新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

パエリアを食べたい

2016年06月25日 | 日記


 マドリッドで本場のパエリアを食べたくなった。ガイドブックに乗っているレストランに入った。パンは注文しなくても出てくる。ガーリック味のバターをつけてパンをかじり、極上の赤ワインを楽しむ。パエリアはおいしかった。
 パエリアの素を買って帰って、家でもつくりたい。本場のパエリアの素がほしい。スーパーで探し求めた。箱入りの素を売っているはずだ。なかなか見つからない。見ず知らずの女性客の買いものかごに私たちが探し求めていた箱が入っているのに気づいて、あつかましくもその人に
「Perdon, donde esta este?(すみません、これ、どこですか)」
「Aqui!(ここです)」
 どうにか一箱買えた。
 帰国後それを使ってさっそくパエリアをつくることにした。必要なシーフードは帰国してから別に買いそろえた。箱入りの素はコメにサフランがまぶしてあるはずだ。炊飯器でシーフードとともに炊きあがった。あれ、ご飯に色がついていない。どうしたことか。買ってきたのは単なるコメだったのだ。箱入りのコメを1キロ買ってきただけ・・。
 マドリッドのスーパーにはさまざまなメーカーのコメが1キロ程度の小さな箱入りでたくさん並んでいた。向こうではコメを箱入りで売っているようだ。

 スペインでもう一つ食べてみたかったのがイベリコ豚だ。これは幸いなことにホテルの朝食で毎朝食べることができた。ホテルの朝食はビュッフェ形式で好きなものを好きなだけとって食べることができる。豊富な種類のパンにさまざまなジャムやバター、チーズに加えてハム、サラミ類がついている。その一画にかならずイベリコ豚の削ぎ落としが並んでいた。葉っぱものの野菜は見あたらず、代わりに果物が数種類並んでいた。日本ではまだ早いスイカもあった。
 下の写真2枚目の食材をのせてある台は冷蔵物をおく台になっており、表面がつねに冷たく冷やされている。このような台は日本にもあるのだろうか。
  





ユダヤ人街

2016年06月24日 | 日記

    
 まずは写真1枚目の街頭表示を見てほしい。「旧ユダヤ人街-1492年に追放されるまでヘブライ人たちが住んでいた街区の中心」と書いてある。ここはセゴビアの街の一画だ。1492年といえばグラナダを陥落させ、レコンキスタを完成させた歳だ。700年代はじめアフリカ北部から南北わずか14キロしかないジブラルタル海峡を船で渡ってきたアラブ人たちによって、瞬く間にイベリア半島が制圧されてしまった。それからすぐにキリスト教徒たちが国土を取り返す運動レコンキスタが始まる。およそ800年近くかかってイスラム教徒から国土を完全に取りもどしたのが1492年だった。ときの国王はイサベル女王で熱心なカトリック信者だった。女王はすぐさまユダヤ人追放令を出した。それがこの街頭表示に書かれている「1492年に追放されるまで」の意味だ。
 写真3枚目はコルドバのユダヤ人街で、「花の小道」と称されて観光客の目を楽しませている。
 セゴビアにしてもコルドバにしても観光案内の地図にユダヤ人街として紹介されているが、とくべつ変わった建物があるわけではない。むかしここにユダヤ人たちが住んでいたということを示しているだけだ。トレドにもあったはずだと思ってミシュランのガイドブックを読んでみると、ユダヤ人街としては存在しないが、むかしは多くのユダヤ人がこの街に住んでいたことが説明してある。「トレドはスペインではずば抜けて重要なユダヤ人の街だった。12世紀にはユダヤ人の数12000に及び、フェルディナンドⅢ世のもとで人種混合が奨励され、文化の華が開き、街は一大知的拠点になった。・・」とある。商売で成功したユダヤ人からは巨額の献金を受け、国庫も潤った。それが14世紀半ばごろから雲行きが変わり、1492年のユダヤ人追放令へとつながる。トレドでも当時はユダヤ人がある程度まとまって居住していたはずだが、いまは跡形がない。マドリッドの街にもユダヤ人街の跡形はない。ユダヤ人への偏見をいちはやく消し去ったのがマドリッド、トレドという政治文化の中心地で、観光の目玉としていまに残しているのがセゴビア、コルドバだといえないだろうか。
 30数年前、ユダヤ人たちがまだ住んでいるユダヤ人街を歩いたことがある。スペインとの国境を越えたばかりのポルトガルの街カステーロ・デ・ビデでのことだ。ガイドブックに載っていたので歩いてみた。若かった私にとって当時は怖いものなしだった。老人たちが家の前でなにをするでもなくじっと座り込んでいた。
 観光地に存在するユダヤ人街といのは、ただかつてその地区にユダヤ人が住んでいたというだけのことを知らせるためのものなのだろうか。建物に特段の特徴があるわけでもなく、道路の狭さもおなじ街の他の区域とたいして変わらない。人種的差別につながることを恐れてユダヤ人たちがその街に与えた影響などをあえて記述しないのだとしたら、マドリッドやトレドのようにその区域自体の表示を破棄してしまってもよいのではなかろうか。







語学力の乏しさを痛感した

2016年06月23日 | 日記


 マドリッドのアト-チャ駅からコルドバ行きの高速列車に乗り込んだ。座席は直前に自動券売機を操作して買った指定席で、1号車だった。妻と私のほか数人が乗ってきて発車した。よく空いている。座席もゆったりしていて気持ちよい。コルドバまで2時間近くかかる。車掌が検札に来たあと軽食をもって歩いていた。そこまで時間が経過してふと気づいた。ここは日本でいうグリーン車だったのだ、と。高速列車は全車指定席で、券売機では多くの場合TuristaとPreferenteに分かれている。そして私が操作していたタッチパネル式の液晶画面ではたまたまTuristaの文字が消えていたので私はその意味が分からないままにPreferenteを押したのだった。後でよくよく考えてみるとTuristaの席が満席でPreferenteだけが売れ残っていたということになる。むかしは1等車、2等車のように数字で示していて、1等車の客と2等車の客は待合室も別になっていた。日本でも1等車、2等車と呼んでいた。それが普通車、グリーン車に置き換えられ、スペインではTuristaとPreferenteに置き換えられたわけだ。Turistaは英語のTouristにあたるのだろう。Preferenteは英語のpreferenceなどと関連させて意味を連想するしかないようだ。あえて邦訳すれば「一般旅行者」と「優先旅行者」ということになる。コルドバまでは列車の本数が多いのだから券売機を操作する時点でここまで考えが及んでいれば、時間を遅らせて他の空いている列車に乗ることができた。このむだ遣いは語学力のなさを露呈するものだった。
 私のスペイン語力はひじょうにあいまいだ。ポルトガル語なら書いてあるものはほぼ理解できるのだが、スペイン語になるとときどき分からない単語にぶつかる。スペイン語とポルトガル語はもともとは俗ラテン語から派生した兄弟のような関係にある。しかしそう単純ではない。スペインへ旅立つまえに図書館で「やさしいスペイン会話」を借りてきて、練習問題を解きながら通読しようとした。ポルトガル語との違いを押さえておけばよいと思ったのだが、半分読んで時間切れになった。使用する単語が異なるのがいちばんの問題だ。ホテルの部屋をポルトガル語でクアルトというが、スペイン語ではアビタシオンを使うという具合だ。
 空港からホテルまで深夜にタクシーに乗った。運転手との会話で「私はポルトガル語ができるけどスペイン語とはすこしディフェレンテですね」といったら、運転手が「セパラード」といいかえていた。私がいったディフェレンテは英語のdifferentからの類推にすぎない。ポルトガル語、英語混じりのなんとも珍妙なことばに話を合わせてくれた運転手さんにはチップをはずんでおいた。
 帰国の日は早朝5時にホテルからタクシーに乗った。そのときのタクシーがトヨタのプリウスで、私たちがハポンへ帰るというと、ハポンではプリウスはいくらするのか、と訊いてきた。300万円をユーロに直そうとしたが頭が回転せず、3万ユーロといったつもりだが通じたかどうか。この運転手も気のいい人だった。私はタクシーに乗るとボラれないためにいつも運転手になにやかやと話しかける。しかしこのようにいいかげんなスペイン語では逆効果になるかもしれないな。






3つの川

2016年06月22日 | 日記

        
 スペインで川を見ながら思いをはせた。
 コルドバを流れるグアダルキビル川(写真1枚目)はセビーリャを通過してカディスの北で大西洋に流れ出る。カディスの港を大西洋側にもち、コルドバとセビーリャという2大都市を結ぶこの川は鉄道がなかった時代にあっては水上交通におおいに利用されたに違いない。1480年代末だったかコロンはカスティーリャのイサベラ女王に謁見するべくセビーリャに赴く。ところが女王はすでにカスティーリャを去っていた。当時のカスティーリャ王国は首都を定めず、王室が定期的に移動し、王室が滞在している街が首都だということになっていた。イサベラ女王がコルドバにいることを聞き及んだコロンはさっそくコルドバへと向かう。このとき王室もコロンもグアダルキビル川に船を浮かべて移動したのではなかったか。コルドバのアルカセル(写真2枚目)はコロンがイサベル女王に謁見した場所だといわれている(写真3枚目)。
 コロンはコロンブスのこと。イタリア、ジェノヴァの生まれとされ、名前はColomboになるはず。だが当時ラテン語で文章を書いてサインしたので、そのサインはラテン語名のColumbusかColombus。しかし実際にはカスティーリャ女王の援助を得てアメリカへと航海したので女王に送った手紙にはカスティーリャ語(スペイン語)名のColon(うしろのoのうえにアクセント記号が必要)を使っている。

 トレドを流れるタホ(Tajo)川(写真4枚目)は、そのまま西へ西へと流れ、ポルトガルのリスボンへと流れ着く。ポルトガルではテージョ(Tejo)川と呼ばれる。トレドはこのタホ川に取り囲まれるように成立した自然の要塞といった風情を呈している。タホ川があれば城壁は要らないと思われるほどだがヨーロッパの主要都市に見られるものとおなじタイプの城壁が周囲に張りめぐらされている。

 セゴビアを流れるエレスマ川(写真5枚目)、カスティーリャの王宮が置かれていたバリャドリッドを流れるピスエルガ川はともにドゥエロ川の支流になる。そしてドゥエロ川こそがポルトガルに入るとドウロ川と名前を変え、ポルトで大西洋へと注ぐ。ドゥエロ川の流域もドウロ川の流域もともにワインの名産地になっている。水の質がよい証拠だろう。ことにドウロ川流域でつくるドウロ産のワイン、なかでもブランデーを加えたポートワインはいまでは世界的に有名だ。

 川の流れを見てさまざまなことに思いをはせるのは楽しいものだ。





エル・コルテ・イングレス

2016年06月21日 | 日記

      
 エル・コルテ・イングレス。これはマドリッドにあるデパート兼スーパーマーケットの名前です。マドリッドのデパート、スーパーはこれしかないといっても過言ではないようです。マドリッド市内に9店舗を展開していますから、もう独占状態だといえます。そのすべてが地下鉄の駅のすぐそばにあります。ホテルにチェックインしたとき、「マドリッドの地図です」といって1枚の地図を手渡されました。一瞬これは便利そうだと思ったのですが、よく見るとエル・コルテ・イングレスの9つの店舗の位置を記した宣伝用の地図を兼ねていました。地下鉄の線が描かれておらず、あまり役立ちませんでしたが、エル・コルテ・イングレスの企業としての勢いを知るのに格好の資料になりました。街を歩いていてもエル・コルテ・イングレスのレジ袋を下げた人をたびたび目にしました。
 マドリッド第一の繁華街であり、東京の日本橋に相当するプエルタ・デル・ソルに大きな店舗を有し、そのそばに書店、さらにそのそばにもう1店舗、スポーツ用品専門の店舗を建設中でした。プエルタ・デル・ソルを乗っ取る勢いです。
 このデパート兼スーパーとの出会いはポルトガル、リスボンへ行ったときにさかのぼります。リスボンでは1軒だけでしたが地下鉄の駅に直結し、私のような車をもたない旅行者は重宝しました。毎日このスーパーで買いものをしてホテルへ帰りました。スーパーとはいえ、果物やトマトなどは1個単位で量り売りしてくれます。ポルトへ移動したときにもやはり地下鉄駅のそばにエル・コルテ・イングレスの店舗がありました。
 日本の郊外型スーパーと違って駐車場を併設していません。リスボンでもポルトでもマドリッドでも利用客はみな地下鉄で買いものに行きます。
 それにしても、ひとつのデパート兼スーパーが独占企業として幅をきかせる状況ははたしてよいのでしょうか。競争相手があってはじめて価格を下げ、消費者をより多くつかもうと努力するのではないでしょうか。スペイン経済の脆弱さを垣間見る気がしました。

 写真は左から順にプエルタ・デル・ソルにあるエル・コルテ・イングレスの建物、スーパーのレジ、買いものかご、デパートの子ども服売り場です。買いものかごは大きめでキャスターつき、レジではベルトコンベヤーに客が商品を乗せ、いすに腰掛けた店員がカードリーダーで商品のバーコードを順に読みとっていきます。