新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

補中益気湯

2016年08月27日 | 日記


 城山からMGさんがやって来た。福寿草の看板を杭に打ちつけていた、頭が丸まって抜けなくなってしまったネジ釘を見てもらう約束をしてあった。件のネジ釘を見て、MGさんはあっという間に解決してくれた。
 どうしたか。ネジ釘の頭に新しいビットをあて、そのビットの頭を金槌でこつんとたたく。ネジ釘の頭部分にプラスの溝が新たに打ち込まれた。そこへドライバーをあて、左方向へ回すとネジ釘が浮き出てきた。要するに溝が丸まってしまった部分にもう一度プラスの溝を作ったということだった。MGさんによれば、これでうまくいかない場合には、ネジ釘の傘の部分を切り落とし、看板を後ろからたたき外すことを考えていたそうだ。ネジ釘の傘部分を切り落とすためには、そのための道具がいる。MGさんのワゴン車には、それらの道具を含め、ありとあらゆる道具類がきちんと整頓されて積みこまれている。
 雨のため、MGさんの第一の目的だったブルーベリー摘みはかなわなくなってしまった。

 食欲が減退する夏バテの季節がやっと終わろうとしている。私はこの夏も補中益気湯(ほちゅうえっきとう)でなんとか乗り切ることができた。
 この薬との出会いは3年前の夏にさかのぼる。食欲がまったくなくなり、上野原市立病院へ行った。胃の内視鏡検査を受けようと朝食抜きで行ったのだが、医師は予約がないし、緊急を要する状況でないのは目を見て分かるからと、ガスター20という胃酸の分泌を抑制する薬と補中益気湯という漢方薬を処方してくれた。この漢方薬は滋養強壮剤にすぎない。私の病状についての医師の見立ては、体全体が衰弱していることの症状が胃に現れている、というものだった。もう若くないことを自覚しなさい、ということだった。それから数日後に内視鏡検査を受けたが、医師のはじめの見立てどおりだったようで、おなじ薬を継続して使用しているうちに、私の食欲は十分に回復した。
 翌年からも夏には補中益気湯を飲んでいる。ツムラが出している微粒状のものを買い求めている。クラシエが錠剤を出しているが、はじめに医師が処方してくれたのがツムラの漢方薬だったので、なんとなくツムラのものを探し求めいている。
 週刊朝日の先週号に、現役医師が頼りにする薬の一覧表が出ており、そのなかに漢方薬としての補中益気湯が入っていた。いまふりかえると3年前に診察してくれた上野原市立病院のあの医師は、患者の目を見て緊急を要するか否かを判断する名医だった。
 





ゴールドラッシュに沸く町

2016年08月22日 | 日記


 いま1898年のアラスカの町ドーソンにいる。1895年に金鉱が発見されたというニュースが配信されて以来、ゴールドラッシュに沸いている。アメリカ各地から一攫千金を夢見る人たちが集まっている。
 シカゴからすねに傷もつ3人がまずはシアトルへ来る。カリフォルニアのゴールドラッシュはすでに終わっているが、ここはアラスカへ向かう船が出る港であり、多くの山師でごった返している。人が多いところには儲かる仕事がある。シアトルに着いた23歳の女性ミッシーはレストランで調理をし、15歳のトムは入ってくる船の船員に新聞を売る仕事に、40代の男バックは大手の船会社に雇われてその能力を発揮する。半年あまりで資金を十分にふやすことができた。アラスカ方面は9月から翌年の5月まで海や川が凍り、船が出発できない。その期間を利用して資金稼ぎに精を出した。
 北極の氷が溶けるころ3人は首尾よく乗船し、アラスカ南部のスキャグウェーにつく。シトカに近く、峠を越えればユコン川に出る。3人はそれぞれ1トン分の荷物を運んでいる。峠まで何十回も往復して荷物を運び上げなければならない。直前には雪崩が発生した。それでもひるむ人はいない。金鉱へたどり着こうとする人に怖じ気は禁物だ。
 ユコン川へ着くと、こんどは自分でボートを作りユコン川を下る。途中、流氷に櫂をとられバックが死ぬ。ミッシーとトムはその後の危険をくぐり抜けてドーソンにつく。
 ドーソンこそが金鉱発見でにぎわっている町だった。ここはカナダ領になっている。アメリカ領とは違い、官憲が犯罪に目を行き届かせており、金を採掘する場所などもきちんと登記されていた。ということは遅く着いた人にはもう採掘する場所がない。それでも人びとは押し寄せてくる。
 金を採掘している人はわずかに16人、そしてあとの600人はその町で何らかの仕事をしていた。持ちものを並べて店を開く人、馬をレンタルする人、医療や法律手続きを代行する人、占い師、売春宿の経営、ドーナツとコーヒーを売る人、クリーニング業、縫いもの師などなどだった。みなテントを張ったり、急ごしらえの掘っ立て小屋での経営だった。なかでも売春宿は70軒ときわだって多かった。ミッシーは調理の腕を活かし、温かい料理を提供していた。9月から4月まで、何からなにまでが凍りついてしまい、太陽が顔を見せない時期がつづく薄暗い期間を想像してみよう。温かい食べものがどれほど心を癒してくれることか。
 ミッシーとトムは、ユコン川の下流から2年前にのぼってきたクロープと知り合いになり、運よく金を採掘する作業を手伝う。山の尾根からむかし川だったらしい部分まで穴を掘り、土砂を堀りあげて水で流し、砂金が含まれていないかを見る。いつか砂金が出てくると信じて掘り続ける。
 しかし1895年に始まったこの騒ぎは、1904年にはもはや終焉を迎える。発見された金の量は限定的だった。

 地図帳を開いて、虫眼鏡で小さな文字を読みながら本を読みすすめます。いつか行こうと思えば行けそうなハワイとは異なり、アラスカは氷に閉ざされた州ですからまず行ける見込みはありません。それでも限りなく想像力をかき立ててくれるのは作家ジェームズ・ミッチェナーの筆の力でしょう。






新大阪のエキナカには驚いた

2016年08月17日 | 日記

 ことしは混雑する時期に帰省しました。姫路まで新幹線の指定席券がとれず、やむなく新大阪駅で在来線に乗り換えました。その新大阪のエキナカのにぎやかなこと! みやげもの店や飲食店がひしめき、帰省客や旅行客でごった返していました。エキナカというのは改札口のなかをいいます。スズキとダイハツが自慢の最新型軽自動車を展示していました。エキナカだけ観ると、もはや大阪駅より新大阪駅のほうがにぎやかになったようです。

 オリンピックはやはりおもしろいですね。スター選手が次々に出てきますから。ウサイン・ボルトは故障しているとはいえ世界1位の座を譲らなかったし、「ひねり王子」の異名をもつ白井健三はみごとにひねってくれました。水谷隼はオリンピックではじめて名前を知った選手ですが、どれほど強い玉でもふわっと打ち返せることができるようです。錦織圭の試合はすべて生中継で観ました。モンフィスとの一戦、もうだめか、と思ったところから5点連続でとって準決勝への進出を決めたあたりはさすがです。期待を裏切らないところが人気の秘密なのでしょう。






アラスカは720万ドルで売り払われた

2016年08月07日 | 日記

 アラスカは19世紀半ばまでロシアがその領有権を主張していた。「領有権を主張」とはいっても実際には1年の大半を氷河に包まれた状態にある地域であるから、人が自由に行き来できる状態にはない。太平洋岸にある島のシトカ(Sitka)に、サンクト・ペテルブルクから派遣されたロシア人らが住み着いて自由な町を作り上げていた。それをアメリカが720万ドルで買い取り、ロシア人らを追い出してしまった。
 720万ドルとはどれくらいの価値があったのか、正確には分からない。ロシア人たちがシトカの町に寄港する船を相手にしておこなっていた交易量が最盛期で年間10万ドルあまりだったとされている。そこから推し量れば、60年分くらいの交易量に相当する額だったと思われる。アメリカ合衆国はマンハッタン島を先住民からわずかのお金で購入して以来、数々の土地をお金を払って購入している。アラスカもそのひとつで、めずらしいことではなかった。
 だが、アラスカというツンドラのような土地を購入する意義があるのか、アメリカでは多くの議員から疑問が出されていた。ときはまさに南北戦争のさなかであり、国内は疲弊していた。売ったロシア側にも事情があった。皇帝ツァーが命令を発しても届くのに1年、返事が戻るのにまた1年かかった。お荷物な領土だった。それにクリミア戦争で財政事情が逼迫していた。
 しかしシトカの町のなかはひじょうにうまくいっていた。イルクーツクやサンクト・ペテルブルクから派遣された人たちが現地にとけこみ、カムチャッカ半島出身の賢明な女性を妻に迎え、オーソドックス教会を建設し、統治でも宗教面でも模範的な町を築き上げていた。彼らはアラスカの地を知悉していた。そこへ1867年、事情を知らない無能なアメリカ人たちが送り込まれ、ロシア系の人たちが追い出されてしまった。アメリカ人はシトカの町をめちゃくちゃにしてしまった。アラスカの土地に愛着をもっていなかったことがいちばんの原因だった。無用の土地に購入費を出すまいと連邦下院はいったんは予算案を否決している。
 ハワイ州の場合は「購入」ではなく、現地の人たちからの働きかけによって1900年ごろにアメリカ合衆国への編入が実現した。これはアメリカ側が19世紀前半に送り込んだ宣教師の一団が宗教面でも実業面でも実行支配した成果だった。
 ジェームズ・ミッチェナー作「ハワイ」はすでに読み終えたが、「アラスカ」はまだまだこれからだ。







オリンピックが始まった

2016年08月05日 | 日記

 早朝、ブルーベリーを摘んできました。日影原農園のブルーベリーはだいぶ色づいて摘みやすくなっています。
 久しぶりに路線バスを見ました。小型の路線バスでした。昨夏の大雨で土砂崩れがあって以来、上野原へ通じる道が通行止めになっていました。迂回していた路線バスが復旧したようです。道路が開通したことで日影原地区の交通量が増えそうです。

 オリンピックのサッカーが始まった。ナイジェリア対日本。ナイジェリアの選手が試合開始の7時間前にやっと到着したという。なぜそれほど遅くついたのか、興味はあるが外国の事情をそれほどくわしく調べるのは難しいだろう。それよりナイジェリアとはそもそもどのような国なのか、もう少しくわしく報道してほしい。会場側が試合まえにニジェールの国歌をナイジェリアの国歌と間違って流してしまったというのもおもしろいハプニングだ。NigerとNigeriaはフランス語読みと英語読みの違いぐらいにしか感じないのだが、間違われた国にとっては迷惑な話だろう。
 試合はマナウスでおこなわれた。リオからは飛行機で4時間もあるマナウスとはどのような町か。これももっと報道してほしい。アマゾン川中流に位置する町で、免税都市になっている。アマゾン川流域を開発する拠点にしようとブラジルが設けた町だ。ブラジルは海岸線に転々と町が存在しているが、資源が眠っている奥地を開発するためには開発拠点を設ける必要があった。ブラジリアの町を作り、そこへ首都を移したのも奥地開発のためだった。その辺の事情はこの機会にもっと知られるべきだと思う。
 地球儀で見ると東京のほぼ裏側にリオ・デ・ジャネイロがある。時差はぴったり12時間だ。これから2週間が楽しみだ。