新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

デジャヴュな高橋源一郎

2015年06月21日 | 日記

 高橋源一郎「ぼくらの民主主義なんだぜ」を買った。朝日新聞の論壇時評は時間が許すかぎり読んでいる。だが朝のあわただしい時間だし、はじめのうちは読み漏らしたものもあったはずだから、この機会に1冊買ってときどき読もうと思った。
 最初の何篇かを読んでいて、ふとマイク・ロイコのコラムを思い出した。世間の常識を疑い、官僚を疑い、慣習や制度を疑いながら、自分の考えを組み立てていく高橋のその姿勢が、アメリカ、シカゴ・トリビューン紙で長く健筆をふるったマイク・ロイコのそれにそっくりなのだ。
 マイク・ロイコは1980年代後半から1990年代前半にかけてジャパン・タイムズ紙にそのコラムが週2回転載されていたコラムニストで、私はその魅力にとりつかれて切り抜きを集めていた。切り抜きはかなりの数になっていた。記憶に残るコラムがいくつかある。
 メジャーリーグのむかしの選手はつわものぞろいだった。酒癖が悪く酒を飲んでは非行を犯し、1日に2度も逮捕されながら、試合に出るとホームランをかっ飛ばす。そんな選手ばかり集めて夢のチームを組んでみせる。伝説のスラッガー、ベーブ・ルースのベーブはベイビーのことだ。野球以外は赤ちゃんなみだった。
 子どもの名前にもブームがある。自分なら子どもにこんな名前をつける、とこわもての名前を挙げてみせる。
 上流階級の奥さまたちのようなdo-goodersには手厳しい。お上品な奥様たちがよいと思ってやっているボランティア活動が、じつは何の役にも立ってないことを示してみせる。
 私がもっとも好きで、紹介したり引用したりしたのは、「ガラス拭きの若者が光を入れてくれた」と題するコラムだった。
 いやな1日の始まりは雨で地下室が水浸し。水を掻き出し、税務署へ納める小切手を切る。車に飛び乗って会社へ向かう。車が信号待ちしているところへ、いきなりフロントガラスに石鹸水が飛んでくる。若者がスポンジをもって窓ガラスをふかせてくれという合図を送ってくる。そんなものいらない、とばかりにエンジンをふかして発車する。が、ちょっと気になる。あの若者は職がなくてもまじめに働こうとしている。自分はあの若者の冷蔵庫を満たしてやれるぐらいの小遣いをポケットにしのばせている。気を入れかえて車をUターンさせる。若者はていねいにフロントガラスをふいてくれた。会社に着いて秘書に「グッド・モーニング」とあいさつされ、「バッド・モーニング」と返す。洗面所でふと鏡を見ると、その日のイライラの原因が映っていた。
 コラムの切り抜きはすべて捨ててしまったし、邦訳をおさめたフロッピーもなくしてしまった。バカなことをした。詳しく紹介したくてもできなくなってしまった。返すがえすも残念だ!





五島にも中国漁船出没

2015年06月20日 | 日記

 長崎県五島列島、福江島を訪れたのは2003年だったか。福江島は近所に住むISさんの故郷であり、ISさんを含めて7人で訪問した。山のなかで生活している私たちにとって海は別世界だった。文字どおりにはしゃぎまわった。船を出してもらって海釣りに出た。川でさえ釣りなどしない私でも、釣り糸を垂れればあっという間に2匹も食いついてくる。海にも釣りにも慣れない素人集団を波の穏やかな入り江で楽しませてくれたのは、船主であるISさんのお兄さんだった。
 そんなのどかな五島の海に、最近、中国漁船の船団が現れているらしい。新聞で読んだのかネットの記事で読んだのかさえ忘れてしまい、正確なことは書けないが、中国漁船が大挙して台風から避難してきたり、沖合で水産資源を根こそぎ捕獲しているらしい。中国漁船が役立たなくなった漁獲網をそのまま海中に残して行ってしまうために、それが五島の漁船のスクリューに巻きつき、動きが取れなくなったこともあるという。
 中国が漁獲量を増やすことに躍起になるのにはわけがある。経済的に発展し、豊かな暮らしをするようになってきた13億の国民の胃袋を満たすために必要な漁獲資源を確保できるだけの海岸線が短かすぎるのだ。ある漁業専門家によれば、日本は島国であるおかげで国土面積は世界で61番目であるにもかかわらず、海の広さ(200カイリ排他的経済水域)は6番目であり、海の体積は4番目になるそうだ(日本近海は深海が多い)。外国に比べても海の資源に恵まれている理由がここにある。
 中国がいま尖閣諸島を埋め立ていることも軍事目的だけではないはずだ。東に広大無辺な太平洋が広がっている日本に比べ、東にちょっと行くと日本、台湾、フィリピンなどとうっとうしい国ぐにが立ちはだかる中国の人たちは、自分たちの国こそ真ん「中」の「華」だと喜んではいられないのだろう。





むかしの絵は読み解くものだ

2015年06月07日 | 日記


 「ウズ・ルジアダス」の第8歌は、ヴァスコ・ダ・ガマの兄パウロ・ダ・ガマがインド南部に住む部族の高官に、ポルトガル本国から持参した旗を見せながら自国の歴史を説明するところから始まる。パウロの説明はポルトガルの礎を築いたバッコスやヴィリアートといった神話上の人物から初代国王の父へと移る。さらにやがては、自己を犠牲にしてポルトガル王の危機を救ったエガス・モニスらも登場する。いくつかの旗の絵にポルトガル史の概要が描かれている。
 旗に描かれた絵がもつ意味は、今日の絵とはかなり違うだろう、と私は思っている。文字を読み書きする人がそれほど多くなかった時代にあって、絵は他人に状況を説明するためのだいじな手段だったはずだ。「ウズ・ルジアダス」のなかでは、アフリカ沿岸に到達したときにも、好奇心旺盛な地元の王や民にむかってヴァスコ・ダ・ガマらが絵を見せながら話をする場面がある。絵は万国で通用する伝達の手段だった。ただ、それを的確に説明できる人材もまた不可欠だった。
 話がかわる。江戸末期から明治初めの状況をおさらいしようと思って岩波新書「幕末から維新へ」を読んでいる。幕府権力を弱体化させた一因に天明の大飢饉があげられ、「天明飢饉之図」の写真が載せられている。写真の下には状況の悲惨さが簡単に述べられているが、新書の4分の1ページしかない小さなモノクロ写真では描かれた内容がさっぱり分からない。ネットで検索するともっとはっきり鮮やかに写したものがあった。骨と皮ばかりになった男が血が滴るものを口にしている。女の腹の上にやせ衰えた子どもが乗っている。鳥が二羽、死体をついばんでいるようだ。井戸水をくむ桶に手を伸ばしている女がいる。その足下にも子ども。鎌、包丁、ひしゃくが散らばる。ほかにもさまざまなものが描かれている。歴史学者らにこれらをきちんと解いて説明してもらいたい。
 文字による資料はもちろん正確で重要だが、文字を読み書きしない人たちにも分かるように描かれた絵にも相当な歴史的価値があるのではないか。歴史資料としての絵を歴史に照らしてきちんと読み解いた解説書がほしいものだ。