新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ピーター・ローフォード

2020年05月23日 | 日記
    
 俳優ピーター・ローフォードの伝記を読み終えた。1923年生まれ、1983年没。最後はドラッグと酒に溺れる哀れな日々だった。
 写真を3枚アップした。1枚目はサンタモニカのビーチハウスで、毎週末には乱痴気パーティーがおこなわれた。ジョン(ジャック)・F・ケネディ大統領がお忍びで訪れたことから、「西のホワイトハウス」の異名があった。妻であるジャックの妹とはギクシャクしていたが、ジャックとはウマが合った。なんでも話し合える仲だった。無類の女好きである点が共通していた。
 2枚目は1962年5月19日ジャックの誕生パーティーにマリリン・モンローを招き、「ハッピバースデー・ツーユー、ハッピバースデー・ツー・ミスタ・プレジンデン」と歌わせる場面だ。マリリンはこのときすでに躁鬱病がかなり昂じていた。ジャックは危険を感じ、その後マリリンから距離を置くが、ジャックの弟であるロバート(ボビー)・ケネディ司法長官がマリリンの魅力にはまってしまう。1962年8月5日のマリリンの死について、直前までマリリンと連絡をとっていたピーターは、ケネディ家とマリリンとの関係が公になることを恐れて、その後死ぬまで口を閉ざしてしまった。ケネディ家の存在は大きく、その財力と権威の大きさには近づきがたいものがあった。同じことをジャクリーン・ケネディ夫人やエドワード・ケネディ夫人も感じていたようで、この2人にはピーターも親近感をもって接している。
 3枚目の写真はピーターの晩年を看取ったパティ・シートンだ。17歳から25歳までピーターのパートナーとして付き添い、ピーターの死の直前に病院内で結婚式を挙げた。昔懐かしい写真類が遺産として彼女に渡ったが、借金のほうがはるかに多かった。葬儀代、墓地代をだれが払うかでもめたほど、生前のピーターは借金まみれの生活をしていた。俳優として高額のギャラを稼いだ日々はあったが、長くは続かない。それでも生活は貴族のような贅沢三昧だった。別世界をたっぷり楽しめた。




地域の感染者数の動向

2020年05月21日 | 日記

 私が住んでいるのは神奈川県相模原市緑区で、生活圏として山梨県上野原市と東京都八王子市が加わる。
 相模原市の新型コロナウイルス新規感染者数は5月9日からゼロがつづいたが、残念ながら15日に1名出てしまった。しかもそれが緑区内だったようだ。その後はまたゼロがつづいている。
 上野原市内の感染者数は4月21日からゼロがつづいている。
 八王子市では5月5日以来、ゼロがつづく。
 それでも東京都も神奈川県も、都県全体としては相当数の新規感染者が出ているし、その他の条件も満たさないので国はきょうは緊急事態を解除しないらしい。それでも都知事、県知事はもっと細かく気を配って、県内の解除できる地域に解除宣言をしてほしい。地域の人たちはほっとするはずだ。もはや新しい生活様式が定着し始めているのだから、気を緩めることさえなければ商売にも活気が戻る。
 もうひとつ注視しているのが兵庫県の状況だ。母が岡山との県境付近に住んでいる。兵庫県で感染者がいるのは、大阪に隣接する尼崎から姫路にかけての瀬戸内海沿岸に偏っている。瀬戸内海に面していないのに感染者が出ているのは伊丹、宝塚、加西など瀬戸内沿岸都市に隣接するいくつかの都市にかぎられる。たつのから西と広大な面積を占める県中部、北部はこれまで1人も感染者が発生していない。それなのにいつも地図上では県全体が一様に朱塗りされ、危険地域であるかのように報道される。県北部と南部では人の行き来があまりない。県知事はこの現実をどのように見てきたのだろうか。
 



盗聴、盗聴、盗聴・・

2020年05月13日 | 日記

 盗聴合戦ともいうべき状態が「ピーター・ローフォード/秘密を握る男」に描かれている。
 ロスの海辺にあるローフォード邸は西のホワイトハウスともいえるほど、ケネディ大統領がお忍びで遊びに来ていた。1961年から62年にかけて、ハリウッド俳優や女優たちが集まってはパーティーを繰り広げていた。共和党はケネディのスキャンダルをつかめれば、4年後の大統領再選を阻止できる。マフィアは、組織犯罪撲滅をはかる大統領側の動きを一刻も早くつかみたかった。
 マリリン・モンロー邸も盗聴の対象になっていた。大統領が、その後は弟ボビー・ケネディ司法長官が電話してきたり、訪れたりしていた。ボビーとの間で結婚の約束があったと思い込んだマリリンは、自ら志願して自宅に盗聴器を仕掛けた。ボビーとの電話での会話やベッドでの会話を録音し、ボビーに結婚の実行を迫ろうとしたらしい。
 自宅への盗聴に見られるマリリンのこの異常さが1962年8月の死へとつながる。精神不安は母方の血をひいたものでもあった。それが徐々に高じていき、手がつけられないほどになる。睡眠薬を大量に飲まなければ眠れない。ジャック・ケネディ大統領に相手にされなくなったマリリンは、弟のボビー司法長官にしがみつく。結婚を迫って連絡をとろうと躍起になる。司法省にもボビーの自宅にも電話をかけまくる。マリリンが息をひきとったとき、ボビーがその場にいたことをほのめかす資料が残っているが、これは黒塗りだらけの資料なので確証にはならない。
 





ケネディ政権の脆弱性

2020年05月10日 | 日記

なんじゃもんじゃの木の白い花が満開です。5月10日撮影。

 ケネディの実妹を妻にした俳優ピーター・ローフォードの伝記から、ケネディ政権の危うさを見てとることができる。
 ケネディはキューバの指導者カストロを倒そうとした。フィデル・カストロは共産主義を標榜する独裁者であり、マイアミ・ビーチからわずか150キロしか離れていないところでソ連の勢力が誕生しているのは米国にとって何よりの脅威だった。キューバのナショナリストを支援し、カストロ政権を倒そうと、CIAをピッグズ湾に侵入させる作戦を開始した。だがそれが失敗に帰し、この失策の原因は自分にあるとケネディは国民に認めた。ケネディはもう一度その企てを別の手段で実行しようと、今度はマフィアのボス、ジアンカーナに話を持ちかけた。モングース作戦がそれだった。共産主義の脅威をとり除くことがケネディ政権の最優先事項だった。
 CIAは毒薬とたばこ爆弾でフィデル・カストロと弟ラウル・カストロ、それにチェ・ゲバラを殺害しようとしたが1961年4月までにことごとく失敗し、6月にはマフィアチームがフィデル・カストロを急襲し、暗殺しようとしたが、これも失敗した。ケネディがどれほどこのモングース作戦に関わっていたかは詳らかでないが、この本の著者は、ケネディが作戦のかなり細かい点まで承知していたとみている。ケネディと情交があった女優ジュディ・キャンベルがケネディ、ジアンカーナの会合を10回セットしたこと、マニラ封筒に入った書類をケネディ、ジアンカーナとマフィアのもう1人のボス、ジョニー・ロゼリ間を往復させていた。キャンベルは1983年に雑誌のインタビューでそのように述べた。
 ケネディは自分の浮気がばれるのを防ぐのもマフィアを頼っていた。マフィア側にとっては、さまざまな面でケネディ政権に協力しているのだから、FBIが自分たちの非合法行為に目をつぶってくれるものと思い込んでいた。ところがFBI長官エドガー・フーバーはマフィア攻撃の手を緩めなかった。司法長官ロバート・ケネディも米国社会からのマフィア追放を自分の使命と考えていた。1962年2月、FBI長官フーバーはロバート・ケネディにメモを渡し、ジュディ・キャンベルがジアンカーナとホワイトハウスの秘書あてにしばしば電話していることを知らせた。ロバートは兄ジャックにFBIが3人の関係を把握していることを知らせたが、3人の関係はやまなかった。ジャック・ケネディは40年間FBIのトップの座にいる頑固なフーバーを毛嫌いしていた。マフィア側はFBIの執拗な攻撃を避けるために、ケネディ大統領当選の際の不正な票の上積みなどの恩を思い出させながらケネディ政権に自分たちへの攻撃をやめるように働きかけていた。マフィアにつながりが深い歌手フランク・シナトラを通じてピーター・ローフォードの仲介を請い、司法長官ボビーを説得しようともした。若いボビーはピーターに耳を貸さなかった。マフィアは、ハリウッドのやつらに自分たちの怒りを見せてやると息巻き、フランク・シナトラにもケネディにもその矛先を向けていた。ボビーは、最上の方策は政権とマフィアを遠ざけること、政権とシナトラをも遠ざけることだと考えた。






学校、9月入学?

2020年05月06日 | 日記

 新しい生活様式を実行できれば、段階的に行動制限を緩和していけると政府が発表した。では学校をどうするか。新しい生活様式として12項目が挙げられている。

参考 
1 人との間隔は極力2メートル開ける。
2 手洗いをしっかりしましょう。
3 換気はこまめにする。
4 誰とどこで会ったかをメモする。
5 食事は横並び。向かい合わない。
6 買い物は、通販や電子決済を利用。
7 公園は、すいた時間を選ぶ。
8 公共交通機関での会話は控えめに。
9 帰省や旅行は控えめに。
10 冠婚葬祭などの大人数での会食を避ける。
11 会議は、オンラインなど。
12 毎朝、家族で体温を測定。

 1の「人と人との距離を2メートルあける」。これは実行できるか。不可。多くの学校で教室には40人の生徒が詰め込まれて授業を受けている。2メートルも間をあけようものなら20人ほどしか入れないのではないか。生徒を半数ずつ登校させて授業するなら、従来の倍の時間を要する。教室数を倍にして教員数を倍にすれば可能だが実用的な解決策ではない。またいま教壇と最前列の生徒との距離は1メートルもない場合があり、教壇でしゃべる教員の飛沫が前列の生徒とその机にとんでいくことは日常茶飯事だ。
 8の「会話は控えめに」について、生徒たちも教員も会話によって互いの関係を築き上げ、維持しているのだから、それをオンラインなどに置き換えることが可能だろうか。9「旅行は控えめに」により、集団旅行の最たるものである遠足と修学旅行は中止、各種研修旅行もできないだろう。11「会議はオンラインで」といっても、各種の委員会活動をオンラインのみでできるだろうか。生徒会本部に生徒会役員が集まることなく、生徒会役員会としての任務が果たせるとは思えない。多くの生徒が楽しみにしている部活動は可能だろうか。文化祭、体育祭はどのような形ならできるのか。
 こう見てくると、9月入学説を話し合おうということ自体が滑稽に見えてくるはずだ。休校期間が長く続くからといって、9月になれば従来の形で授業が再開できる保証など10パーセントもないだろう。9月入学については、いずれきちんと実現を目指して話し合いを俎上に載せるべきだとは思うが、なにもこの時期に、新型コロナウイルスに翻弄されている時期に、そんな悠長なことをしている時間はないだろう。クラスター(集団感染)を発生させないために休校措置をとっているのに、休校をどのような形で解除していくかを差し置いて、9月入学説をもちだす人たちの気が知れない。4月末ごろ全国知事会などで突如浮上し、安倍総理や萩生田文科相も検討する気になっているようだが、まだその熱は冷めていないのだろうか。