新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

まぼろしの飛雲閣

2021年10月25日 | 日記

 京都駅ビルの最上階、友人2人と食事した。眺望のよいレストランで、駅の北側を一望しながら和牛鍋を食べた。建設当初は京都の景観を壊すので毒キノコとあだ名された京都タワーが近くにある。目を移せば東本願寺と西本願寺。その間を昔の京の中止道路だった朱雀通りが南北に通っているはずだ。遠方に目をやれば京都の町が東西と北を山で囲まれた盆地であることが分かる。
 昼食を食べ終えて西本願寺へ向かう。私の目的は飛雲閣を観るとこ。秀吉が建立した建物だが、なかなか観れない。西本願寺内の案内所で聞くと原則非公開で、特別な場合のみ公開しているとのこと。少しは見えないかと西本願寺内の南東隅に目をやっても高いフェンスが張り巡らされており、なかの様子はうかがえなかった。案内所内に模型が展示してある。模型なら好きな角度から観れる。斜め上方から見下ろした写真が撮れた。とりあえず、これで満足しておこう。ほんものは未来永劫、観れそうにない。
 道路をはさんで真向かいに立つ龍谷ミュージアムに入った。2階のミニシアターで展示品の説明動画を観たあと、スクリーンが上がり、窓ガラス越しに西本願寺が望めた。目のまえに飛雲閣があるのだが、やはりフェンスが邪魔してまったく観れない。残念。もう少し観光客の便宜を図ってくれてもよさそうなものを・・。
 ミュージアムで同行の2人と別れ、京都駅へと急ぎ、新幹線に飛び乗った。ふと携帯の歩数計を見ると1万歩になっていた。ほどよい運動量だった。


姫路周辺に新駅3つ

2021年10月24日 | 日記

 JR山陽本線の姫路駅。新幹線で実家に帰省するときにはたいていここで新幹線から在来線に乗り換える。幼いころ播州赤穂に住んでいた。しかしなにか大きな買いものをするときには姫路へ行った。姫路駅周辺ではヤマトヤシキ、山陽百貨店という2つのデパートがその集客力を競い合っていた。幼い私は買いものよりもデパートの屋上にある遊園地で遊び、最上階の大食堂で食事をするのが楽しみだった。駅前に堂々とそびえる姫路城よりそのようなデパート、アーケード商店街、映画館を見て回るのが娯楽でもあった。
 赤穂から姫路までは汽車で1時間ほどかかっただろうか。蒸気機関車の時代だった。トンネルに入ると機関車の煙突から出る煙が窓から入ってくるので、急いで窓を閉めたものだった。それでも煙かった。曽根には母方の祖父母が住んでいたので、たびたび行った。高校時代にはその祖父母の家から神戸まで通った。
 さて姫路駅から西へ英賀保、網干、竜野、相生とつづいていたのだが、いつの間にやら英賀保(あがほ)と網干(あぼし)の間にとつぜん「はりま勝原」駅が開業していた。そして姫路から東へ御着(ごちゃく)、曽根とつづくそれぞれの間に、このたび「東姫路」「ひめじ別所」駅が開業したことを知った。これが何を意味するかは一目瞭然だろう。姫路の人口が増えている、東西に住宅地がひろがっているということだ。神戸、尼崎に対抗する県内の西の中心地として、いよいよその頭角を現してきたというべきか。瞬く間の新駅開業に街の発展状況をつぶさに見てとることができる。


エアコンか灯油ヒーターか

2021年10月23日 | 日記

 写真は桂川河原のセイタカアワダチソウとススキ。
 わが家のエアコン(4月に新しい機種にした)はモノをいう。しばらくつけていて、停止ボタンを押すと「運転を停止します。きょうの電気代、○○円です」とことばで教えてくれる。1時間ほどで8円なら安いといえる。昨年の同月の電気代と比べてみると、この5か月間、平均して1100円安くなっている。これならこの冬の暖房はエアコンにしよう、と思った。しかし数日前から急に寒くなり、エアコンで暖を取り始めるとすぐ気づいた。冷房に比べて暖房はずいぶん電気を消費するらしいことに・・。計算してみるとやはり灯油のほうが安そうだ。急いで灯油を買いにいった。
 台所と風呂はプロパンガスを使用している。オール電化を考えないではないが、停電になったときにすべてが停まってしまうリスクを考えるとオール電化には踏み切れない。リスク管理という視点では、何もかもをスマホ一台で済まそうとする傾向にも疑問を感じている。スマホをなくしたとき、スマホが起動しなくなったとき、どうするのか。そうそう、電源を入れなければ点火できないヒーターもまた問題だ。乾電池のみで点火するヒーターも捨てがたい。
 さて、原油が激しく値上がりしていることし、どのようにして冬を乗り切ろうか。


I am proud of you.

2021年10月22日 | 日記

鶴見俊輔「思い出袋」(岩波新書)
 一月一話を集めたもの。その中で強烈に心に響いたことばがこれだった。I am proud of you(私はあなたを誇りに思う)。鶴見が学生のころ、ボストン近郊のケンブリッジに下宿していた家の女主人に、何度かいわれたことばがこれだった。鶴見はこのことばを何人かの人にいいたい場面があったにもかかわらず、ついぞ口にせずにいままで来てしまったという。
 一人は永井道雄。三木武夫内閣で民間人ながら文部大臣に抜擢された鶴見の親友だった。つぎに松本サリン事件で一時期犯人の濡れ衣を着せられた河野義行氏。のちに事件がオウム真理教の仕業だったことが判明し、河野氏は無罪になったが、その後の氏の行動がりっぱだった。オウム真理教団に対して破防法が適用されることに断固、反対した。オウム信者にも人権があることを主張した。河野氏はみずからが有形無形の被害に遭い、奥さまが後遺症に苦しんでおられた時期だったはずだ。それでも理に反することには毅然として反対された。I am proud of you.と鶴見はいいたかったが、面識がなく、いう機会がなかったという。
 3人目、いや3組目というべきか、2002年ごろだったかイラクを米国が攻め込んでいたとき、若い日本人記者やボランティア活動家、研究家がイラク国内で人質にされた。どうにか釈放されて帰国したとき、多くの日本人が激しい非難を浴びせた。「自己責任」「反日」などということばが飛び交ったとき、米国のコリン・パウエル国務長官(当時)が「日本人はこれらの人たちを誇りに思うべきだ」と発言し、3人を盛んに批判する日本人を諭した。鶴見はこれら3人とパウエル国務長官にI am proud of you.といいたかったという。
 いいたくても、なぜかいいにくいことばだ。日本語として日本文化に馴染まないのかもしれない。それに気づかせてくれた鶴見俊輔に心からの「I am proud of you」のことばを贈りたい。

ジェフリー・アーチャー

2021年10月11日 | 日記

 ジェフリー・アーチャーの伝記を読んでいる。ベストセラー作家として知っているが、英国下院議員を務めた政治家でもあった。本人があちこちに提出した履歴には詐称が多く虚飾に満ちた人生を送ってきたようだ。優等生の伝記は読んでもつまらないが、こういう人物の伝記には興味を惹かれる。以下、波瀾万丈の人生の、はなはだおおざっぱな紹介文になる。
 オックスフォード大学に在籍したとはいえ、卒業はしていない。ただ目立つ存在だったので当時の指導教官や学生仲間からの評判を聞くことはできる。やり手だが、つき合いにくい男だった。高校生のころ、貧弱な体格をボディービルディングで鍛え上げる。ボディービルディングに注ぐエネルギーはたいへんなものだったようで、おかげでりっぱな体を作りあげ、スポーツの競技会でも目立った成績を収めることができた。米国カリフォルニア州の大学で単位を取得したと本人が主張するが、それを証明できるものはどの大学からも見つからない。米国のボディービルディング団体をあたかも教育機関だったかのように本人は各種書類に書いている。
 オックスフォードではスポーツ団体の資金集めに奔走する。いわゆるfund-raiserとして頭角を現す。大勢の人から少額ずつを集める、いまでいうクラウドファンディング(crowd-funding)だろう。アーチャーの資金集めのしかたは派手だった。有名人に猛烈にアタックし、少額の寄付をもらう。写真を撮り、宣伝材料に使うことが目的だった。1960年代半ば人気絶頂にあったビートルズの4人と写真を撮る。当時の英国マクミラン首相とも会う。また米国ジョンソン大統領に直接電話し、アポをとってすぐさまホワイトハウスへ飛行機で飛ぶ。これらビッグネームを利用して、みごとに目標額を集めることができた。その功績を利用し、アーチャーはファンドレイジングを一種の職業として、さまざまな資金集め団体を率いることになる。だがその後の団体での資金集めは必ずしも成功したとはいえない。モナコ王妃になった英国の元女優グレース・ケリーを資金集めパーティーに担ぎ出したときも、お飾り的な存在に終わらせてしまった。
 ファンドレイジングである程度の財を築いて英国下院議員選挙に出馬し、みごとにそのポストを得た。ただそこに人生の落とし穴が待ち構えていた。アクアブラスト事件だった。環境汚染を引き起こす自動車の排気ガスを浄化する小さな装置アクアブラストを作る会社に多額の投資をする。この装置自体がまやかしのものだった。インサイダー取引は当時、違法ではなかったようだが、装置自体がまやかしものだし、その投資を持ちかけた人物がたいへんな詐欺師だった。株価はみるみるうちに底をつき、破産したアーチャーは議員辞職を余儀なくされ、無一文になる。
 起死回生に打って出たのが小説を執筆することだった。まともな文章など書いたことがないアーチャーが、はたしてベストセラー小説を自分で書いたのか。私の大きな疑問はこの点にあった。彼の友人たちの言によれば、スペルも正確に書けない、文章は文法ミスばかりというありさまだった。それでもアーチャーはストーリーテラーを自認していた。友人の結婚式に招かれた電車のなか、到着駅で白い紙に一心不乱に何やら書き付けていた。みずからの破産劇を小説にし、のちには映画にしようと文字化していたのだった。救いはアーチャー夫人メアリーだった。メアリーはオックスフォード大学のれっきとした研究者であり、文章執筆には手慣れていた。夫人の協力を得て処女作「Not a Penny More, Not a Penny Less」ができあがる。アーチャーは作家、小説家というより、ストーリーテラーだった。