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今日の筆洗

2016年05月12日 | Weblog

  ヘレン・ケラーは一九四八年の秋、広島を訪れた。見ることも聞くこともできぬ彼女は、原爆ドームを見ることも、被爆者の声に耳を傾けることもできなかった▼だが、一人の男性が彼女の手を自分の顔に導き、触れさせた。その顔に原爆が刻んだケロイドの感触が、「戦争の早期終結に寄与した」と米国が主張する核兵器の真の姿を、ヘレン・ケラーにまざまざと伝えたのだ▼この逸話をもとに長崎の詩人・志田昌教(まさのり)さんは、こんな詩を書いた。<視覚も聴覚も失ったヘレンにとって/触れることが世界を知る唯一の術(すべ)であった/そしてヘレンの細いゆびさきは/健常者の目や耳の感覚を超えて/人類の不条理をあまねく読み取った…>▼<目はあっても何も見ることができず/耳はあっても何も聞くことのできない/束(つか)の間の繁栄に執着するだけの/わたしたちの罪を受け止めるように/ヘレンのゆびさきは不条理と対峙(たいじ)する…>(『脱原発・自然エネルギー218人詩集』)▼米国のオバマ大統領が今月二十七日に、広島を訪れることになった。現職の米大統領による初の被爆地訪問だが、米政府の説明によると、被爆者と会う機会を持つかどうかは未定だという▼しかし米大統領は、その指で核兵器の発射ボタンを押すこともできる。だからこそ、ゆびさきで原爆の傷痕にじかに触れ、核の不条理を読み取ってほしいのだ。

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今日の東京新聞 主な内容

2016年05月12日 | Weblog

 

 クリミア戦争はなぜ起きた? *          
 これまで世界史上で起きた戦争は、宗教がらみのものがほとんどであったが、このクリミア戦争も例外ではない。事の発端は、ロシアがトルコ領内のギリシア正教徒の保護権を主張したことが原因で、パレスチナの聖地管理権をめぐる争いが戦争に発展したものであった。しかし実際は、それを口実にロシアはトルコに干渉して、自らの勢力を南に拡大しようとしていたのに他ならない。ロシアは何か事あるごとに口実をつくり出し、地中海方面への取っ掛かりをつくろとトルコに迫っていたのである。  
   こうしたロシアの試みを見抜いていたトルコは、ロシアの申し入れを突っぱねた。逆切れしたロシアは力づくで自らの要求を満たそうとトルコに宣戦を布告する。こうして、クリミア戦争は勃発した。トルコがロシアに負けてしまうと、ロシアの勢力が地中海にまで伸びて来ることが予想された。そうなると、縄張り争いにロシアというやっかいな新参者まで加わってしまうことになる。実際、開戦してまもなく、ロシアはトルコの艦隊をあっさりと打ち破ってしまった。このままでは、トルコの敗北が確実であると見たイギリスは、フランス、イタリアなどとともにトルコの後ろ立てとなってロシアに戦線を布告する。かくして、ロシア一国に4国が戦争を仕掛けるという国際戦争に発展したのであった。  
 ロシアは黒海の拠点として、クリミア半島にセバストポール要塞を構築していた。言わば、地中海進出のための要と呼べる重要拠点であった。当然、同盟側はこの要塞を落とそうと全兵力を動員して来る。このため、戦場は主にクリミア半島にあるセバスとポール要塞の攻防をめぐって激戦が展開されることになった。    
 産業革命に遅れを取っていたロシアは兵器の性能面でも及ばなかった、大砲は青銅製で鋼鉄製のイギリスの大砲に比べて射程距離も半分ほどで威力もかなり劣っていた。そこでロシアは攻撃よりも守りに専念することになる。まず、湾内に旧式の軍艦を沈めて、同盟側の艦隊が近付けないようにしたのである。その上、市街地全体にとりでを構築し、塹壕を縦横にアリの巣のように張り巡らしたのである。このため、攻防戦は膠着状態となり、実に1年以上もにらみ合いが続くことになった。「戦争と平和」を書き、後に世界的文豪として知られることになる若きトルストイもこの戦いに一兵士として参加していたという。    
  * 打算的で利己的な各国の指導者 *    
 この時、ロシア軍を率いたのはロマノフ王朝11代目のニコライ1世で、体躯は2メートルを越える巨漢で、野心家で激しい気質を持ち、反動的で強力な専制政治を行った皇帝として知られていた。  
         
 この当時、ロシアでは、人の命など何の価値もないと思われていた時代だったので、兵隊が何百人何千人死のうが、皇帝(ツァーリ)にとってはさほど気になるものではなかった。  
 兵士のほとんどは、農奴出身でツァーリの個人的な私有財産か消耗品のような存在であった。事実、農奴は土地や建物と同じで、人格などなく地主によって自由に売買されたりすることも珍しくなかった。    
   ツァーリにとっては、むしろ、軍馬や大砲などの方が重大な関心事で、それらが失われることの方がよっぽど気掛かりなのであった。それが証拠に、ツァーリはクリミア戦争が終わってまもなくすると、戦死した何十万という兵士の遺骨を粉上にすり潰して、農作業の肥料として売り出したのであった。いかに人命を軽んじている時代であると言っても、その愚行さは目に余るものであったという他ない。  
ニコライ1世(1796~1855)、反動的で強力な専制君主として知られていた。冬でも凍らない不凍港を求めて、南進策を強引に押し進めた。  
   一方、フランスの遠征軍を率いたのはナポレオン3世だった。ナポレオン3世は、かのナポレオン・ボナパルトの甥にあたり、かつてヨーロッパに君臨した偉大な英雄の血を受け継いでいた。そのため、彼は何かにつけて偉大な先代と比較され、本人もボナパルトの真似事をしたがったが、とてもボナパルトほどの器はなく、戦略的な才能にも恵まれていない人物であった。  
     
 フランス軍を指揮する能力に欠けていたナポレオン3世は、困り果てた末に、自軍の本営にウィジャボードという霊応盤を持ち込んで降霊術を行うあり様であった。  
   このウィジャボードとは、長方形の板の上にアルファベットや数字が記入された文字盤のことで、降霊術などで霊魂と会話をする時に使われる代物である。 降霊術の際は、この文字盤の上に、プランシェットという文字を指し示すハート型の指示器を置く。  
 この指示器の上に霊媒師が手を置くと、 あちこち動いて質問に答えるというものであった。要するに西洋版のコックリさんと思われるが、ほとんどその目的は興味本位中心で娯楽半分のゲーム感覚で行われることが多かった。    
ナポレオン3世(1808~1873)、ボナパルトの血を受け継いでいたが、戦略的才能はなく、ビスマルクの計略にかかってプロシア軍に捕らえられたりしたので、人々の失望を買い評価は今一低い。    
 ナポレオン3世は、30年以上も前にあの世に行ってしまったボナパルトの霊をこの方法で呼び出して、次なる戦い方やタイミングを聞き出そうとしたのである。    
   全く、前代未聞に思えるほど馬鹿げた行為に違いなかったが、しかし、当の本人にとっては大まじめで、これによって得られた霊界からのお告げは、厳粛な命令となってただちに前線の将兵に伝えられたのである。前線の兵士たちは、霊応盤のお告げだとは知らずに、塹壕掘りから移動、突撃、後退などを忠実に守っていたのであった。  
     イタリアは、この頃、幾つかの国に分裂しており統一国家ではなかった。      
 
   その中で同盟側に加わったのはサルジニアという王国で、小国家に分裂して、お互いに牽制し対立し合っている今こそ全イタリア半島を統一するチャンスだと考えていた。しかし、それにはオーストリアが邪魔であった。1814年のウイーン会議以降、ベネチィア、ロンバルジアなどのイタリア北部の一部はオーストリアの領土として併合されてしまっていたからである。  
サルジニア王国の首相カブール、丸いメガネをかけて実直そうに見えるが、自らの野心を充たすためなら、民衆をどんな目に合わせてもよいとする男であった。    このため、サルジニアがイタリア半島を統一するためには、オーストリアを追い出さねばならなかった。しかし、サルジニア一国の力では無理な話なので、どうしても外国勢力の援助が必要であった。そこでサルジニアは、別に介入する必要もなかったクリミア戦争に1万5千の援軍を送って、イギリス、フランスに恩を売り、その見返りをねらっていたのである。      
 この時、裏で暗躍したのはサルジニア王国の首相カブールで、密かにナポレオン3世に接近し、クリミア戦争が終わると、サルジニアに加勢してオーストリア軍を追いだすという密約を取り付けることに成功していた。しかし、貴族出身でいかにも実直そうに見えたこの男は、実は大変な策略家であった。彼にとってみれば、自分の名声と野望だけが大事で、引き裂かれた民族を統一し、一つの国家にするなどという目標は、ただの建て前に過ぎず、どれほど民衆が傷つき死んで残酷な苦しみに合おうがお構いなしなのであった。  
 イギリスはと言うと、本国がロシアと戦っていながら、ロンドンの銀行は敵国であるはずのロシアに多額の融資を行うといった案配で、まことにのん気というか、仕事と政治とは別だという風に、ひたすら事業拡張に精を出していた。ロンドンの銀行から多額の融資を受けたロシアは、この金で大砲や武器弾薬を大量に購入して、イギリスを攻撃するための戦争資金としたのである。まことに奇妙でとんちんかんな戦争というのはこのことを言うのであろう。    
    * 初の戦争取材が行われる *    
 ところで、このクリミア戦争こそ、民間人の記者によって、生の戦争が取材された最初の戦争である。電信の発明により、イギリスのタイムズ誌はこの時、この戦争の状況を伝えるために民間人を送っていた。これは後の従軍記者のルーツとも呼べる存在であった。しかも、戦争が起こる2年前には、英仏海峡に電信用の海底ケーブルが引かれ、これによって、記者の書いた記事は、ほぼリアルタイムでロンドン市民の茶の間にも報道がなされることになった。まさに、戦争報道は民衆にとって最大の関心事となったのである。こうした戦争人気にあやかり、それをネタにした新聞の発行部数は一桁はね上がったほどである。  
 これまでは、銃後の市民たちは、戦争中であろうが、最前線で何が起こっている皆目わからないのが普通であった。戦争とは、見知らぬ土地で起こっている非現実的でスリルに富んだ冒険活劇のように思われていた。人々のイメージする戦争とは、銃が火を吹き、大砲が轟く中、勇敢な将軍に率いられた勇猛な兵士たちが、一斉に突撃して敵を見事に殲滅するといった勇ましい内容であった。  
 同じ戦闘シーンを書いた記事にしても、記者によっては随分と変わった。ある記者の書いた記事は、「フランス兵たちは一斉に近くの塹壕から飛び出していった。それはまるでハチの大群が群がっていくかのようだった。彼らは敵の要塞をよじのぼり、勇猛果敢に敵の数メートル鼻先を猛烈な勢いで突撃していった。そして、一分後には要塞を陥落せしめ頂上には三色旗が誇らしげにひるがえっているのであった」  
    しかし、別な記者が書くと記事は全然違う感じになった。
「痩せていてとてもマスケット銃など担げないような若い徴集兵が、怖じけづいて退却していた。それを見た将軍がその兵士にすっ飛んで来て、貴様は高貴あるフランス兵ではないのか!と大声で怒鳴った。すると、その若い兵隊は私はそんなフランス人ではありません、ありませんとどもりながら繰り返し続けた。しかし将軍に叱責されて頭に血が上ったのか、その兵隊は興奮状態となり、やにわに高台に上ると、マスケット銃を気違いのように振り回していたが、扱い方もわからぬのか、一発も撃たぬまま胸を蜂の巣にされて、塹壕の中にもんどり打って倒れ込んだ」
     
 このように、取材する記者が変われば、記事は胸をときめかせる冒険活劇にも、あさましい内容にも変化してしまうということであろうか。こうした戦争のありさまは、翌日の朝には記事となって新聞に載ったのである。ロンドン市民はそれを見て奇妙な感覚に浸っていた。最初のころには、そうした記事内には、大砲の所在地、火薬の置き場所、所属部隊名、作戦の日時、兵士の士気など軍の機密事項にかかわることまでが載っていることが多かった。当然それを読んだロシアのスパイが、その日のうちに本国に知らせることになる。まもなく、こうした記事には軍の検閲が入ることになり、取材活動は制限されていくことになる。  
  * ナイチンゲールの活躍 *    
 こうしたちぐはぐな戦争にあって、一人の女性の毅然たる行動がこの戦争に一末の輝きを与えることになった。その女性こそ、後の看護婦の理想とされ、白衣の天使と呼ばれることになるイタリア、フィレンツェ生まれのイギリス人、フローレンス・ナイチンゲールであった。  
         
 我々は、今日、ナイチンゲールと聞くと、戦争中に怪我をした兵士たちを看護した看護婦のルーツのように考えている。  
 この頃、負傷した兵士の看護などという仕事は身分の卑しい女性の仕事のように考えられている時代であった。  
   ナイチンゲールは上流階級の家庭で生まれ、何一つ不自由のない生活を送っていたにも関わらず、若いうちから、社会問題や病院の医療問題に関心を持ち、結婚を断念してまでヨーロッパ各地を研究して学んだ女性である。  
フローレンス・ナイチンゲール
(1820~1910)
   
     彼女の心を揺り動かしたのは、タイムズ紙に掲載されたある記事で、それによると、ある基地での悲惨な状態が書かれていた。それは実に生々しい描写で人々にも多大な衝撃をもたらす内容であった。  
「負傷兵は、苦しみもだえても、医療品は不足し手術する外科医もいなければ看護婦もいない。傷口を手当てするガーゼすらなく、包帯する布さえもないありさまだ。シーツや古着を切り裂いてそれに代用しているほどである。寒さと疫病に悩みながら、毎日多くの兵士が命を落としている。我々には、なぜ、慈善婦人会がないのか? 優しい心を持ち、献身的なイギリス女性はたくさんいるはずなのに・・・」  
 この記事を見たナイチンゲールは、早速、私的な看護婦団募集に乗り出した。そして、1か月後、38名の看護婦を率いて野戦病院におもむいたのである。    
 彼女は病院に到着するなり、身を粉にして兵士の看護にあたったのであった。それは超人的と思えるほどで、彼女によって、一命を取り留めた兵士はそれこそ数知れなかった。 医者が見放した重傷者さえも、彼女の驚異的な献身的介護によって救われたのである。
十数時間も立ちっ放しで、フラフラになりながらも負傷者の看護にあたったこともあった。この頃は、麻酔薬もまだ発明されたばかりで、とても全軍に浸透している状態ではなく、手術は麻酔なしで行われることも少なくなかった。戦いで負傷し止むなく手足を切断せねばならない時も、意識を失ってしまえばまだ救われるが、そうでない場合は、自分の身体の一部がノコギリで引かれ、ギシギシと骨が砕かれていく時の恐ろしい音をじかに聞かねばならなかったのである。
 
 こうした絶望的な手術を受けるくらいなら死んだ方がましだと自暴自棄になり、医者の言うことを聞かぬ兵士も、彼女の説得に生きる勇気を与えられ、おとなしくなって手術を受けたのであった。死相のあらわれた患者でさえも、彼女に見つめられ、手をにぎられると、急にほほに赤みがさしていくようであった。彼女は兵士たちの苦痛をも安らぎに変えていけるようであった。    
         
 夜ともなれば、瀕死の病人があげる苦痛の声が暗い病室内のあちこちに響き渡る。  
   そんな暗闇の中、彼女は、ランプを片手に部屋から部屋へ負傷兵の看護を続けたのであった。  
 死にかけた重傷者も、部屋の入口に彼女の持つランプの灯火を感じた時、どれほど励まされたことであろうか。それは、まさしく、ランプの貴婦人と呼ばれるにふさわしいものであった。    
  ナイチンゲールの超人的な活躍によって、それまで4割以上だった死亡率は4パーセント以下にまで減少した。    
 こうした約2年にわたる彼女の献身的な看護によって、驚くほど多くの人間が死の淵から蘇ったのであった。それはまさに奇跡としか思えぬことであった。しかも、彼女は敵味方の区別をすることなく、運ばれて来るロシア兵に対しても自軍の兵士と同様に手厚い看護をほどこしたのであった。  
  * 意味なき戦争にさす一条の光 *    
 結局、クリミア戦争は3年以上も続いた。ロシア側220万、同盟側100万の兵まで動員し、毒ガス攻撃まで使ったこの戦争は、なかなか決着がつかず、しかも双方ともに不手際の連続で膨大な戦死者を重ねただけであった。イギリスでは莫大な戦費が原因で内政が破綻していまい、ニコライ1世はインフルエンザにかかって戦争半ばで死亡し、両陣営ともに戦争の継続をするどころではなくなっていた。講和条約が結ばれ、ようやく戦争が終わっても、どこが戦勝国なのかわからぬほどで、人々には虚脱感しか残らなかった。  
 しかし、最悪で愚か極まりないこの戦争の中にあって、ナイチンゲールのクリミアでの献身的行為は、世界中に感動をあたえ、人々に生きる勇気と希望を与えることになった。人々はまぎれもなく、そこにかけがえのない一条の光を見たのであった。彼女の勇気ある行動が、この戦争で死んだ多くの犠牲者の御霊の慰めとなったと思えば、せめてもの救いになったと見るべきであろうか。      
 その後、彼女の行為がきっかけとなって、赤十字がつくられることになった。今日、赤十字が戦争や災害時に、敵味方の区別なく人道支援を行う中立機関であることは周知の事実である。しかし、現代の戦争では、多くの赤十字の施設も攻撃されたり、テロの対象にされることも少なくはない。我々はこうした深い悲しみを真摯に受け止めねばならないだろう。