本日も天気が良く、散策がてら相鉄沿線武蔵国の神社巡り。
まずは、相鉄平沼橋駅から出発。
駅からすぐの水天宮平沼神社。
七五三の参拝のご家族が狭い境内に4、5組がいて遠目から社殿を撮影して参拝。
御朱印は現在は書いて頂けな旨の張り紙があり、お参りしだけして次へ。
御祭神:天之御中主大神 ( あめのみなかぬしのおおかみ )、安徳天皇 ( あんとくてんのう )
由緒:1839(天保10)年、平沼新田を開拓された平沼九兵衛翁が新田の守護神としてお祀りし創建された。
明治初期に神社の社格制度に依り、平沼町の鎮守様として指定村社に列せられると共に、名称も平沼神社と改称された。
今日まで水天宮さんの名称で親しまれ、有名と成り現在では水天宮平沼神社と称している。
水天宮平沼神社は初め、現在の西区西平沼町に有る帷子川の元平沼橋附近の横浜道添に鎮座していたが、御鎮座地周辺の発展と共にその場所を参度転じ文久二年現在地に御鎮座され、大正二年に本殿の前に拝殿を新築して現在の社殿が完成した。
境内末社として、境内には商売繁盛・五穀豊穰の神様平沼稲荷神社・火伏、火防、竈の神様竈三柱神社・学問芸道上達、試験合格の神様平沼天満宮がお祀りされている。
次に訪れたのは戸部の杉山神社。
大国様が祀られており、狛犬の手前に狛鼠が鎮座しており、左の狛鼠はメスで女性は反時計回りに狛鼠を回して願掛けをして、男性は右の狛鼠を時計回りに回して願掛けをするそうです。
左の狛鼠は参拝者が回したままで社殿に向いていて背中を見せていました。
戸部杉山神社 #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
御祭神:大己貴神 ( おおなむちのかみ )
御由緒:当神社は、白鳳三年弥生二十日の創建と言う。武相の地杉山社多きも、延喜式内の杉山神社は当社なりと言伝う。
当神社の効顕の著しきを以て近隣に杉山社の名称多くなれりとも言う。古くより武蔵国戸部村の鎮守にして当地開拓の祖神なり。
歴代の国守、地頭、代官等の尊信甚だ厚く、幕府よりは、御朱印を附与しありと言う。
御祭神は天孫降臨以前に己に国土開拓経営に威霊を発揮せられ給う。即ち日本最初の神社祭神なり。
貧賊病弱を救癒して産業を授けて富益を増し、医薬の道を興して氏族の繁栄の基を計り、剣爭を用いずして温和の中に諸事泰平の国本を培養せられ、国政家斎の法を授け給う。
知謀悟道の祖を開き、国利民福を念とし給う。自ら苦反して以て他を憐み給ひ、即ち当地開拓の先哲達人先ず此の大神を奉祀し、鎮護の祈願せんため、勧請せしなり。
次は石崎川、JR・相鉄線、帷子川を橋や高架橋を渡って越えて旧東海道を目指して歩く途中、新田間川の手前。
岡野神社
境内に奥行きがなく、埋立地に勧請された神社らしくこじんまりとした神社です。
御祭神:大物主神 ( おおものぬしのかみ )、稲荷大神 ( いなりのおおかみ )
御由緒:弘化四年 (一八四七年) 未年正月、三河国碧海郡川島村 太田佐兵衛なる人、武蔵国久良岐郡横浜浦にて新田開発を計画、讃岐国象頭山金刀比羅大権現へ祈願し、艱難辛苦の末、遂に開発に成功したので神助に感謝し、象頭山へ登山、その御神体を受けて新田総鎮守として崇敬し、日夜奉仕した。
かくて年々三月、十月各十日を以て祭日と定めた。
安政六年 (一八五九年) 未年中、当地御開港中の御地所拝借人 総代太田屋、新田農夫総代等申し合せ、同年十月十日大祭を執行し、更に、太田新田の太田一丁目より同八丁目迄入舟町と改まり、以上九ヶ町の総鎮守と崇め奉った。
慶応二年 (一八六六年) 寅年十月二十日、末広町より出火、大火の為御用地となり、その替地として、現在の尾上町二丁目に至る場所、即ち旧緑町に移転した。
明治六年 (一八七三年) 酉年中、相生町三丁目より出火、その折当社も類焼にかかったので伊勢山へ鎮座したが、偶々大正十二年 (一九二三年) 九月一日の関東大震災に遭遇し、神殿悉く焼失した為、昭和三年 (一九二八年) 二月、中区新山下町三丁目五二番地の場所に移転の止むなきに至ったのである。
元来、岡野の里は、往時入海で、旧記によれば天保 (一八三〇~一八四三年) の初め頃より陸地少しく現れていた。時に保土ヶ谷駅帷子の里に住していた岡野勘四郎氏が埋め立てを始め、次々に新田として開拓したもので、明治三十四年四月横浜市に編入せられ現在の様な地形となったが、住する者は未だ少なかったのである。然し土地発展の為、追々来たり住む者が増えて来た事は喜ばしい事であった。
旧東海道を保土ヶ谷方面に歩いて、松原商店街を抜け、天王町商店街。
橘樹神社。
御祭神:素盞嗚尊 ( すさのおのみこと )
ご由緒:当神社は、文治二年 (約八百年前)、源頼朝公天下の平和を賀し国中の大小の神祇に奉幣し祭祀の典を行った時の創建とつたえられる。
即ち京都祇園社 (現在の八坂神社) の御分霊を勧請奉祀した。故に当社も祇園社、牛頭天王社、天王宮、橘樹社等社名が変わり大正十年、正式に現在の社名となった。
天王町、橘樹神社。 #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
全天球カメラTHETAの撮影用に長さ2mの一脚を購入したので使って撮影してみるとちょっとドローンで上空から撮影したような画像になりました。
旧東海道と相州道が交差するところにある庚申塔(2基)
ここを右に曲がってすぐに神明社。
道路と並行して続く参道。今回お参りしている神社の中で一番長い参道です。
神戸 神明社。 #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
御祭神:天照皇大神 ( あまてらすすめおおみかみ )
神明社御由緒 (旧伊勢神宮領榛谷御廚総鎮守)
今から一千年以上昔、平安時代の中ごろ、保土ヶ谷の地が榛谷 (はんがや) とよばれていた頃、天禄元年 (九七〇)、当社の御祭神・伊勢の天照皇大神が、武州御廚の庄の内、榛谷の峯に影向し、それから川井、二俣川、下保土ヶ谷の宮林へと三遷の後、嘉禄元年 (一二二五)、神託があって、神明の下宮を建て、当地を神戸と号し、神宮寺を満福寺と名付け、経蔵堂を神照寺と称したという。これにより榛谷御廚八郷の総鎮守として広大な社領を免ぜられ、宮司以下数十人の禰宜・社人・供僧・巫女が仕え、年に七十五度の祭祀を営み隆盛を極めたという。
その後、戦乱の時代に一時衰退したが、天正十八年 (一五九〇)、徳川氏入国の時、社殿の造営が行われ、御朱印地が安堵された。また元和五年 (一六一九)、宮居を神戸山々頂から現在の処に遷し、社殿の造営、社頭の整備が行われた。このとき建てられた社殿が、幾度かの修営を経て現在まで引き継がれている。明治二年の修営には、明治天皇御東行の時、本陣苅部清兵衛宅に臨時に建てられた鳳輦安置所の材を下賜された。明治六年、村社に列せられ、神饌幣帛料供進の神社に指定された。
ここまでひらすら神社巡りをしてきましたが、ちょっと目先を変えて神明社から道路を挟んで反対側にある横浜ビジネスパークのオブジェを散策。
金属のオブジェでサイ、象、壁から出てビルに消える犬など多種のオブジェが敷地内のいたるところにあります。
星川駅前交差点を右に入ってまたすぐに右に曲がり急坂。
山の上にある星川の杉山神社。
御祭神:日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
ご由緒:東にはるか上総の山々、西に霊峰富士山をのぞむ神丘に鎮まります当神社が初めて国史上にあらわれるのは「続日本後記」です。
その承和5年(838)の2月の条に「武蔵国都築枌(杉)山神が霊験あらたかなるをもって宮社に列せられた」とあり、同16年(848)5月の条には「武蔵国旡位枌(杉)山名神」が従5位下を奉授されたとあります。
さらに降って「江戸名所図会」に「新町より8丁あまり北の方下星川村にあり延喜式内の神社にして云々」とあるように「延喜式」神名帳に武蔵国44座の中「都築郡一座(小社)」と記載されており、多摩川以南都築、橘樹、久良岐三郡において唯一の式内社との伝承が古くより語り継がれております。
御神紋は丸に三本杉の紋で神聖な森を表しております。
星川杉山神社 #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
本日2社目の杉山神社ですが、保土ヶ谷区内には他にも和田町と仏向町、上星川、川島町にも杉山神社があります。
(神奈川神社庁で検索すると星川と和田町、川島町の3社のみ)
神社の名前が同じなのに御祭神は大己貴神(戸部)、日本武尊(星川)、日本武尊・五十猛命(川島)と異なっています。
以上で本日の神社巡りは終了。
保土ヶ谷公園を通って銀杏並木の坂を下って秋を感じつつ帰路へ。
神奈川県立保土ヶ谷公園。 #theta360 - Spherical Image - RICOH THETA
ここ数年、銀杏並木の黄葉にムラがあるように思えてしょうがない。