新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ネモフィラ巡礼

2017年04月28日 | 日記


 おおくの人がひたち海浜公園を訪れている。小高い丘陵に絨毯のように広がるネモフィラを観るためだ。連休が始まるまえの最終日、28日に車で行ってみた。
 圏央道がつくばジャンクションまで開通し、相模湖インターからひたち海浜公園インターまで高速道路と自動車専用道路だけを通行して行けるようになった。新緑を楽しみながら200キロを3時間かけて走った。東北道とつながるジャンクションから常磐道とのジャンクションまでの圏央道は対面通行がほとんどで、通行するのに神経を使うが、交通量が少ないのだからこれで間に合っているのだろう。一般道を通行する場合の煩わしさに比べれば、道が分かりやすいし、信号がなく目的地に確実により速く到着できる。
 広大な公園の、ネモフィラ畑とその周辺だけを歩いてきた。下の写真はチューリップのなかでも珍しい種類のもの。残念ながら名前を失念した。

手強い「吉田のうどん」

2017年04月23日 | 日記

 吉田のうどんを食べたくなって、富士吉田市、富士山駅近くの「ふじや」へ入った。注文した天ぷらうどんは6,7分で供された。大きなかき揚げと吉田うどんのシンボルマークともいうべきキャベツの下にいくらか茶色っぽい太い麺が隠れている。まずは麺を口へ運ぶ。コシがある。かみ切るにも力が入る。大きめのどんぶりからかき揚げがはみ出ている。急に不安になった。食べきれるだろうか、と。
 朝早く家を出て、二分咲きだった富士芝桜まつりの会場へ行き、本栖湖畔の絶景スポット、つまり千円札に採用された逆さ富士の写真が撮影されたという地点に赴いたあとで、ほどよい空腹を感じていた。それなのに、食べきれないのでは・・と不安になるほどの量が目の前に供されている。
 吉田のうどんを食べるのは、これがはじめてではない。これまで5,6回は食べている。そして吉田のうどんを食べさせる店をことごとく紹介している地図までゲットしていた。その地図をみて探し当てた店が「ふじや」だった。ふつうの家を改装して営業しているかのようなたたずまいの店の暖簾をくぐる。まだ11時半だというのに地元の人でほぼいっぱいになっている。靴を脱いで入り、座卓に座る。これまで食べた店もこの形式だった。地元の高校生がつくったという写真つきのメニューをみて、テーブルに備えつけの注文票に自分で記入し、店の人に渡す。水はセルフサービスになっている。
 洗練された味と食感をもつ讃岐うどんとは対極に位置し、いかにも田舎っぽい味をウリにしているのが吉田のうどんだ。かならずキャベツがトッピングされていることもその田舎っぽさを強調しているように思えるが、なんといっても麺のコシの強さ、舌触りのざらざら感にいちばんの特徴がある。これにやみつきになる人が吉田のうどんを支えているといっても過言ではないだろう。私もそれを気に入っていた。だからこそ、また食べに来たのだった。これまで食べ残したことはなかった。だが、今回はまいった。
 量の多さよりも吉田のうどんのパワーに圧倒されてしまった。麺類は好きだ。ラーメンをはじめスパゲッティ、そばなどなんでも食べる。食べ残すことはまずない。ところが今回はどうしたことか。年齢のせいだろうか。うどんがもつパワーに対抗できるだけの体力と気力がなければ、一人前を平らげることはできないのか。体力の衰えをなんとなく感じさせる出来事になった。




そして誰もいなくなった

2017年04月19日 | 日記

 渡部昇一が死んだ。英語・英文学者で享年86、心不全だった。朝刊の社会面、死亡告知欄では10行あまりの扱いだった。だが私のなかではもっと大きなスペースをしめるニュースだ。
 学生時代、友人の薦めで「知的生活の方法」(講談社現代新書)を読んだ。上智大学の図書館で夜間警備の仕事を得るところから知的生活の話が始まる。好きな本が自由に読める場所に勤めることは最高の職業だったという。ドイツの哲学者カントは朝の数時間を著述と大学の講義に費やし、その後の時間をのんびり過ごしたというような、外国の偉人の時間の過ごしかたまで紹介してくれていた。渡部は胃弱で毎日、牛乳を温めて飲んでいたという話なども、私が胃弱であるせいもあってよく憶えている。全体としてはたいした内容の本ではなく、おなじハウツーものでも梅棹忠夫「知的生産の技術」(岩波新書)には比べるべくもない。
 月刊「言語」の誌上で大野晋と1年間にわたって交わした議論ははっきりと記憶している。1970年代の半ばごろだった。国語学の重鎮に向かって新進気鋭の何でも屋が挑んだ。上と神は同語源ではないか、と。カミのミが古代日本語では2種類あるとはいえ、神は上のほうにましますゆえに神であり、上と神は同語源だと考えることに合理性があるのではないか、というのが渡部の主張だった。それに対し大野は、神と上のミは古代日本語ではまったく別の音であり、神が上のほうにいるというのは理解できない、と突っぱねた。12回に渡って議論がつづいたが、あまり実りがある議論にはならず、月刊誌の出版元である大修館から「もうやめたい」といわれてしまった。
 じつは同じころ、大野晋はインドのタミール語が日本語と起源を同じくしているという仮説を立て、さかんにあちこちでその主張を展開していた。ところが言語の起源を立証するには音韻対応を最重視する言語学会の風潮と相容れないものがあった。言語学の正道を踏み外しているようにもみえた大野晋もまた私は好きだった。
 未熟さもまた魅力であることを身をもって示してくれた渡部昇一死去のニュースは悲しい。昨年はテレビに出演して、書斎にこもっているときがいちばんしあわせだと、相変わらずの本の虫ぶりを披露していただけに、その急死は返すがえすも残念だ。知っている人が次々にいなくなる。And then there were none(そしてだれもいなくなった)。

日影原の桜が満開に

2017年04月17日 | 日記


 ことしはいろいろな場所へ出かけて花見をし、写真を撮ってきました。井の頭公園を皮切りに飛鳥山、六義園、新宿御苑。桜の名所でなくてもりっぱな桜の木があちこちにあります。
 そして最後はやはり日影原の桜です。16日には満開、花吹雪のなかで炭焼き場の片づけ作業をしてきました。都心の桜が散ってもまだ藤野ではこれから満開を迎える木が多い。日影原の桜はいちばん遅い部類だといえるでしょう。
 ふじの温泉病院、東尾垂の湯の駐車場に咲く花桃も毎年、観察しています。下の写真左は4月7日のもの、右は17日のもので、もうすでに満開状態になっていました。完全に開ききらない時期の花を好む私としては、5分咲きぐらいのときに撮りたかったのですが、好機を逃してしまいました。
  

有名人の年齢が気になる

2017年04月07日 | 日記

 新宿御苑の桜。上は陽光、下はアメリカという名札がついていた。いずれも4月6日に撮影した。

 有名人が死ぬと、その人の年齢が発表される。先日、俳優の渡瀬恒彦が死んだ。72歳だった。もっと若い、自分よりちょっと上程度だと思っていたので、72歳にもなっていたのか、というのが正直な感想だ。5日に86歳で死んだ大岡信クラスになるとあまりに年上、あまりに偉大で、まるで雲の上の人だから自分と比べる気にならない。
 自分の年齢に近い有名人が、実際には自分より年上なのか年下なのかはいつも気になる。若いころは自分と比較して、若いのに活躍している人にあこがれたり、発憤の材料にしたりしたものだった。十代のころから同い年の人として知っていた有名人にジュディ・オングと由美かおるがいた。この2人は十代の早いころからテレビに出演していた。40歳を過ぎたころだったか、神田正輝が同い年であることを知った。たぶん松田聖子と結婚したころだったと思う。それからというもの、彼が出演している番組を観るたびに、ああここに自分と同い年で活躍している人がいる、と思うようになった。最近、池上彰氏がやはり同い年であることを知った。池上氏のメディアへの露出量の多さやそのための勉強量を考えると、忙しくて寝る暇がないのではないかと心配したりもする。ほかに森田健作がほぼ同い年で、笑福亭鶴瓶は1歳下になる。精力的に活動している姿を見て、自分もがんばろうという気になる。
 また自分と年齢が近い有名人の訃報に接すると、死因が何だったのかを知りたくなる。渡瀬恒彦は胆のうガンを患い、最後は多臓器不全になったようだ。78歳で死んだかまやつひろしは肝臓ガン、膵臓ガンだった。6年まえに死んだキャンディーズのスーちゃん、田中好子は乳ガンだった。私よりずっと若かったはずだが、当時の職場の同僚が自分の時代のシンボルが逝ってしまったとその死を悼んでいた。ガンで死ぬ人が多い。
 田中康夫が「なんとなくクリスタル」で華々しく文壇にデビューしたのが鮮烈な記憶として残っているが、いまあらためて調べると1956年生まれになっている。私よりはだいぶ年下だ。「ノルウェイの森」の村上春樹は1949年生まれだから、私よりほんの少し上になる。自分と同年代の人たちの活躍をみるのは一面誇らしい気持ちにもなるが、いっぽうで自分がはたしてそれほど社会に貢献できているだろうかと自省する材料にもなる。
 いまラジオのパーソナリティをつとめる久米宏は70をすぎているはず。古館さんはもっと若いのかな。
「団塊の世代」として一括りにされることを好まない。一人ひとりの特徴を発揮して生きていきたいものだ。