新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ユダヤ人街

2016年06月24日 | 日記

    
 まずは写真1枚目の街頭表示を見てほしい。「旧ユダヤ人街-1492年に追放されるまでヘブライ人たちが住んでいた街区の中心」と書いてある。ここはセゴビアの街の一画だ。1492年といえばグラナダを陥落させ、レコンキスタを完成させた歳だ。700年代はじめアフリカ北部から南北わずか14キロしかないジブラルタル海峡を船で渡ってきたアラブ人たちによって、瞬く間にイベリア半島が制圧されてしまった。それからすぐにキリスト教徒たちが国土を取り返す運動レコンキスタが始まる。およそ800年近くかかってイスラム教徒から国土を完全に取りもどしたのが1492年だった。ときの国王はイサベル女王で熱心なカトリック信者だった。女王はすぐさまユダヤ人追放令を出した。それがこの街頭表示に書かれている「1492年に追放されるまで」の意味だ。
 写真3枚目はコルドバのユダヤ人街で、「花の小道」と称されて観光客の目を楽しませている。
 セゴビアにしてもコルドバにしても観光案内の地図にユダヤ人街として紹介されているが、とくべつ変わった建物があるわけではない。むかしここにユダヤ人たちが住んでいたということを示しているだけだ。トレドにもあったはずだと思ってミシュランのガイドブックを読んでみると、ユダヤ人街としては存在しないが、むかしは多くのユダヤ人がこの街に住んでいたことが説明してある。「トレドはスペインではずば抜けて重要なユダヤ人の街だった。12世紀にはユダヤ人の数12000に及び、フェルディナンドⅢ世のもとで人種混合が奨励され、文化の華が開き、街は一大知的拠点になった。・・」とある。商売で成功したユダヤ人からは巨額の献金を受け、国庫も潤った。それが14世紀半ばごろから雲行きが変わり、1492年のユダヤ人追放令へとつながる。トレドでも当時はユダヤ人がある程度まとまって居住していたはずだが、いまは跡形がない。マドリッドの街にもユダヤ人街の跡形はない。ユダヤ人への偏見をいちはやく消し去ったのがマドリッド、トレドという政治文化の中心地で、観光の目玉としていまに残しているのがセゴビア、コルドバだといえないだろうか。
 30数年前、ユダヤ人たちがまだ住んでいるユダヤ人街を歩いたことがある。スペインとの国境を越えたばかりのポルトガルの街カステーロ・デ・ビデでのことだ。ガイドブックに載っていたので歩いてみた。若かった私にとって当時は怖いものなしだった。老人たちが家の前でなにをするでもなくじっと座り込んでいた。
 観光地に存在するユダヤ人街といのは、ただかつてその地区にユダヤ人が住んでいたというだけのことを知らせるためのものなのだろうか。建物に特段の特徴があるわけでもなく、道路の狭さもおなじ街の他の区域とたいして変わらない。人種的差別につながることを恐れてユダヤ人たちがその街に与えた影響などをあえて記述しないのだとしたら、マドリッドやトレドのようにその区域自体の表示を破棄してしまってもよいのではなかろうか。