今回の障碍者虐殺事件に関して、数々の声が寄せられている。知的障碍者関係の団体の声明文の中の「誇りを持って、皆さん生きて下さい」は極めて高く評価するし、それは身体障碍者や精神障碍者にも通じる事であり、僕も大いに励まされた。感謝もしている。
良い面は評価した上で、僕が変に感じ始めた事を書きたい。それは今回も「命の尊さ」を述べている事である。日本国民がそれを噛みしめれば、殺人事件はもう起こらないかの発言である。昔の僕もそのように思った。21年前のオウム真理教事件の時ですね。その時の僕は「命の尊さ」という言葉に共感し、当時書いていた諸々の文にも借用もしている。でも、それから、6年くらい経た、大阪での小学校虐殺事件でも同じ事が言われたが、それからかなり経た今年はやはり虐殺事件。どうも日本社会の虐殺体質は治っていないようだし、それが起きる度に「命の尊さ」のワン・パターンである。過去の事件のリプレイを見るようなものだと。
確かに、誰でも命の尊さは判るだろう。暴漢にナイフを突きつけられたら、誰でも恐いから。でも、今はそのような事を言っても社会の特効薬にはならないのではないかと。
中世日本で栄えた仏教の浄土宗系の思想には、人間の持つ個々の命はアミダ=大いなる命と共有し、全てつながっているという思想があった。でも、明治以降は特にその思想は衰退し、現代の物質主義の科学思想とも絡み、「個別の命」という考え方になっている。今の多くの日本人も「命」と聞くと、自分の命しか連想しないようである。ならば、「命の尊さ」と言われても、せいぜい自分の健康を気を付ける程度に終わってしまうのである。少なくとも、仏教の歴史を絡めるとこうなると。命だけを述べるのは限界があると言おうか。
本当に「命」は個別化されたものだろうか。生物科学者や医者も含めて、考えてほしい。
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