『月』(2023/日本)
監督・脚本:石井裕也。
出演:宮沢りえ。磯村勇斗。二階堂ふみ。オダギリジョー。
夫と二人慎ましく暮らす洋子は障がい者施設で働くようになる。彼女は受賞作を持つ有名な作家だった。心臓の障害を持つ息子を三歳で亡くしたことから、彼女は筆を折る。全く書けなくなってしまったのだった。夫の昌平の仕事はアルバイト。家では映像作品を制作していた。洋子が働くことになった施設は森の奥に位置するような場所で、そこで働く陽子は作家志望でネタ探しのためにここで働いているのだという。さとくんと呼ばれる青年は施設内の利用者たちに紙芝居を作って見せてあげるまじめな優しい青年だった。しかしその施設内では虐待が行われ、施設長も見て見ぬふりをする・・・そんな施設だった。
ここからはネタばれなしには書けないので、とりあえず改行。
実際の事件の犯人を擁護したいのか?誰でも彼になりうると言いたいのか?確かにあの事件があったとき、彼の意見に同調する人もいた。生産性のない人間は必要ないのでは?そんな言葉もみかけた。それは個々生きるという意味、人間という存在に対するそれぞれの思いの中で意見として持っていてもいいものではあると思う。でもだからと言って必要ないと断罪する権利は誰にもないはずだ。この作品の中でさとくんは言う。「僕はやるときちゃんと聞きますよ。あなた心がありますか?って」。心がないってなんでわかるの?なぜ君が決めるの?洋子が亡くした子供は心臓疾患があった。そして彼女は言うそれは病気だと。3歳まで言葉を話さなかった、話せなかった。障がい者だと。洋子が書けなくなった理由には子供が亡くなった悲しさからだけではなく、障害を持った子が亡くなって、もしかしたらホッとした部分もあったからなのではないだろうか? ここでの洋子は話せない子供と心を通わすことが出来なかった。障がい者に心がないと決めつけるさとくんと同じだったのではないだろうか?だから子供が亡くなったことで本当の悲しみの中必死に明るく過ごそうとする夫昌平と向き合うことが出来なかったのではないだろうか?
そして再び妊娠した洋子は次の子供もまた障害を持って生まれてくるのではないか?その思いから夫に言わずに中絶しようとさえ考える。そしてこのことでさとくんから僕と同じだ。「障害がある子はいらないって思ったんですよね」
はっきり言ってここ余分だったと思う。この作品余計なことが多すぎる。中絶云々のくだりはいらないだろう?3歳で亡くなってしまった子供と心通わすことが出来なかった思いに苦悩し、同じく話せない動けない利用者を見て、本当に何も見えないのだろうか?何もわからないのだろうか?と心がゆっくりと動く様をみせればよかったんじゃないのだろうか?作家志望でネタ探しのために働いているという陽子。父親に虐待されて、その父親は浮気していて・・・。いるかこれ?そもそも陽子いるか?で、さとくんの彼女聾唖者という設定。いるか?彼が話が出来ないというのではないところで殺害を企てたってことを強調したかったのか?
あ、あと妊娠がわかってからの話で出てくる出生前診断。優性思想的なこともいれたかったのか、本当に欲張りすぎ。散らかしすぎ。
さとくんが壊れていく様もまあなんとも安直で(苦笑)。この仕事は給料安いし大変なんッすよぉ。ってなんともちゃらい描き方。食事介助の場面はあったけど、あとはちゃらちゃら歩いていただけじゃん。で、虐待。突き飛ばす部屋に放り込む。懐中電灯を当ててこうするとてんかんの発作起こすんですよ。てんかんの発作誘発させるってのはひどいことだけど、映像として結局簡単な方法でしか虐待を描いていない。しかも何あれ。開かずの間?糞尿にまみれた汚いおっさんがマスかいている。ふざけんなよ。さとくんの気持ち、こんな人はいらないというのを強調させるための演出なんだとは思うけど、もうこれって悪意しか感じないよ。確かに施設で虐待って行われているんだと思う。事件にもなっている。だけどね、常識で考えて糞尿にまみれさせて放ったらかしにしていたら、後からしんどいの介護者だからね。おむつつけても何回も自分ではずす人っているらしいけど。でも介護の仕事はしんどい。こんな人必要なんだろうか?と思わせる演出なら手を抜かずに必死に介護してきれいにして、それなのにおもつはずして壁になすりつけるとかって、リアルで大変な描写入れた方が現実的だし、まじめな分壊れるかも・・・って思えると思うんだけどね。ほんと手を抜きすぎ。
私は介護従事者だ。好きでなったのではない。これしか仕事なかったんだ。だからあっちこち点々としたよ。点々としたからこそしんどいのも壊れてしまう可能性もわからなくはない。でもねぇ、あの事件をモチーフにしているのなら、もっとちゃんとした描き方あっただろうとはっきり言ってむかついている。
私の働く事業所のイベントでやまゆり園の事件の追悼の講演会のようなものがあった。そこで献花台に置かれるデジタルフォトフレームに映される写真だけ見せてもらった。名前と写真を公表している人は少なく、それがない人たちはラジオや花のイラストだった。でもそのラジオのイラストであらわされる人はいつもラジオが好きで聞いていたそうだ。花が好きだった人。写真を公表しているはとてもかわいい女の子だったり、笑顔が素敵で穏やかな顔をした老齢な人だったり・・・。彼らのどこが心がないんだろうか?何をもってして心がないと言い切るんだろうか?会話が出来ないから?言葉を話さなくても会話はできるんだよ。目は口ほどに物を言う。彼らも嫌いな人には目を合わせない。
確かに重度障碍者の終生保護施設での仕事は大変だと聞く。私が働いているところは地域福祉型の小規模施設なので、そんなに大変なことはない。だからこそ大変なところで壊れそうな心と戦いながらも、この仕事を誇りを持ってやっている介護従事者をもバカにしているようで腹がたつんだ。
陰気な施設、陰気な介護者・・・そして陰気な利用者・・・悪意しかないだろう?
-2023.11.11 MOVIX堺-
監督・脚本:石井裕也。
出演:宮沢りえ。磯村勇斗。二階堂ふみ。オダギリジョー。
夫と二人慎ましく暮らす洋子は障がい者施設で働くようになる。彼女は受賞作を持つ有名な作家だった。心臓の障害を持つ息子を三歳で亡くしたことから、彼女は筆を折る。全く書けなくなってしまったのだった。夫の昌平の仕事はアルバイト。家では映像作品を制作していた。洋子が働くことになった施設は森の奥に位置するような場所で、そこで働く陽子は作家志望でネタ探しのためにここで働いているのだという。さとくんと呼ばれる青年は施設内の利用者たちに紙芝居を作って見せてあげるまじめな優しい青年だった。しかしその施設内では虐待が行われ、施設長も見て見ぬふりをする・・・そんな施設だった。
ここからはネタばれなしには書けないので、とりあえず改行。
実際の事件の犯人を擁護したいのか?誰でも彼になりうると言いたいのか?確かにあの事件があったとき、彼の意見に同調する人もいた。生産性のない人間は必要ないのでは?そんな言葉もみかけた。それは個々生きるという意味、人間という存在に対するそれぞれの思いの中で意見として持っていてもいいものではあると思う。でもだからと言って必要ないと断罪する権利は誰にもないはずだ。この作品の中でさとくんは言う。「僕はやるときちゃんと聞きますよ。あなた心がありますか?って」。心がないってなんでわかるの?なぜ君が決めるの?洋子が亡くした子供は心臓疾患があった。そして彼女は言うそれは病気だと。3歳まで言葉を話さなかった、話せなかった。障がい者だと。洋子が書けなくなった理由には子供が亡くなった悲しさからだけではなく、障害を持った子が亡くなって、もしかしたらホッとした部分もあったからなのではないだろうか? ここでの洋子は話せない子供と心を通わすことが出来なかった。障がい者に心がないと決めつけるさとくんと同じだったのではないだろうか?だから子供が亡くなったことで本当の悲しみの中必死に明るく過ごそうとする夫昌平と向き合うことが出来なかったのではないだろうか?
そして再び妊娠した洋子は次の子供もまた障害を持って生まれてくるのではないか?その思いから夫に言わずに中絶しようとさえ考える。そしてこのことでさとくんから僕と同じだ。「障害がある子はいらないって思ったんですよね」
はっきり言ってここ余分だったと思う。この作品余計なことが多すぎる。中絶云々のくだりはいらないだろう?3歳で亡くなってしまった子供と心通わすことが出来なかった思いに苦悩し、同じく話せない動けない利用者を見て、本当に何も見えないのだろうか?何もわからないのだろうか?と心がゆっくりと動く様をみせればよかったんじゃないのだろうか?作家志望でネタ探しのために働いているという陽子。父親に虐待されて、その父親は浮気していて・・・。いるかこれ?そもそも陽子いるか?で、さとくんの彼女聾唖者という設定。いるか?彼が話が出来ないというのではないところで殺害を企てたってことを強調したかったのか?
あ、あと妊娠がわかってからの話で出てくる出生前診断。優性思想的なこともいれたかったのか、本当に欲張りすぎ。散らかしすぎ。
さとくんが壊れていく様もまあなんとも安直で(苦笑)。この仕事は給料安いし大変なんッすよぉ。ってなんともちゃらい描き方。食事介助の場面はあったけど、あとはちゃらちゃら歩いていただけじゃん。で、虐待。突き飛ばす部屋に放り込む。懐中電灯を当ててこうするとてんかんの発作起こすんですよ。てんかんの発作誘発させるってのはひどいことだけど、映像として結局簡単な方法でしか虐待を描いていない。しかも何あれ。開かずの間?糞尿にまみれた汚いおっさんがマスかいている。ふざけんなよ。さとくんの気持ち、こんな人はいらないというのを強調させるための演出なんだとは思うけど、もうこれって悪意しか感じないよ。確かに施設で虐待って行われているんだと思う。事件にもなっている。だけどね、常識で考えて糞尿にまみれさせて放ったらかしにしていたら、後からしんどいの介護者だからね。おむつつけても何回も自分ではずす人っているらしいけど。でも介護の仕事はしんどい。こんな人必要なんだろうか?と思わせる演出なら手を抜かずに必死に介護してきれいにして、それなのにおもつはずして壁になすりつけるとかって、リアルで大変な描写入れた方が現実的だし、まじめな分壊れるかも・・・って思えると思うんだけどね。ほんと手を抜きすぎ。
私は介護従事者だ。好きでなったのではない。これしか仕事なかったんだ。だからあっちこち点々としたよ。点々としたからこそしんどいのも壊れてしまう可能性もわからなくはない。でもねぇ、あの事件をモチーフにしているのなら、もっとちゃんとした描き方あっただろうとはっきり言ってむかついている。
私の働く事業所のイベントでやまゆり園の事件の追悼の講演会のようなものがあった。そこで献花台に置かれるデジタルフォトフレームに映される写真だけ見せてもらった。名前と写真を公表している人は少なく、それがない人たちはラジオや花のイラストだった。でもそのラジオのイラストであらわされる人はいつもラジオが好きで聞いていたそうだ。花が好きだった人。写真を公表しているはとてもかわいい女の子だったり、笑顔が素敵で穏やかな顔をした老齢な人だったり・・・。彼らのどこが心がないんだろうか?何をもってして心がないと言い切るんだろうか?会話が出来ないから?言葉を話さなくても会話はできるんだよ。目は口ほどに物を言う。彼らも嫌いな人には目を合わせない。
確かに重度障碍者の終生保護施設での仕事は大変だと聞く。私が働いているところは地域福祉型の小規模施設なので、そんなに大変なことはない。だからこそ大変なところで壊れそうな心と戦いながらも、この仕事を誇りを持ってやっている介護従事者をもバカにしているようで腹がたつんだ。
陰気な施設、陰気な介護者・・・そして陰気な利用者・・・悪意しかないだろう?
-2023.11.11 MOVIX堺-