新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

哲学の道を歩いた

2015年12月29日 | 日記

 27日、京都、哲学の道を歩いた。銀閣寺から南禅寺へ向かった。常夏の国ベトナムに駐在していて一時帰国したばかりのUくんは、急に寒くなった京都の気候を肌で感じている。
 まずは銀閣寺。Sくんは銀閣寺本堂の建物を鑑賞しようとする。私は銀閣寺のそばにある砂の山に着目し、これこそ銀閣寺のシンボルだと思っている。3人で銀閣寺を訪問するのは1974年以来だ。「銀閣寺の境内って、こんなに広かったかなあ」。砂山の形たるや、巨大な紙コップに砂を詰め込んでひっくり返したかのような、円錐形の先端を切った形をしている。鋭角的な仕上がりにわざとらしさを感じざるを得ない。湿り気をふくんだ海の砂だ。参道には外国人が目立つ。インドネシア、ジャカルタに3年半も駐在したことがあるSくんが、インドネシアから来たと思われる人にインドネシア語で話しかける。話しかけられたインドネシア人は嬉しそうだった。
 喧噪を離れて哲学の道へはいる。外国人はこのようなところに興味がないらしい。「田中美知太郎さんが歩いた道かなあ」「いや、西田幾多郎がもとだろう」。いくらか哲学めいた会話になりかけたとき、みやげもの屋に呼び止められた。「お茶を飲んでいって」「試食できますよ」とちりめんじゃこを勧められる。生八つ橋も数種類、試食する。きれいにできあがった小さなゼリー菓子に目を奪われる。のどがお茶を欲したとき、タイミングよくお茶が供される。こうなるとなにか買わなければ店を出られない。「生八つ橋を買ってきて」とう家人のことばを思い出して、ひとつ買い求める。店の人はすかさず「大きい箱もありますよ」という。「持ち歩くのがたいへんなので・・」と小さいのを求めた。Uくんもここでみやげを買っていた。商売上手とはこういう店のことか。
 哲学の道にそって流れる琵琶湖疎水に魚が2匹泳いでいた。「鯉だ」「いや、顔が平べったいからナマズじゃないか」「サンショウウオもこんな形か」。Uくんが、もっていたどら焼きをちぎって投げ込んだ。食いついてくる。そこへSくんが、あることに気づいた。流れが北へ向かっている。「ヘンだ」。鴨川をはじめ、京都の川は北から南へ流れ、淀川になって大阪湾へ流れ込む。琵琶湖から水を引いていても、もっと北から引いているから、北から南へ流れるはずだ。「おかしい」。哲学の道は北から南へゆるやかに「下っている」と宿の人から聞いていた。だからこそ私たちはすこしでも楽をしようと銀閣寺から南へ向かって歩いている。ところが琵琶湖疎水が南から北方向へ流れているのは解せない。哲学より土木工学の方向へ話が移ってしまった。この謎を解明したい。琵琶湖疎水記念館があることを知った。ここへ行けば疎水が流れる方向の謎が分かるだろう。翌日、訪れた。だが、悲しいかな、年末の休館日にあたっている。UくんもSくんも最新鋭のスマホを携えていながら、いざとなると役立たない。謎の解明は来年の課題にすることにした。ことしもマンガチックな町歩きをしながら、旧交を温める嵯峨会になった。




モラエス、3人目の女性

2015年12月23日 | 日記


 ふたたびヴェンセズラウ・デ・モラエスについて。
 モラエスは日本で過ごした約30年の間に、3人の女性と同棲している。46歳から59歳まではおヨネ(福原ヨネ)と同棲した。おヨネが24歳から37歳の間だった。昔風の美徳を備えた典型的な日本女性で、おしとやか、従順、恥じらい、思いやり、気配りなどのことばがあてはまる。モラエスはポルトガル女性にはめずらしいこれらの気質をこよなく愛した。おヨネが早世したあとは、その姪にあたるコハル(斉藤コハル)を女中兼愛人に迎えた。モラエスが59歳から62歳までの3年間で、コハルが18歳から21歳までだった。コハルはモラエスには若すぎた。コハルには現代っ子ということばがあてはまる。生活苦のためにモラエスの家に入ったが、仲のよいボーイフレンドがいた。2回妊娠するが、その子どもはともにモラエスの子ではなかった。1人は生まれた日に死亡し、もうひとりは両親の子として入籍させ、育てたが、3歳で事故死している。コハルは21歳で世を去る。「おヨネとコハル」は著作の題名にもしているため、比較的よく知られている。
 だが、もうひとり女性がいたことを私はこのたびはじめて知った。おヨネが死んだあと、モラエスが徳島へ移るまえに神戸で半年ばかり一緒に暮らした永原デンだった。デンはこのころ24歳の女盛りだった。遊郭で働いていた如才ない女性だった。ところがデンは59歳の辛気くさい老人モラエスに見切りをつけたのだろう、6か月がたつとさっさと出雲の実家へ帰ってしまった。出雲で商売をしたいから資金を送ってくれ、と経済的に不自由しないモラエスに無心する手紙を書いている。
 わずか半年、同棲したにすぎないこの女性がふたたびモラエスの文章に登場するのはその遺言状においてだった。永原デンが生存している場合は遺産の一部を贈ると書いている。現代の貨幣価値に換算すると数千万円にもなる多額の遺産だった。それを知った39歳になる永原デンは、さっそく徳島のコハルの実家などをあいさつに訪れている。
 遺言状を読めば、モラエスが義理がたい人だったことが分かる。遺言状を書いたのが1919年、死ぬ10年もまえ、永原デンと別れて6年後だった。
 デンについてはもう少し調べてみる価値がありそうだ。出雲という古くからのしきたりが重視され、残っていそうなこの町なら、もっと研究する材料が残されていても不思議はない。昨年の夏に訪れたときの私の印象は、どこまでも平野がつづき、広い野にぽつりぽつりと集落がある、といった風情だった。デンの嫁ぎ先の子孫も残っているようだから、その土地に住み着いて調べられれば、さらに資料が得られそうだ。







薪づくりを再開しました

2015年12月21日 | 日記
    

 薪づくりを再開しました。今回はミズキがほとんどでした。

 薪ストーブに最適の大きさの薪を販売しています。「ふじの森のがるでんセンター」へお問い合わせください。

 Yさんが炭焼き場に捨ててあった廃材を利用して作ったロケットストーブが披露されました。煙突にブリキ缶をかぶせただけの簡単な作りで、じつによく燃えます。形の工夫しだいではやかんをのせてお湯を沸かせるとのことでした。
 たまたま農園に来ていたHAさんがむかしながらの火起こし術を見せてくれました。篠竹の先端につけたウツギの茎を杉材にこすりつけるという、いたってシンプルな方法です。こすりつけて煙が出はじめたのが写真中です。こすった結果、火の粉をふくんだ杉材の屑(写真右)を麻の繊維ですくいとり、風をあてると炎がでます。HAさんはいつもこうして火をおこし、農園の片隅でお湯を沸かし、コーヒーをいれるのだそうです。
 HAさんの火起こしは最近になってはじめたことではありません。もう10年近く前にも披露してくれたことがありました。そのころに比べ、いちだんと技術が進んだようです。長い篠竹を持ち歩くときには半分の長さですむように2本を継ぎ足す工夫、手で篠竹を回す代わりにロープを使って弓式にするなどの改良が見られます。
 農園には多彩な趣味をもつ人たちがいて、話を聞くのが楽しみです。




カイピリーニャを飲みながら

2015年12月20日 | 日記

 カイピリーニャはブラジルのカクテルで、なんとも口当たりがよい。私ははじめて飲むのだが、これなら日本人の口にも合う。やみつきになりそうだ。きのうブラジル料理店に7人の友人たちが集まった。みな小さな大学の小さな学科で一緒だった人たちで、集まると20歳の気分にもどってしまう。ところが体が60代になっているので、話は病気の話になりがちだ。
 Kくんは数年前に脳梗塞を患い、懸命のリハビリの甲斐があって見かけ上は健康そのものだ。もうひとりのKくんはレーベル病という通常の視力を失う病気にかかり、苦労しているが見かけはやはり健康そのもので、毎日ジムに通って筋力増強を図っている。Oくんは腹筋運動をしすぎたせいか鼠径ヘルニアになり、手術を受けたばかりだ。加齢とともに腹筋の弱くなった部分から腸の一部が飛び出してくるのだという。女性のOさんは去年、そけい部の手術を受けた。若いころに走り回りすぎたせいらしい。同じく女性のMさんは頸椎症で手がしびれたことがあり、またいつそうなるかしれないと心配している。またコレステロール値を下げる薬が体に合わないという。私もコレステロール値を下げる薬をもう20年近く服用していて、いまの薬でたしか3種類目だ。2種類目として飲んでいたリバロはとても広く使用されている薬らしいが、私には合わなかった。
 7人がそれぞれ悩みを抱えているような話をするのだが、酒の勢いは止まらず、みなそれぞれにお代わりを注文する。カイピリーニャを2杯飲んだあとは、赤ワインへと移っていく。店に人たちは料理を運んできたときに、これはなにと説明してくれるのだが、原材料がポルトガル語の名前しかなかったりするので、私には分かったような分からないような隔靴掻痒のまま口に運んでいく。どれもこれもおいしい。飛び交う話題はとりとめのないものだが、気心の知れたもの同士だし、店は実質的に貸し切り状態なので、ゆったり温かい気分のままに3時間が過ぎていった。





「新モラエス案内」

2015年12月14日 | 日記
  

 友人が本を書いた。深沢暁「新モラエス案内――もうひとりのラフカディオ・ハーン」(アルファベータブックス)。
 ヴェンセズラウ・デ・モラエスは明治中期にポルトガル海軍の軍人としてマカオを拠点に東アジアのあちこちを調べていた。猥雑で不潔な中国から長崎、瀬戸内沿岸へと船を進めたとき、その豊かな自然のなかでゆったりと暮らす人びとの姿を目にし、感動する。そして神戸・大阪ポルトガル領事として神戸に住み着く。くるわ芸者だったおヨネを生活のパートナーとして迎えるが、体が弱かったおヨネはまもなく早世する。おヨネを故郷、徳島の地へ葬り、その姪にあたるコハルとともに徳島での生活をはじめる。しかしコハルもまたまもなく世を去り、二人の女性への追慕(サウダーデ)とともに残り16年の生涯を終え、74歳でこの世を去る。神戸、徳島での生活と二人の女性への愛をつづった文章を頻繁にポルトガルへ書き送っている。
 著者、深沢は学生時代からモラエスに心を奪われ、それを生涯の研究テーマに選んだ。45年の歳月を費やして進めてきたライフワークをようやく形にしたといったところだろう。一般向けに書かれ、とてもやさしく、わかりやすいモラエス紹介になっている。
 モラエスの魅力にとりつかれた人は多い。
 その一生をモラエス紹介に費やしたといえるのは花野富蔵だ。「おヨネとコハル」「徳島の盆踊り」は私も若いころに花野訳で読んだ。徳島生まれの花野は、旧制中学の時代にモラエスのことを聞きつけ、わざわざ会いに行き、さらにモラエスから直接にポルトガル語を習ったこともあるという。その後の人生をその紹介に捧げるほどモラエスに大きな魅力を感じたのだろう。
 佃実夫もまた徳島出身で、幼いころにモラエスに会っている。幼すぎてはじめて見る異邦人に泣き出してしまったと書いている。それでもそのときの印象が長く心に留まり、モラエスについての研究書を世に出すことになった。
 瀬戸内寂聴さんもまた幼いころに晩年のモラエスを見かけ、のちになっていくつかの文章に書き残している。小学校1年生のとき、母の実家の近所に住んでいたモラエスを見かけ、好奇心からそっと跡をつけ、モラエスがふりかえると恐ろしくなって一目散に逃げ帰った(青い目の西洋乞食)。
 おなじように日本と日本人のよさ、美しさを外国へ紹介する仕事をしていながら、ラフカディオ・ハーンはあまねく知られているのに対し、モラエスはほとんど知られていない。その原因はひとえに言語にある。ハーンは英語で文章を書き、モラエスはポルトガル語でしか書かなかった。
 深沢はラフカディオ・ハーンと比較しながらモラエスを紹介している。一読をおすすめする。
 写真はリスボンにある、モラエスが若いころ暮らしていた集合住宅の玄関。ドアの上に日本語の文字が見える。