新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

大いなる西部

2017年03月29日 | 日記

 時間があるときは、読みものをとおしてアメリカの歴史をたどっています。いまは1840年代の西部、ペンシルベニアからオハイオ、ミズーリ、さらに西へ行ってコロラド、オレゴンへと進みます。オハイオ川、ミシシッピー川、ミズーリ川などのようすが描かれています。もちろんそこに住む人たちの人間模様や町のようすが主体で、じつに活きいきしています。写真は、州ごとに色分けしてあるアメリカが州国の地図です。

 リーヴァイとエリーは馬車とそれを引く馬6頭を用意して西部オレゴンをめざす。24歳のディーヴァイは宗教色が強い町ランカスターで問題を起こし、町の人たちから忌避され、自由な生活ができるという噂がある西部オレゴンをめざす。またエリーはまだ16歳だが、孤児(みなしご)であるがゆえ、いくら人に親切にしても、周りの人たちから無視され続けてきた。この2人が一緒になり、西部での自由を夢見て、長い旅路につく。
 1844年当時、アメリカ合衆国は独立国になってはいたものの、東部13州以外は、まともに治められてはいなかった。その東部13州以外を一括して西部、または中西部と呼んでいた。地図でみればアメリカの東のほんの一部を除いてほとんどが西部になる。その西部は、スペイン系の人たちが実質的に治める地域があり、フランス人が、はたまたドイツ人が治める地域があったし、数々の先住民族も跳梁跋扈していた。なかでも好戦的な先住民族は、白人がもたらす馬と銃をほしがった。引き替えにするのは主としてビーバーの毛皮だった。
 当時の大工業都市ピッツバーグからケアロまではオハイオ川を船でくだるのがふつうだった。リーヴァイとエリーは6頭の馬に馬車を引かせていたので蒸気船には乗せてもらえなかった。かわりに筏を組み、それに乗せて川をくだる。信頼できる筏師としてフィナティを紹介された。フィナティは筏師であり、筏製造人でもあった。以下はフィナティのことばだ。「おれは最高の筏をつくる。40ドルだ。ケアロまで操縦していって、ケアロでその筏を30ドルで売りとばす。おまえさんが払うのは実質10ドルですむというわけだ」。フィナティはさらに続ける。「筏は荷馬車が3台乗れるほど大きくする。つくるのに2週間かかるから、そのうちにあと2台は現れるだろう。そいつを乗せて、もうけはおまえさんと俺とで折半する。どうだ」。いまでいうウィン、ウィンの関係だ。ところがフィナティはどうやら他の2組の客からもかなりの金をせしめたらしい。さらにケアロに着いて筏を売ろうとしたが、予期した値段で買ってくれる相手が見つからない。リーヴァイが筏を売りさばこうともたもたしているうち、フィナティはやって来た蒸気船に乗ってさっさとピッツバーグへ帰ってしまった。
 このような詐欺行為で充ち満ちているアメリカ西部を旅するのはなまやさしいことではない。いまここに書いたのはミッチェナーのフィクションだが、時代背景はまさに1840年代そのものだ。
 のちに政治学の大著「アメリカン・デモクラシー」を著したフランス人トクヴィルは、若いころ友人のボモンと一緒にまさにこのピッツバーグからケアロまでオハイオ川を蒸気船でくだっている。ときは1831年、オハイオ川を下降中、このようなことが起こった。順調にくだっているかのように見えた蒸気船の甲板に突如、亀裂が入る。船が動けなくなる。浅瀬で突起物につきあたったのだった。その船は沈みはじめるが、乗船客と乗組員は運良く通りかかった別の船に救助された。強盗、詐欺以外にも気をつけなければならないものが多く、まさに命がけの旅だった(ダムロッシュ「トクヴィルが見たアメリカ」)。









小女子の季節になった

2017年03月24日 | 日記

 兵庫県から岡山県との県境を越えた日生(ひなせ)まで小女子(こうなご)を買いに行った。イカナゴくぎ煮という名前で売っていた。神戸あたりから兵庫県の西の端までの瀬戸内海沿岸地域では、毎年この時期になると小女子を食べる。店にも並ぶが各家庭で独自の味のものをつくっていた。いまでは生のイカナゴに垂れをつけて小女子セットとして売っている。セットなっている生のイカナゴと垂れを鍋に入れて煮込めば、だれでも手軽におなじ味の小女子ができあがる。自家で消費する分だけでなく多めにつくって隣近所、友人知人に配布する家庭も多い。瀬戸内沿岸地域では春の風物詩になっている。
 いっぽうこの地域の人たちはマグロを食べない。マグロにかぎらずカツオ、シャケといった赤身の魚を嫌うようだ。瀬戸内海でとれる魚は鯛、蛸、穴子に代表される。どれもうまい。赤身の魚は遠くから運ばれてくる。むかしはそれだけ鮮度が落ちた。
 マグロは江戸時代には大量にとれた時期があった。そのころには鉈でぶった切って売り、買ったほうは煮るか焼くかして食べた。江戸では刺身にしても食べていた。1643年の記録にすでにマグロの刺身が登場し、1830年ごろにはもてはやされる食べものになっている(飯野亮一「居酒屋の誕生」)。江戸前でとれて新鮮なまま食用にできたからこそ刺身になった。
 そのころからの食文化が今にまで及んでいる。平成24年、1世帯あたりのマグロ購入金額は東京都区部が8068円、京都が3025円、大阪が4354円(総務省)になっている。あきらかに東高西低だ。
 関西で生まれ育った私はマグロについては遅咲きの部類だが、いまでは関東人に負けないマグロ好きになっている。今夜もマグロの刺身で一杯やりたいなあ





クルミ割り初体験

2017年03月19日 | 日記

 昨秋、拾い集めたクルミが数百個たまっている。十分に乾燥させてあるが、どう処理したものかと思いあぐねていた。
 クルミを金槌でたたくと殻も実も粉々になり、実をきれいな形で取りだすことができない。
 今回、私がとった方法は以下のとおり。
 クルミを殻ごと一晩、水につける。翌日、水からだして水を切り、フライパンにのせて弱火で煎る。殻に焦げ目ができるぐらいまで煎ると、殻の合わせ目が開いてくる。ほどよく冷めたところで、殻の合わせ目に鉈の刃をあて、鉈の頭を金槌でたたく。これで難なくきれいに殻が二つに割れ、実も二つに割れる。
 ネットでクルミの割りかたを調べ、手元にある道具だけでできる方法がこれだった。ホームセンターでクルミ割り器を見つけて買おうとしたことがある。ペンチのような形の道具で、てこの原理を利用して固い殻を割る方式のようだった。ところが説明を読むと西洋ぐるみなら割れるが、和ぐるみは固すぎてその道具では割れない、とはっきり書いてある。和ぐるみはたしかに固い。金槌でたたこうとしても、割れるまえに押さえている手からはじけ飛んでしまう。
 そこでくるみを手で押さえやすくするための方法を考案した。厚さ2センチの板きれの中央部にクルミの下4分の1程度がおさまる穴を開けることだった。この穴へ入れれば、手で軽く押さえるだけでクルミは安定する。金槌でたたいたときにはじけ飛んでしまうことを避けられる。百個あまりのクルミを1時間ほどで割ることができた。
 これはたいへんな考案だったとわれながら自慢できる。板に小さな穴をひとつ開けるだけの簡単なことなのに、ネット上にはこの種の考案は見あたらない。ひょっとして特許を申請できるのでは、と思ったりもした。穴を開ける道具は、私がいつも文字彫りに使っている電動のトリマーだ。板の表面にあてるだけで、穴を開けることができる。
 あとは割った殻から実をいかにして取りだすか。どうしても粉かフレーク状になってしまう。クルミの実としてのあの馬蹄形のような独特の形を残すことはきわめて難しい。しかも実がぱりっとしていない。いつも食べている買ったクルミの実のようにはならないものか。
 




「猫」の注釈集がほしい

2017年03月15日 | 日記

 朝日新聞に掲載されている「吾輩は猫である」がなかなか終わらない。相変わらず迷亭先生やら苦沙弥先生、寒月くん、東風くんらが珍妙な議論を交わしている。銭湯の光景を描いた部分、近所の中学生が野球ボールをわざと苦沙弥邸に投げ込んで先生の憂鬱を助長する話などはつまらなくて、もう終わりに近づいたかと思ったが、なんとまたおもしろさ、珍妙さをとり戻して、いつ終わるともしれなくなった。去年の4月に始まった連載だから、まもなく丸1年になる。不如帰という俳句の月刊誌に1年8か月にわたって連載されたものを、日刊紙に小分けにして載せている。毎日の切り方がまた絶妙で、これはこれで楽しめる。
 きのうの話はこうだ。迷亭先生の毒舌だったか、高価なものを人に売りつけておいて、相手は金がないから5年間の月賦払いにする。買ったほうは毎月一定額を自分のところへもってくる。5年が過ぎても月賦払いが習慣化してしまって支払い続けるだろうから、支払い超過に気づくまでは純粋に自分の利益になるというわけだ。
 ところで夏目漱石の知識の広さ、語彙の豊富さには驚くばかりだ。そしてそれを朝日新聞ではいちいち解説してくれている。私たちいまの凡人には分からなくなっている語彙をとりあげ、出典を明記したり、意味を分かりやすく解説したりしている。もっともっとおおくの語彙をとりあげてほしい。漱石クラスの作家になれば、注釈だけで1冊の本が編めるのではないか。
 むかしダンテの「神曲」を寿岳文章訳で読んだ。翻訳の読みやすさと同時に、その注釈の量の多さと的確さに舌を巻いたものだった。ポルトガルの詩人カモンイスが書いた「ウズ・ルジアダス」の池上岑夫訳でも、その注釈が邦訳書全体の3分の1近くを占めている。
 漱石の注釈集が単行本化されることを期待している。
 






Indian Wells

2017年03月14日 | 日記

 女子マラソンに新星が登場した。手をあまり振らないで忍者のように走るところがおもしろい。日本女子の歴代記録のなかでは4位になるらしい。野口みづき、高橋尚子を追いつき、追い越せの勢いがある。
 大相撲の場所中は、髷を結えないほどのスピード出世を果たした力士の成績が気になる。これまで逸ノ城、遠藤といった力士に注目したことがあったが、期待したほどには伸びていない。
 野球の侍ジャパンにはスター選手が参加してないので、それほどの期待はしていなかったが、4連勝と勝ち続けているようだ。アメリカがそれほど強くないらしいので、優勝するチャンスがありそうだ。
 春の選抜高校野球がまもなく始まる。早稲田実業の清宮くんははたして何本のホームランを打つか。
 ATPテニスには西岡という若手選手の試合をいまNHKが中継している。NHKが中継する試合の幅を広げたようだ。むろん錦織の試合のほうが視聴率が圧倒的に高いだろうが・・。

 ところでこのテニス・トーナメントがおこなわれているIndian Wellsという地名は私にとっては気になるところだ。アメリカ合衆国カリフォルニア州南部、ロスとサン・ディエゴの間に位置する。高級住宅地とされるパーム・スプリングズに近い。Indian Wellsという泥臭い地名にもかかわらず、ここも金持ち階級のリゾート地のようだ。Wellは可算名詞として使われると「井戸」を意味する。Indianはいうまでもなくアメリカ先住民のこと。つまりこの地はむかし先住民たちが住み着いて井戸を掘ったところだろう。雨が少ない地域、砂漠といわれる地域で井戸から水を得て生活していたことがうかがわれる。
 南北アメリカ大陸の先住民たちは、ずっと昔アジアから渡った人たちだといわれる。東南アジア、シベリアからアラスカを経て南下し、メキシコ、ペルー、チリまでも南下していった。シベリアとアラスカの間にはある時期、橋が架かっていた。構造物としての橋ではない。大陸間が地続きになっていたか氷河で人や動物が行き来できる状態になっていた。
 メキシコではその先住民たちが、スペインから渡ってきたヒスパニック系と対峙し、交わっていまのメキシコを作り上げた。文化的にもメキシコ独自のものを発展させたが、どこかにスペイン本国へのあこがれを残しているところが興味深い。闘牛士にしても、メキシコで一人前になるのでなく、メキシコで修行をしたあとでスペインへ渡り、一旗揚げることによって一人前の箔がつくと考えているようだ。
 さてアメリカ合衆国内の先住民は居留地に追い込まれて肩身が狭い思いもしているようだが、もっともっと交わることを考えてほしい。交わることによってより美しい人種が誕生する。それは世界中で立証されていることだから。