新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

誤解しないようにしよう

2014年09月28日 | 日記

「イスラム国」の過激な活動がイスラム教とアラブ世界全体のイメージを壊しているようだ。私が西ヨーロッパの歴史から学んだイスラム教国のアラブ人たちはそれほど過激な思想をもたず、世界の他の宗教と調和しながらこれまでやってきた人たちだった。
 スペイン南端と北アフリカの北端セウタとはわずか15キロしか離れていない。このジブラルタル海峡をアラブ勢力がアフリカ側から船でわたり、イベリア半島のほぼ全土をあっという間に制圧したのが711年だった。キリスト教が支配するイベリア半島の人びとは生活が苦しく支配層にたいする不満が渦巻いていたので、アラブ勢力を歓迎する向きがあったようだ。
 その後、800年近くにわたりイベリア半島はイスラムの勢力下におかれることになるが、そのときアラブ・イスラム側がとった宗教政策はきわめて寛容で穏健なもので、キリスト教徒に改宗することを強制しなかった。アラブ人たちは天文学や印刷術をはじめとする各種の科学技術や建築術、さらには航海術までヨーロッパに伝えたのではないかとされる。ゲルマン人たちが荒れ放題にしたスペインの土地に緑を取りもどさせたともいわれている。いまの建築物を見てもスペインとポルトガルがいかにおおくをイスラムに負っているかがうかがえる。
 その後キリスト教徒側が失地回復運動にのりだすが、それもアラブ側の内紛に乗じてようやく1492年のグラナダ陥落で終末を迎える。その後キリスト教側がイベリア半島内に残るイスラム教徒たちにたいしてとった宗教政策は魔女狩りのような深刻な問題を引き起こした。キリスト教側のほうがむしろ寛容を欠いていた。
 昨今のイスラム過激派による極悪非道ぶりをみて、イスラム全体のイメージを誤解しないようにしたいものだ。






ミレナ・イェセンスカー

2014年09月27日 | 日記

 ミレナ・イェセンスカーはチェコ、プラハで生まれ育ち、結婚してウィーンにしばらく住む。その不幸な結婚生活をしていた一時期、フランツ・カフカと手紙をやりとりしたためにカフカの恋人として知られるが、私にとっては両大戦間の陰惨な空気がただようプラハの町をたんたんと筆写した稀代の文筆家だ。いくつかの新聞に寄稿した文章が「ミレナ 記事と手紙」という本に収められている。
 ヒットラーがその野望の実現に走り始めた1938年、フランスとイギリスの仲介でチェコのズデーテン地方をドイツに割譲することに決まった翌日、プラハの町の人びとの暗い表情を「三か日概観」に書いた。
 いよいよプラハにドイツの軍人が入ってきた日、「プラハ 一九三九年三月十五日の朝」に自制がきいた町の人びとのようすを映し出した筆致はみごとだった。
 朝がまだ明け切らないうちに情報は流れ、どの家にも電気がともった。ラジオでの呼びかけに応じて、みなが朝いつもの時間に出勤し、学校へ行った。市電はいつものごとく満員だったが、話し声がなかった。道路を歩く人もただ黙々と歩いた。顔にそばかすがある若いドイツ兵士が町の若い女性が涙を流すのを見て、自分がいるためにそうなったことを悟り、「お嬢さん、私たちにはどうしようもないんです」と声をかけた。彼もまた祖国に服従していた。
 プラハの町が、その人びとがますます魅力的に見えてきた。ミレナの魅力はそれ以上だが、ここには書ききれない。



水戸黄門の印籠の中身

2014年09月22日 | 日記

 ある漢方薬をいただいた。むかしから有名な薬だそうで、何にでも効く万能薬のようだ。胃や腸といった消化器に効き、循環器にも効く。さらに粉にして塗れば擦り傷にも効果を発揮し、水にといて眼にさせば目薬になるという。
 発祥は古く足利時代にさかのぼり、創業した家系がいまも変わらない方法で作りつづけている。見た目には仁丹のようで、味も仁丹に似ている。小田原にある独特な構えの店でしか販売されていない。江戸時代、水戸黄門が印籠をもって全国行脚した話が実話なら、その印籠の中身はおそらくこれだっただろう。東海道中膝栗毛にもこの薬の話が出ているそうだ。
 漢方に詳しい人にたずねると、2,30年まえはもっと効いたという。むかしながらの方法で作りつづけてはいても、原料になる薬草が変わってきているのではないか。むかしは自然に生えている薬草を摘んで粉にしていたはずだが、いまは安定供給するためにおそらくは自家栽培しているはずだ。おなじ薬草でも自然のものと自家栽培のものではおのずからその効き目が違ってくるのではなかろうか。



どこからが関西か

2014年09月21日 | 日記

 岐阜県関市に写真のような標識と宣言書があります。ここから西が関西だ、と宣言されても困りますねえ。ことばにはさまざまな層がありますから、そう簡単に定義はできないでしょう。
 地理的には関市を境にそこから西を関西と定義できても、社会文化的にはどうでしょう。ここから西の人たちは関西のアクセントでしゃべるか、料理で薄味を好むか、正月に食べる餅は丸いか、などなどもあわせ考えて、全部の要件を満たせばそこは完全に関西ということになるのではないでしょうか。
 私は幼いころ、野菜と果物の違いを自分流に定義していました。ご飯のおかずになるのは野菜、おやつに食べるのは果物だというものでした。トマトは畑でとってかじるものだからおやつ、だから果物でした。
 頭脳明晰な友人が生物学的な定義をこころみました。それは木になるものが果物で、畑の地面に生えるものが野菜だというものでした。
 ことばは文化の一側面です。地理的、生物学的な面だけからことばを定義するのは片手落ちというものでしょう。

ポルトガル文

2014年09月15日 | 日記

 他人に貸したまま戻ってこなくなる本がある。そのような本にかぎって自分自身のなかで存在が増幅し、読み返したくてたまらなくなる。
「ポルトガル文(ぶみ)」をはじめて読んだのは20歳のときだった。それを(記憶が正しければ)友人に貸してそのままになっている。
ポルトガルの修道院にいる尼僧がフランスからやってきた軍人に恋をし、軍人がフランスへ帰国したあとも慕いつづけ、熱烈な想いを5通の手紙につづった。
 実話だといわれ、ポルトガル語で書かれた手紙がフランス語に翻訳されて公刊されたのが1660年ごろ、リルケがドイツ語に翻訳したのが1913年だとされている。このたび私が読んだのはリルケのドイツ語から日本語に訳したもので、以前に読んだのはたしか佐藤春夫訳だった。ポルトガル語で書かれた元の手紙はフランス語版が出版された時点で失われたとされ、現存しない。
 ポルトガル語からフランス語へ、フランス語からドイツ語へ、ドイツ語から日本語へと翻訳された。この過程でどれほどのものが失われ、どれほどのものが付加されたか、知るよしもない。イタリア語のことわざに「Tradutore, traditore(翻訳者は反逆者)」というのがあるそうだ。