トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

保全・亡前・唖然‼ 生態学的廃墟にされる

2022-08-26 | 小人閑居して憮然
 トンボ池の漏水防止作業をしようと一輪車を取りに行って「ありゃりゃー」てなもんや三怒嵩になってしまった。バードバスとして設置した周辺の植物が綺麗に抜き取られ裸地にされている。刈り払いでなく抜き取られているからわざわざ定植したカラムシ・ヤマハッカ・フジバカマなどは跡形もなく消え失せている。これでは生態的廃墟を作った事にほかならず広がれば生態的砂漠化につながる。

 漏水防止作業を終え戻ってきたら今度は流路を変更しているのに出会った。見過ごすわけにはいかないから注意したのだが言い分が「草茫茫だし手助けしようと思って…」とのたまうのだった。小学生でさえ手伝いする時は「どうしたら良い?」と普通は尋ねるだろう。趣旨も意図も知ろうともしないでの介入は破壊行為そのものでしかない。
 側溝からの流水を引きこんでいるのは「土砂堆積」で窪地をかさ上げして使える土地にするための手太楽で、かれこれ10年以上もかかりながら、ようやくU字溝より地面が高くなりバードバスを設えたのであった。植生を整えるのも宿根草を中心にして表流水に含まれる砂泥を捕まえやすくするための仕掛けなので、こういう手練手管は道理が理解できなければすべてが雑草茫茫「うっとおしい!」の認識で終わる。

 この場所に限らず「生物生産緑地」として創出し維持している範囲については「刈り払いするなら通路だけにして」と毎期言ってきたことではあるのだがどうしても「丸坊主」にしたいのは消えない。度重なれば「小五月蝿い事ばっかり言ってくる!」との心証だけが肥大する。
 ゆえに植物や植生が「なんの役に立つか」と言う事より「茫茫はうっとおしい。丸坊主が清々しい」では小生の頭部ではないのであって、ことフイールドに関すると押しなべて全草刈り払いへの欲求が高いのである。

 しかしながらフイールドの見えにくい場所に目を転じれば林内はフジ蔓が数えきれないほど立ち上がっているしネザサのシュートも伸びている。こういう場所からこそ刈り払わなくてはならないと思うけれど関心は無く、小生が刈り払う羽目になる場所なのだ。保全中心より人中心の思考から脱却できないのでは保全活動にかかわる資格は無い。
 島倉千代子の歌にあった「要するところは刈りもせず、要せぬところをするまま気まま」ホント、里山保全の形体は様々あってしかるべきだけれど「保全」の概念さえ無い作業は破壊への一歩でしかない。こういう状況下では手を出さない人が保全に寄与していると断言しても良いだろう!。

      

 写真左下の竹囲いした法面部分は春から草取りされ続けている部分で降雨出水するたびに通路下を通る土管から溢れた水で表層が侵食されてきた。囲いは早春にタンポポやオオイヌノフグリの花畑だったのを刈り払われデルフェニュームなどの洋種園芸植物を植えつけられた場所なのだが「店員さんが秋まで綺麗に咲きますと言ったから」と植え付け後に自信をもって言われたのだ。結局は日当たりも悪いし草勢も衰えて枯れ果てたのだが野草の花畑より「木に花を接ぐ」ような環境適応も考慮できないのには呆れて話す言葉も無かったのである。まあ、日常と言えば日常でこれが平均的意識なのであろうし「水と油だなあ!」と見るたびに思わずにはいられない象徴する場所である。
 土壌や植生に関心も無ければ保全の第一歩すら歩めないどころか破壊行為である事さえ気付く事も無いのである。