い直し、変に思われた理由を説明できて良かったと思います。寅さんは「人生で取り返しのつかない事はないんだよ」と映画の一つで述べていましたが、その通りですね。

   もう一つ。三木清は戦時中の日本社会で、戦争協力の流れに乗る人たちを批判し、「大勢に従ってはダメだ。孤独になっても、正しい事を貫かないと」と述べています。三木氏を批判する事は僕にはできませんが、但し、「大勢に従う事」で孤独は癒されるでしょうか。そうは思えません。大勢に従っても、それに「愛」が欠落している以上は、孤独はひどくなると思います。本当は猛烈に寂しくなる。それを癒すために更に「大勢に従う」の悪循環。これで諸々のファシズムも、オウム真理教や赤軍派もひどくなり、破滅への道をたどったわけですね。恐いわけです。この場合、大勢が悪い道ならば、反対を貫く事は愛であり、絶対に孤立・孤独になりません。「徳孤ならず、必ず隣有り」で、少数かも知れない、一人かも知れませんが、必ず、同調者が出て、愛に満たされた状態になるわけです。そのような社会になれば、僕はそれを選びます。
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