新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

朝ドラ「エール」

2020年03月30日 | 日記

 新型感染症のせいで仕事がなくなって1か月が経過した。毎日が日曜日の生活があと3週間続くが、その後、旧に復するのかどうか予測がつかない。おかげで毎日あちこちへ花見に出かけている。人混みを避けてのことだから、都心へは行けない。山梨県武川の神代桜を見てきた。樹齢2000年のエドヒガンで、27日時点で満開だった。観光バスを連ねて訪れる団体客がまったくいない。高尾駅北口の南浅川沿いに咲く桜は5分咲きだった。例年なら近所の仲良しグループが7,8人集まって酒を酌み交わしているのだが、さすがにことしは宴会めいたグループがいない。ところどころにビニールシートを広げる家族連れがいる程度だ。散歩する人、ジョギングする人も少なめだった。上野原市桂川沿いの桜並木がそろそろ満開を迎える。河原のグラウンドでは高校生たちが楽しそうにボールを蹴って遊んでいる。ここでも休日になると登場するコーチつきの厳しい練習風景は見られなくなった。あくまでも自主練習、というより健康維持のために体を動かしているだけのようだ。こうしてみると、みなさん良識をもって行動している。
 閑話休題。NHK朝ドラのタイトル「エール」とは、いったいなんのことか、と思っていた。その意味が朝刊の番組紹介で一瞬にして分かった。主人公が作曲家、古関裕而なのだ。どおりで最近、書店にこの人の伝記めいた本が何冊も並んでいる。この人は応援歌をいっぱいつくっている。学校の校歌、会社の社歌、プロ野球チームの応援歌、甲子園で耳にする「栄冠はきみに輝く」、さらには戦争中、出征する人を応援し、戦意を鼓舞する歌「若鷲の歌」などまで・・。戦後には「長崎の鐘」や「鐘の鳴る丘」など日本を元気にした歌を数多く作曲した。曲数は5000をはるかに超える。そして彼の周辺には藤山一郎、淡谷のり子、榎本健一など昔懐かしい有名人たちがいた。ペアを組んで多くの仕事をした劇作家、菊田一夫もその1人だった。これらの人たちがどのような形で朝ドラに登場するのか、興味津々だ。



アーサー・バックウォルド

2020年03月25日 | 日記

「子ども時代、自慢できることはすべて一人でやりとげた。ホリスからクイーンズ・ブールバードを通ってニューヨークまで(18キロぐらいか)ローラースケートで行ったことがある。10歳にもなっていなかった。クイーンズボロ・ブリッジもローラースケートで渡った。午後遅くフィフス・アベニューのデパート「フランクリン・サイモン」に着いた。そこには姉のイーディスが働いていた。姉は帰りを心配して、地下鉄代をくれた。私は自分のこの偉業に高揚していた。唯一比べられるものといえば、リンドバーグの大西洋横断(飛行機ではじめてノンストップで大西洋を横断した1927年の偉業)だった。リンドバーグと同様、私は橋を渡ったマンハッタンに、まったく新しい世界を見つけた。」(LEAVING HOME a Memoire/Art Buchwald)
 アート(アーサー)・バックウォルド(1925~2007)。ワシントン・ポスト紙のコラムニストであり、ユーモア作家だった。生まれてまもなく母と引き離された。母はアーサーを生むまえからうつ病に苦しんでいた。アーサーは母の顔を知らずに育った。父はカーテン地などを縫い商う仕事をしていたが、1929年の大恐慌から第二次大戦へ向かう時節がら、商売はうまくいかず、つねに借金を背負っていた。父は娘3人と息子のアーサーを孤児院に入れた。ユダヤ系専門の孤児院だった。日曜日にはきまって孤児院を訪問する温かみのある父だった。孤児院のなかで過ごした時期もあるが、たいていはどこかの家へ預けられた。預かる家は子どもを預かると補助金をもらえた。その補助金めあてに子どもを預かる家が多かった。どの家でも生活が困窮していた。ときおり孤児院からケースワーカーが子どもたちのようすを見に来る。1年ごとぐらいに養い親が変わった。アーサーはたいてい1つ年上の姉ドリスと同じ家に預けられた。
 いろいろな人に出会う。親切な人にも意地汚い人にも。意地汚い人のことを自伝に書くにはどうすればよいか、とだれかに問うたところ、名前を変えて書けばよいと教えられたとのこと。名前だけ変えて、赤裸々につづった名著がこれだ。
 このような経験からあのユーモアが生まれるとは・・。それについては、またいつか。



百科事典を捨てる

2020年03月19日 | 日記

 暖かくなったらしたいこと、それは涼しくなったらしたいことと同じだ。いつもそう思いながら寒さがすぎると暑くなり、暑さが終わると寒くなった。暑くも寒くもない時期が短かすぎて、のらくらしているうちに時がすぎてきた。
 きょう、やっと重い腰をあげた。百科事典を捨てる。1970年代半ばに購入した平凡社の世界大百科事典全35巻。長年、書棚の最下段を占め、重石の役目をしてきた。中身を読んだことが何回あったか。いまはもう中身の鮮度でも量の面でもネット上のウィキペディアにかなわない。とっくにその役目を終えている。
 百科事典の役割とはなんだったのか。広く浅く知ることが必要だった時代の産物だったような気がする。現代用語の基礎知識が発刊されてから、新しい語句の意味用法はそれで調べるようになった。百科事典はだれもが知るべき項目についてある程度掘り下げて解説してある。かといって専門書で読むほど詳しいことは書かれていない。むしろ百科事典で一通りの知識を得たあとで、専門書へうつるのが順序だったのかもしれない、といまになって思う。
 コンマリさんによれば、モノを捨てるかとっておくかの識別基準は、心ときめくか否かだそうだ。百科事典はまったくときめかないので、捨てるのになんの躊躇もない。
 ところが、心ときめかない本類を大量に処分したことがあった。25年ほどまえだ。それからしばらくして、あれを読み返したい、これを読み直したいと思う本がいくつも出てきた。捨てなければよかった、となんども後悔している。今回もそうなるのだろうか。



作業最終回

2020年03月15日 | 日記

 薪炭クラブの作業が最終回を迎えた。桜の伐倒、薪づくりをした。今季つくった薪は半年あまり乾燥させて来季に販売する。市民農園などとあわせて来春にはNPO活動を終える。
 レギュラー会員15人が参加、2人が都合で欠席した。仲のよいグループで、いつも楽しく和気あいあいと活動できた。伐倒班はその道のプロとプロ並みの腕をもつ人が牽引し、みながプロ並みの技術を習得した。薪割り班は薪割り機の操作に習熟した。私が率いた炭焼き班ははじめの数年間、炭を焼いたが、在庫を抱えてその後、その在庫の処理に時間を費やした。セールスに向かない人たちが集まっていたし、セールスに力を入れることもしなかった。薪が毎年、○十万を売上げるのに対して、炭の売上げは○千円と桁が違っていた。
 9時から3時までの作業を終え、適度の疲労を感じている。こういう日は晩酌がうまい。きのうは雨、雪のため外で運動することもできず、夕方になっても適度の疲労感がなかったため、晩酌が進まなかった。やはり一日の終わりになって、適度の筋肉疲労と達成感が欲しい。うまい酒を飲むために生きているようなものだし、うまい酒を飲むためならどんなことでもしたいと思っている。「空腹は最上のソースなり」というが、適度の筋肉疲労と達成感は最高の酒の肴だ。80代後半になってビールを飲みながら死んでいった人の話を聞いたが、私もそのようでありたい。



アフガニスタンに斜め堰をつくる

2020年03月12日 | 日記

 STさんから中村哲氏の講演記録が送られてきた。2019年9月9日、川崎でおこなわれた講演を文字に起こしたものだ。
 詳しく書けないが、アフガニスタンはもともと緑豊かな、食糧自給率100パーセント近い農業国だった。シルクロードの時代には民族の十字路と呼ばれたほどに各種民族が往来して賑わった。それがほんの4,50年ほどまえから砂漠化してしまった。年間降雨量が200ミリほどしかない。内乱につけ込んだソ連が9万人もの部隊を送り込んでき、内乱は9年つづく。2000年には大干ばつ、2001年世界同時テロが起こるや、アフガニスタンが狙い撃ちされ、多くの民間人が犠牲になる。2000年ごろから地下水が減ってきて、大河川から水を引かないと農業生産が取りもどせなくなる。
 中村氏は、生まれ育った九州、筑後川の斜め堰を思い出す。金網でつくった籠に石をつめ、その籠を川に並べていくことで川の流れを弱め、そこから農業用水を採取する。さらにそこへ柳の木を植える。柳の根が伸び、石の隙間に入り込んで、金網が朽ちたあとも石を頑丈に固定してくれる。コンクリートブロックを使うより安上がりで、環境への負荷も少ない。
 中村氏はその3か月後、ジャララバードで凶弾に倒れる。おそらくこれが日本での最後の講演だっただろう。

 なお冒頭のSTさんは元炭遊舎代表のことで、まもなく81歳、車を手放し、毎日5000から1万歩を歩いているとのことです。「かわせみだより」の最新号も同封されていました。