新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

初代伊藤忠兵衛夫人、八重

2017年12月31日 | 日記

  

 一般の人たちは年末の忙しいなかなのでしょうが、いつも浮世ばなれして生活している3人が南禅寺の宿坊に宿泊しました。客室が30ぐらいはある宿坊ですが、その日の宿泊客は私たち3人だけです。お寺の坊さんたちは里帰りしているとかで、わずかしかいません。それでも全館暖房されて快適な宿坊でした。夕食は刺身がついた仕出しの豪華な折り詰め、熱燗を飲みながら食べたかったところでしたが、そこは禅寺、日本酒はありません。自販機のビールを買って飲むことは差し支えないとのことで、ビールを飲みながらの食事になりました。その代わりに翌日の昼、有名な南禅寺の湯豆腐に舌鼓をうちながら熱燗を味わうことになりました。
 前日は京都の隣り、滋賀県豊郷(とよさと)にある伊藤忠兵衛記念館に行ってきました。伊藤忠商事発祥の地です。初代の忠兵衛さんは1842年の生まれです。坂本龍馬や福沢諭吉らとともにいわゆる天保の老人たちといわれた世代でしょうか。天秤棒をかついで麻布などを売り歩いた点はふつうの近江商人です。いまの総合商社のみなもとはどの辺にあったのかに興味がありました。見つけました。夫人、八重さんの働きです。主人は行商人ですからほとんど留守です。商家を切り盛りしたのは夫人でした。丁稚を教育し、商売がうまくいくように取りはからいました。初代が死んだのは長男が17歳のときでした。17歳の長男を跡継ぎにしますが、この若造を育て上げたのが八重さんでした。跡継ぎであるにもかかわらず丁稚奉公からはじめさせ、みっちりと修行させ、教育していったのです。じつは大阪に店を出し、本格的な総合商社の礎をつくったのはこの2代目でした。店の従業員を教育したのも八重さんでした。
 NHK大河ドラマにならないかな、と考えました。だれかが小説を書いてくれないでしょうか。掘り起こせばいろいろなことがわかってくるはずです。なにしろ2代目忠兵衛さんは1973年まで生きていたのですから。

 ここまで書いたところで、ふと窓に目をやると雪が降っています。これから泉岳寺へ向かいます。赤穂浪士討ち入りの夜を偲ばせるのにぴったりな雰囲気になりました。
 写真は南禅寺境内にある水路閣とよばれる構造物とそのうえを流れる琵琶湖疎水。
  





バブリーな時代

2017年12月24日 | 日記

 大関が7勝7敗で千秋楽を迎える。対戦相手はたいていは別の大関か、関脇あたり。まちがいなくその大関は勝つ。大関は角番を脱出するか、あるいは負け越すことなくぶじに次の場所を迎える。こんな取り組みを何度も観ていたころ、私の直感を裏づける本が出た。「Freakeconomics」。邦訳のタイトルはたしか「やばい経済学」だったか。これはおかしいと直感したアメリカ人ライターが、統計学的手法で調べ上げた。7勝7敗で千秋楽を迎えた大関の勝率の異常なほどの高さ、それはなにを意味するか。――ちなみにこの本は、ほかにも興味深い話題を取りあげている。記憶に残っているものでは、アメリカの小学校で、生徒のテストの点数で教員の給料の額が左右されるために起こる、テスト点の改ざんという不正行為、アメリカで70年代に成立した堕胎防止法のためにその十数年後に爆発的に増えた青少年犯罪の数などがある。――
 造形美術作家の北川健次氏がブログでめずらしく大相撲を話題にされている。勝新太郎が三国連太郎と対談しているさなか、とつぜん貴花田の取り組みの時間が気になりだした。いまの貴乃花親方だが当時はまだ横綱になるまえ、実父が率いる藤島部屋に所属し、ガチンコ勝負を貫いていた。藤島部屋は八百長にのる気配をいっさい見せないために、ほかの部屋からは煙たがられていたらしい。勝と三国の対談のなかに、当時の相撲界の風潮を臭わせるくだりがある。
 さて今回の事件、はじめのうちは日馬富士の暴力にバッシングを浴びせ、その後、貴乃花親方の意固地なまでの沈黙を疑い、いまではどうやら貴乃花親方の頑固なまでの相撲道を賞賛しながら、相撲協会のふがいなさをバッシングする方向へと進んでいるようだ。メディアが導く世論などあやふやなものだ。
 憶えているだろう。小池都知事が率いるグループが7月の都議選では大勝したのに、10月の衆院選では大敗したことを。あれは何だったのか。メディアは小池氏の失言のせいだ、「排除します」発言のせいだとバッシングした。しかしそれを引き起こしたのは一にも二にも有権者の投票行動だったし、それを助長したのがメディアだった。そのときの風で選挙結果が左右されてしまう民主政治の危うさが露呈されてしまったことを真摯に反省している暇もなく、次から次へと事件がつづいている。
 これこそバブリーな時代といえないだろうか。



黒い城、松本城

2017年12月22日 | 日記


 松本城は黒い城だった。白い姫路城と好対照になる。幼いころから姫路城を見続けてきた私は、城はすべて白いものと思っていたが、黒い城もあったのだ。なぜ黒いのか気になるところだが、ネットで調べたことぐらいしかわからないからここへ書くことは差し控える。
 地図でみると、松本城は駅から近い。徒歩15分とある。駅から見えるはずだ。だが特急あずさからおりて駅前へ出ても何も見えない。高層ビルが視界を遮っている。立川や八王子駅前のビルほどの高さではないが、そびえ立つはずの城が見えない。近くまで行けばさすがにその威容を表す。平地に建つ城とはいえ、5階建てで天守閣を備えているのだから、まわりの屋敷や民家から見上げる高さだったはずだ。国宝というならまわりからの景観も含めてその価値全体を保存してほしい。
 姫路城は平地のなかでも少し盛り上がった丘陵に建っている。いまでも新幹線や在来線で姫路駅に近づくにつれ、その雄姿を眺めることができる。ただ姫路駅からの眺めは昔にくらべ、大きく変わってしまった。駅前のまっすぐな大通りの先に堂々と聳えていた白鷺城は、いまでは両脇に立つビルの谷間になさけない姿を現すにすぎない。下の写真は姫路駅、新幹線のプラットホームから撮ったものだ。
 尾張地方、犬山城を見にいった。これは近年まで個人の所有物だったために国宝でありながら公開されてこなかった。小さな城ながら、むかしの石垣をそのまま残している。訪れたのが数年前でありながら、なぜか強烈な印象を残しているのは、あまり手を加えないで昔のままの姿を残しているせいだろうか。
 岐阜城は山の頂上にあり、たいていの観光客はロープウェイでのぼっている。町からは一目瞭然によく見えるが、はたして城としての使い勝手はよかったのだろうか、と疑問がわいてくる。ロープウェイなどない時代、戦国武将たちは徒歩で城までのぼっていった、水をくみ上げた、と想像するとぞっとする。
 ひとくちに城といっても、それぞれに事情を抱えて建てられたことが推察できる。

 さて年末には、近江商人博物館と伊藤忠兵衛記念館を訪れることになっている。伊藤忠商事の祖、伊藤忠兵衛について調べているが、くわしく書いた本が見つからない。邦光史郎「豪商物語」がわずかに10ページほどを割いているのみだ。さらなるリサーチが必要だ。







ふじのやまなみクロスカントリー駅伝競走大会

2017年12月17日 | 日記

   
 藤野の12月の風物詩は、駅伝の練習風景と山道での落ち葉集めだろう。落ち葉は腐葉土をつくるためのもので、道端に落ちている落ち葉なら無料でしかも無尽蔵に集めることができる。
 駅伝はきょうが本番だった。85組が出場し、第3走者と第4走者の中継地点では高校生チームがトップ(写真)を走っていた。やまなみクロスカントリー駅伝という名前がついている。アップダウンの激しいコースが特徴で、とくに第4走者は日向地区の急峻な上り坂を走らなければならない。毎年、日影原の中継地点で応援しているが、この中継地点には5人のチームのなかでも体力にもっとも自信がある人が集まる。第4走者こそがふじの駅伝の華なのだ。
 NPOの薪づくり作業の日だったが、時間になるとみな手を休めて、沿道の応援団に加わった。ナマで競技を観戦するのは、テレビで観るのとまた違った味がある。そしてふじの駅伝の華である第4走者が順番を待っているようす、ウォームアップしているところ、第3走者からたすきを受けつぐ瞬間を目の当たりに観ることができることに、ちょっとした優越感を感じてはいないだろうか。
 かつて箱根駅伝の往路を小田原中継地点で観たことがあった。箱根の上り坂を走る第5走者は箱根駅伝の華だ。あっという間に通り過ぎるが、そこでもやはり、往路5人のなかの最強の選手をそろえているはずの小田原中継地点にいることに優越感を感じたのではなかったか。
 ふじの駅伝の沿道に出ることには、花形選手を観ることよりも知り合いが選手として参加しているかもしれないというわくわく感が加わる。近所のIさんがかつて何度か出場していたが、たいてい日影原でたすきを受けとる役だった。ことしは薪炭クラブでおなじみのWさんが家族総出で出場すると聞いていたが、残念ながらご家族の体調不良やら補欠選手の仕事上の都合で棄権したようだ。来年を期待しよう。

 薪づくり作業では、木を数本切り倒し、運搬機で作業場へ搬入、薪割り機で割っていった(写真)。




大忠臣蔵、そろそろ大団円か

2017年12月14日 | 日記

 三船敏郎主演の大忠臣蔵(52回シリーズ)をテレビで観ている。もともとテレビドラマとして製作されたものらしく、1話ごとに完結しながらつづいていく。昨晩の回では俵干玄蕃が登場した。むかし三波春夫が歌った浪曲調の歌でしか聞いたことのない名前で、忠臣蔵に出てくる人物だという認識は乏しかった。剛力で剣の名手として道場を主催していたところ、大石内蔵助の討ち入りを阻もうとする勢力から、大石殺害を持ちかけられる。俵干玄蕃は実在の人物だったのだろうか。たぶん違う。赤穂浪士たちの仇討ちという一本の太い軸に味つけをするために配された脇役たちの一人と考えてよさそうだ。なつかしい勝新太郎が演じていた。この時代劇には懐かしい俳優がいっぱい登場する。堀部安兵衛役の渡哲也をはじめ曾我廼家五郎八、明蝶まで久しぶりに観た。
 ところで兵庫県赤穂で幼いころを過ごした私は、小学校二年生のときに担任の先生から赤穂事件の概要を聞かされた。毎年12月14日には赤穂の町なかは義士祭で賑わった。この日だけは赤穂の人口が倍か3倍にもふくれあがると聞いた。それほど多くの見物客が訪れた。義士行列が祭りの華で、四十七士の行列が町の大通りを練り歩いた。大石内蔵助役は赤穂市長がやるものと決まっていた。今もそうだろうか。
 赤穂城は炭櫓が現存している以外、何も残っていない。城壁は当時からあり、何度も塗り替えられているようだ。掘り割りもむかしのままだろう。城内には大石内蔵助を神としてまつった大石神社が中央に鎮座し、義士祭や正月にはおおぜいの参拝客を引きよせている。
 しかし残念なことに、町の区画整理と道路整備により、城下町特有のT字路がほとんど消えてしまった。小学生のころ先生から聞かされたものだった。敵が町に攻め入ってきても、すとんとしたまっすぐな道路ならすぐに目的地まで達することができるが、T字路ならどっちへ進むべきか一瞬考え込むことになる。ねらった場所へ到達することを遅らせるための道路構造だった。ところがいまでは、JR赤穂駅からずどんとまっすぐな道がついてしまった。町中も車が走りやすい碁盤の目の構造に作り替えられてしまった。なんということだ。播州地方の中核をになう産業都市として経済的に発展してきたが、忠臣蔵の遺産をかかえる観光都市としては、残念ながら後退してしまった。江戸から早駕籠で殿様の事件を伝えた家臣が息をつぎ、水を飲んだとされる息継ぎ井戸は観光の名所として残っている。だがとてもきれいな、清潔な井戸になったようだ。
 さて、今夜も大忠臣蔵が楽しみだ。それにドクターXも最終回だったな。