新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

シャープは何をつくる会社なのか

2016年03月27日 | 日記

 シャープが台湾の企業に買収される。100年ほどまえにシャープペンシルをつくりだした会社だ。100年まえといえば松下幸之助がせっせと二股ソケットをつくっていたころだろうか。会社名を早川電機にしたころは家電メーカーだった。テレビコマーシャルのせいで記憶に残っている。
 そして書院というワープロ専用機を売り出したときから私はシャープファンになった。箱形のワードプロセッサーで印刷機と一体になった画期的な文房具だった。文章を書き、その推敲が自由自在にできて、いつでも清書した形で印刷できる。ノートや原稿用紙に下書きする手間を省けるのだから時間の節約にもなった。箱形からノートパソコンに近い平置き型に変わってからも、機能が日進月歩していたので2年ごとに新機種に買いかえたが、東芝やNECなど競合他社の機種には目もくれず、一貫してシャープの書院を使いつづけた。
 そのうちの2台がいまも私の手元に残っている。1997年にパソコンを買うまでずっと使っていたもので、2台とも電源を入れればいまでも正常に作動する。いまは看板作製用の文字を出すのに使う。垂れ幕作成という機能をもち、B4のロールペーパーに大きな文字を無制限の長さで出すことができる。
 文房具メーカー、家電メーカーだったシャープはその後、液晶画面に力を入れ、テレビの亀山モデルや電子辞書販売に乗り出す。電子辞書は私には仕事上、必要なものだが、リーダーズ英和辞典が入っている他社のものを選んだ。ハードに入れるソフトウェアの選択が私の必要性を満たさなかった。
 ともあれ、私にとってワープロの代名詞ともいうべき存在だったシャープが外国企業に買収されるのは悲しいことだ。シャープはいったい何をつくることを主眼にしてきたのだろう。そしてシャープはこれから何をつくる会社になるのだろう。





ミャンマー人には苗字がない

2016年03月26日 | 日記


 岩波新書の新刊「世界の名前」を買って、気になっていたことを調べてみた。
 ミャンマーの人たちの名前はファーストネームのみで苗字がないというのは本当か。本当だった。アウンサンスーチーさんを単にスーチーさんと呼ぶのは、ファーストネームを二つに切って一方だけを愛称のように使っていることになる。マスメディアが呼称としてスーチーさんを使っているのは短くて紙面を節約できるためにすぎない。
 ではミャンマーでは永遠に苗字をもたない民族であり続けられるだろうか。ミャンマーについての章を書いた筆者は、「姓の成立には至らない」事情を書いているが、私は姓が成立する要件は文明の進歩とともに生じてくるだろうと思っている。アウンサンスーチーさんの場合、アウンサンは父の名前、スーは祖母から、チーは母から受け継いでいる。父や母の名前を組み合わせて個人の名前をつくることは、すでに西ヨーロッパのラテン系民族の名前の作り方そのものだし、私たち日本人も家族の名前を苗字として受け継いでいく建前になっている。
 ミャンマーが都市化していくと田舎に住んでいた人たちが都市に流入し、「〇〇から来た××」と名乗ることになる。宮本村から来た武蔵(たけぞう)が宮本武蔵と名乗るのとおなじだ。「〇〇の息子××」と名乗ることもあるだろう。英語でマクドナルド、マッカーサーはそれぞれドナルド、アーサーの息子という意味だ。むかし国連の事務総長をつとめたウー・タントはミャンマー人だったらしいが、男性に敬称としてつけるウーと「清い」を意味するタン(ト)だけで世界的に通用していた。はたしてこれは続くだろうか。日本では明治になり、ほとんどの人に苗字がつけられた歴史がある。苗字をもつ必要性が生じたからだ。はたしてミャンマーではこの先どうなるか。30年先を楽しみにしよう。
 私が疑問に思いながら確認できないでいたもう一つの問題は、ハンガリー人の名前は日本人なみに苗字が先にくるのか、という点だ。これも正しかった。ヨーロッパではめずらしい。ハンガリー語自体がウラル語族に属し、インド・ヨーロッパ語族に属するのではないからだ。日本語の「白い家屋」では「白い」が「家屋」を修飾している。修飾語が被修飾語の前にくる。ヨーロッパのたいていの言語では、カーサ・ブランカ(家屋白い)のように語順が逆転する。そういう言語の特性が民族の姓と名の順序にも影響している、と「世界の名前」のハンガリーについて書いた章の筆者は主張している。
 苗字が先にくることにはメリットが多い。英語国の電話帳は苗字を基準にしてアルファベット順に並べてある。 
  Smith, Adams
とあれば、Adams Smithの名前の苗字を先に書いたことになり、コンマが姓と名を逆順にしたことを表すための重要な標識になっている。コンマがあるかないかで、姓と名が逆転してしまうので注意が必要だ。
 ミャンマーの人たちのように苗字がないのは不便だろう、ハンガリー人のように苗字が先にくるほうが便利だろう、などと考えるのは日本語に慣れてしまったものだけがいう言葉だろうか。



炭焼きには性格が反映する

2016年03月24日 | 日記


 窯づめにはつめる人の性格が現れる。前回の窯づめはYさんが初めから終わりまでのほとんどをしてくれた。窯内は炭材がびっしりと隙間なくつまった。80センチの炭材といってもまっすぐなものばかりではないし、ときには二股になった材もある。それを窯のなかで垂直に立てておいていく。ともすると斜めに寝かせるような置きかたになってしまうことがある。また窯の天井と80センチの炭材との間には高さ10センチから30センチの隙間ができる。それを短い炭材、細い炭材で埋めていく。窯のなかでも天井はいちばん弱い部分で、手荒に扱うと土がぼろぼろと剥がれ落ち、ゆくゆくは天井に穴が開く結果になりかねない。炭材で隙間を埋めていくときにいちばん注意を要する点だ。前回のYさんの仕事はていねいだった。隙間を感じさせないほどびっしりと詰まっていた。
 今回はKHさんが窯の手前部分3分の2ほどをつめてくれた。窯の手前、焚口に近い部分まで詰めが進んでくるにつれ作業に使える空間がだんだんと狭くなり、前かがみの窮屈な姿勢をとりながら最後の詰めをする。焚口の内壁をつくり、そのうえで内壁の奥に隙間ができないようにさらに炭材を加える。ここがむずかしい。どうせ燃えて灰になってしまう部分だからといい加減な詰めかたになってしまうことが過去には多かった。KHさんは内壁の内側までぎっしりと詰めてくれた。こうすることにより窯内に火が入りやすくなる。内壁の奥に隙間があると、その分だけ焚口の火が届きにくいのだから、この部分をきちんと炭材で埋めることは肝要だ。
 前回も今回も窯づめに人材をえて、理想的な窯づめができた。




窯を開けました

2016年03月20日 | 日記


 窯を開けました。窯奥からはコナラの良質の炭が出てきました。前回より1日半ほど早い仕上がりだったので、焼け具合を心配していましたが、遜色のないりっぱな炭を取りだすことができました。
 そしてすぐに、次に焼く炭材を詰めました。次回の火入れは4月9日を予定しています。コナラ材は窯全体の3分の1程度とすくなめですが、ゆっくり焼き上げたいと思っています。
 おおぜいでの作業でしたから、午前中に炭の取り出しと新しい炭材の窯づめの両方を一気に終えることができました。
 午後は薪割り作業です。薪割り機の威力をまざまざと見せつけられます。節がある木でも油圧の力でぐいぐいと割っていきます。機械の力で割っているのですが、機械を運転する人はいかにも自分が割っているかのように気合いを入れてレバーを押したり引いたりします。一仕事終えたときは疲れてぐったりするものですが、80歳の女性Oさんはいっこうに疲れを見せません。さすがに鍛え方が私たちとは違うのでしょう。
 炭焼き場上の農道の補修工事がおこなわれました。来年度も引きつづき延長しておこなわれるようです。
      





作家、今西祐行

2016年03月14日 | 日記


 ある本を読んでいて謡曲「天鼓」の話にであった。そこから私の古い記憶がよみがえってきた。

謡曲「天鼓」
 むかし中国に天鼓という少年がいた。天から鼓をもらいうけ、妙音を発する鼓を打って楽しんでいた。それを聞きつけた帝王が少年からその鼓を召し上げようとする。少年はそれを拒む。怒った帝王は少年を川に沈め、むりやり鼓を奪う。しかし宮廷でだれが打っても鼓は音を出さない。しかたなく帝は少年の父親を召し、鼓を打たせる。すると鼓は妙音を発する。帝は少年を哀れんで、沈めた川のほとりで追悼の宴を催す。すると少年の亡霊が川面に現れて鼓を打ち、舞をまう。

 子どもが小学生だったころ、PTA主催の講演会があった。そのころ委員をしていたので、藤野に住んでいた児童文学作家、今西祐行氏に講演を依頼した。すると今西氏は上の謡曲を引き合いに出し、「戦前、戦中のコミュニケーションは1対多であった。天皇が声を発すると国民はそれを聞く。文句はいっさい言えなかった。その権威を拒否したのが天鼓だった」というような話をされた。この話は、それから20年以上を経たいまでも私の耳にこびりついて離れない。

 今西祐行氏はすでに鬼籍にはいられて久しいが、若いころNHKラジオで聞いた「肥後の石工」の朗読も忘れられない。
 薩摩の国で石橋をつくる。そのために肥後の国からおおぜいの石工を呼び集める。当時、橋は他藩との戦争が起こった場合、戦略上の兵器として使われた。つまり、石をひとつ取り去れば、橋全体ががらがらと崩れ落ちるような仕掛けを施したのだった。橋が完成すると、その秘密を知っている石工たちをそのまま郷里へ返すわけにはいかない。橋づくりに加わった石工たちを刺客が狙う。石工たちは郷里へ帰り着かないうちにつぎつぎに殺されていった。ひとりだけ刺客がなんとなく魅力を感じ、殺せない石工がいた・・。

 ものを書けば長く記憶に残る筋の話を書き、講演をすればまた耳にこびりついて離れない話をする作家はめずらしい。