新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

炭焼き3日目

2016年02月29日 | 日記

 きょうは朝から煙突口での温度が75度前後をキープし、なにごともない一日でした。このままいけば、3月3日木曜日の夜7時ごろに焼き上がり、窯止めになります。
 しかし暗くなってからの窯止めはできれば避けたいところです。そこで焼き上がりの時刻を早めるために、空気口を広げ、煙突口を広げました。
 焚き口下の空気口は、その前に煉瓦の破片などの障害物を置いて空気の流入をある程度絞っています。その煉瓦を空気口からすこし遠ざければ空気の流入量が増えます。煙突口には生木を3本おいて、煙の排出量を抑えています。その生木の本数を減らせば煙の排出量が増え、結果として窯内の炭化を早めることができます。
 かたい上質の炭を焼くにはゆっくりと炭化させるのがよいのですが、夜の作業を避けるために炭化速度を多少速めます。上質の炭を焼き上げることと私たち作業者の基本的生活習慣を崩さないこととは二律背反です。趣味で炭を焼いている私たちですから、生活優先でいきます。

炭焼き2日目

2016年02月28日 | 日記


 ゆうべめいっぱいに薪をくべて焚き口を閉じ、今朝いくと煙突から煙が出ており、煙突口での温度が37度ありました。きのう一日燃やし続けた成果が現れたようです。窯が十分に暖まり、火が炭材に移ったと思われます。きょう新たに焚き口で薪を燃やし、77度まであげて13時半に焚き口を閉止しました。もはや焚き口の薪は燃えつき、窯内の炭材は自燃しています。16時半で75度あります。このまままる3日間75度の状態がつづき、その後、温度上昇に転じ、3月3日には300度を超えて窯止めできる見込みです。




炭焼き初日

2016年02月27日 | 日記

 久しぶりの炭焼きです。20日にみんなで詰めた窯をKHさんらが21日に暖めてくれたのですが、窯が冷えていたせいか炭材に火が入ることなくいったん休止。きょうふたたび焚き口に薪を入れ、8時間近く燃やしつづけましたが、煙突口から出る気体は湯気ばかりで、炭材に火が入ったようすはありません。あすもう一度、火をつけます。
 昨年3月の炭焼きでは、初日はきょうとおなじく変化なし。2日目の朝いってみると40度ぐらいに上昇しており、14時に焚き口を閉じました。おなじパターンになることを期待していますが、朝になって温度が上昇していなければ、内壁の奥の炭材を詰め直すことを考えています。内壁の上部に12,3センチの空間があり、そこから火が炭材へ燃え移るのですが、その部分に炭材がなければ火が移りにくくなるからです。

 日影原は福寿草が見頃を迎えています。10数年まえに植えた株が年々増えていきます。クロッカスもきれいです。

 







ありえない辞書

2016年02月24日 | 日記

 めずらしい辞書の存在を知った。ヘブライ語大辞典。中公新書「<辞書屋>列伝」による。
 辞書というものは現実の生活のなかで使用されている語彙を収集し、語釈や語源、使用方法を載せたものだ、と教わってきたし、いまでも辞書はそうであるべきだと思っている。いいかえれば辞書は記述的であるべきであって規範的であるべきではない。辞書に載っているから正しいことばだ、と考えるべきでなく、現実に使われていることばだから辞書に載せられているのだ、と考えるべきだ。それと正反対の考えかたで編集されている辞書がヘブライ語大辞典だ。規範的立場で、ヘブライ語はこうあるべきだ、ユダヤ民族は日常生活でこれを使うべきだという立場で編集された辞書だ。
 ヘブライ語は古代において使われていたが、ユダヤ民族がエルサレムの地を追われ、ヨーロッパのあちこちに離散するにつれ日常語として使用されなくなってしまった。かろうじて聖典や儀式のなかでのみ使われていたヘブライ語を復活させ、シオニズム運動とともにイスラエルの地にユダヤ人の国家をつくり、その国家の公用語にしようと画策し、成功した人物がこの辞書の編纂者ベン・イフェダーだった。
 それにしても腑に落ちないことがある。一度使われなくなった言語を復活させ、日常生活で使われるほどにまで再生させることができるものだろうか。気が遠くなるほど遠大な事業であるように思われる。辞書を作ることはその第一歩、あるいは補助的作業といえようが、ほかにどのような方法を使って一度死んだ言語を復活させられるのか。ヘブライ語は「死から蘇った言語」「祭壇から蘇った言語」ともいわれている。どのようにして蘇らせたのか。
 言語は母から子へと伝わるからこそ、生まれながらに身につく言語を母語と呼ぶ。強制されて習得することは外国語、母国語を問わず、なかなかむずかしいものだ。一つの民族がみな等しくおなじ言語を使うようになることが理想ではあっても現実にはむずかしいはずだ。
 ベン・イフェダー夫妻の実験を紹介しよう。子ども3人を生まれたときからヘブライ語だけで育てた。自分たち夫妻が子どもたちに話しかけることばをヘブライ語のみにし、子どもたちをいっさい外出させないし、近所の子どもたちに接触させなかった。ヘブライ語以外の言語に接触させず、ヘブライ語を母語にする人間第一号をつくったのだった。
 だがほかのだれもがみな、このようなことをできるはずがない。どのようにしてヘブライ語の使用を広めていったのか。
 現在イスラエルの公用語には英語、アラビア語に加えてヘブライ語が入っている。なおイスラエルでのヘブライ語使用状況について、ベン・イフェダーについての私の知識はすべて中公新書「<辞書屋>列伝」による。





瓦職人たち

2016年02月20日 | 日記

 わが家の屋根瓦はセメント瓦であるため、本瓦に比べれば寿命がはるかに短い。表面を塗装して長くもたせるか、そのまま放置して劣化が進んだときにスレート屋根にかえるかと思案している。地震や積雪などを考慮すれば屋根は軽いほうがよい。
先に紹介した「職人衆昔ばなし」から瓦職人の章を抜き書きする。

「瓦万年、手入れ年々」ってぐらいのもんでさァ。年々手入れをしせえすりゃ亀じゃねえが万年でも寿命があろうってのが瓦でさァ。
 ウソじゃありませんぜ、奈良の東大寺なんてのを見てごらんなせえ。千二百年前に葺いた瓦が落ちも腐りもせず、いまだにチャーンと乗っかってるじゃァありませんか。

とは言っても、東大寺なんてものが、そう毎年手入れするわけでもないのに千何百年持ってきたのは、あれは敷土の泥をうんと使って、泥にはツタもチャンと入れてキチンと仕事がしてあるからです。

 かつて炭焼き場のすぐそばの畑を借りて耕していたSさんは瓦職人だった。器用な人で垂木を組み合わせてビニールハウスをひとりで建てていた。「おいら屋根屋だから、家の棟上げが終わるまでじっと見ているんだ。すると家の建て方ぐらいわかっちゃうんだ」といっていた。見よう見まねながら滋賀に別荘を一人で建たらしい。地震ですこし傾いたから、また行って修理してきたともいっていた。自分でやった仕事は、裏のようすを熟知しているので自分で修理ができる。ここが強みだ。
 自分でできそうなことは無理をしてでも自分でするのがよい。自分でしたことは、あとから修理がしやすい。

 手を抜くな、手を抜けば雨が漏るぞ風で飛ぶぞ

 自戒のことばにしよう。