散歩のついでに・・・

犬も歩けば棒にあたる。デジカメを常に持ち歩き、気ままに撮った写真を中心に思い思いに綴っています。

散歩 保土ヶ谷区(和田町-上星川)

2008-01-20 20:46:14 | 散歩
相鉄和田町駅を下車して帷子川に架かる和田橋渡ってすぐ左手にある和田地蔵
提灯に元禄6年(1696)9月奉造と書かれていますので、かなり歴史ある地蔵尊です。
周りはきれいになっており、地元に親しまれているお地蔵様のようです。
和田町商店がを抜けて国道16号を渡り、横浜銀行の脇の道を進んで行くと右手に幼稚園がありその先にあるのが、高野山真言宗大聖山真福寺。
山門のそばには元和田町駅裏手の台地にあったお地蔵様があります。満願地蔵尊といい、昔、その台地には浅間宝寺といる寺がありましたが、平家の残党を隠したというので焼き討ちに合い焼失。後に焼け跡からたくさんの遺骨が出て来てその亡き霊を慰めるため、真福寺を建てた田口重勝の弟重信が地蔵堂を建立して祀ったそうです。
明治初年星川小学校の最初の校舎を建てるのに支障をきたし、現在のこの場所に移設。
真福寺山門を左手に見ながら奥に進むと階段坂があり、町名の由来になった和田稲荷があります。
治承4年(1180)源頼朝が平家を追討するため、白根不動明王に參籠したときお供の和田義盛がこの地に宿泊したその夜義盛の夢枕に十一面観音が現れ「汝知らすや、此地に稲荷社有事を、今より汝この神を信ぜば心願成就すべしと」告げたので頼朝公にこの話をし、社地を喜捨するようにすすめた。この話を聞き喜んだ頼朝は八段畝歩の境内と一反二十四歩の社地を寄附したそうです。
その後、義盛は文治元年(1185)この地に稲荷の社と観音の靈場とを建立しました。
その後建久4年(1192)頼朝が狩りに来た時、この稲荷社に詣で和田稲荷と名付けたそうです。
階段を登り道路を越えて更に坂道を登り切ると見えて来る公園が常盤公園
保土ケ谷の大資産家であった岡野欣之助が、自らの資産を投じて常盤台一帯に所有していた別荘「常盤園」を造成し、大正3年10月に一般公開しました。
岡野欣之助の祖父岡野良親と父勘四郎は岡野新田を開拓。
常盤園は最大時の面積は三十二町六段歩(東京ドーム7個分?)あったそうです。
敷地の一部で明治29年米国からワイン醸造を学んで帰国した中垣秀雄が皇国ぶどう酒の醸造所を創立し、帷子ぶどう園(現・横浜国大付近)で盛んにぶどうを栽培したそうです。
現在の「常盤公園」は、常盤園の入口付近の一部(約6分の1)を昭和17年に横浜市が買収して開設。
今も名残としてバス停に常盤園入口や常盤園前があります。
公園内にある畠山重忠公郎党恩讐慰霊碑があり、元久3年(1206)6月22日の二俣川・鶴ヶ峰合戦で討死した畠山重忠公の郎党の内、二十騎がここで最後を遂げ埋められ塚が建てられたそうで昭和32年5月に地元有志が慰霊の碑をこの場所に建てたもの。
二俣川・鶴ヶ峰に残る合戦の跡は折りをみて散策してみたいと思います。
公園を後にして民家の間を歩いて行くと信号の先にあった石碑です。
故田口良太郎翁顕彰碑と刻まれており、横浜市長の名前も刻まれています。
横浜市にゆかりのある人だとは想像できますが、昭和38年(1963)に建てられた事以外はどのような実績のある人かは調べた限りでは判りません。
地域開発や発展に寄与した人ではなかろうかとも思えます。
信号を渡り細い道をうねうねと歩いて行き最終ポイント釜台つづら坂
今回のルートは下りですので非常に楽です。
保土ヶ谷区のサイトによれば、延長は163mで高低差は38mで区内の階段第1位!だそうです。
この階段を登りでなく下るのですから楽です。
今回の散歩コースもこの階段坂を考えて上星川からではなく和田町からにしました。
高台の上からは見晴らしがよいです。
ついでに町名の「釜台」は「釜壇山」に由来しているそうで、かつて釜壇山には、丸く穴を開けた石があったそうですが、それは源頼朝が狩りに向かう途中の休憩時に茶をたてた「釜壇の石」であると言われています。その石についた苔や、その石を削って飲むと、風邪や咳の病に効くと信じられていました。ー柱の解説文ー
今みたいに交通の発達していない鎌倉時代に鎌倉と保土ヶ谷の交流はなかったと思っていましたが、今回の散策では源頼朝や和田義盛、畠山重忠と鎌倉時代に活躍した人に関連した事物があり、散歩の楽しみが増えました。これからも新たな発見を楽しみながら散歩したいと思います。
では。
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