新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

潰瘍性大腸炎

2020年08月31日 | 日記

 難病指定されている病気だ。安倍総理が再発したとのニュースに接し、私の周辺にいる3人の患者を思い出した。総理を含めて4人とも50代前半から半ばぐらいの、いわゆる働き盛りの時期に発症している。薬物治療によりぶじに社会復帰している点でも4人は共通している。あとの3人が安倍総理と同じように再発していないか気になり、連絡がとれる八王子のKNさんにメールを送ってみた。すぐに返信があり、漢方薬などを服用しながら元気にしているとのことだった。
 KNさん、2000年から解散する2014年まで炭遊舎で一緒に炭を焼いた。炭焼き活動がない土曜、日曜には農業をしている人のところに援農に駆けつけたり、異業種の人たちとの勉強会に参加したりと人づきあいの広い人だった。気球を飛ばすグループにも所属しており、渡良瀬遊水池で気球に乗せてもらったことがあった。そのとき一緒に乗ったBMさんがもう一人の潰瘍性大腸炎にかかった人だ。彼もまた炭遊舎立ち上げのころからの会員であり、いまは大分に住んでいると聞いている。
 顔の広いKNさんは、当然のことながら炭遊舎に多くの仲間を紹介してくれたし、また炭遊舎の存在を広く知らしめてくれた。KNさんが炭遊舎を最初に知ったきっかけがおもしろい。KNさんの奥さまが参加されたバザーにたまたま炭遊舎代表のSTさんが参加しており、奥さまから炭焼きグループが藤野にあることを知ったという。KNさんが勤めていた会社の本社が藤野にあったし、社長が藤野の人だったこともさいわいしたかもしれない。その後、転職、定年退職ののち70歳をすぎたいまも府中の別会社に所属しながら在宅勤務している。
 いつまでも若々しく活動的でいられる秘訣のようなものをKNさんから学んだ。





スティーブ・ジョブズは発達障害だった

2020年08月25日 | 日記

「大人の発達障害」ということばがこの場合に適切かどうか分からない。自分が正しいと思いこんでしゃにむに動いてしまい、歯止めがきかなくなる人がいる。一度そう思いこむと、もう周囲の人がなにをいおうと耳を貸さない。協調性がないのだから、周囲の人たちにとっては迷惑このうえないのに、本人は自分が正しいことをしていると思いこんでいる。スティーブ・ジョブズは少なくとも1984年から1985年にかけてこのタイプに陥っていた。
 ゼロックスと経営統合し、アップルの弱点を補おうとする両者トップどうしのだいじな会談で、スティーブがゼロックス幹部の認識不足を口汚くののしってしまう。マッキントッシュ・コンピュータの売れ行きが悪く、過剰な在庫を抱えていることを認識しながらも、マッキントッシュがアップルⅡcより優れていることを主張し、譲らない。CEOジョン・スカリーの信任が厚く、executive vice presidentに抜擢されたとたんに何にでも口をはさむようになり、その配下にいる部長級の役職に仕事をまかせ、決定をくださせることをしなくなってしまう。自らの傍若無人な振る舞いをまったく省みることがない。
 部下たちはCEOであるジョン・スカリーに泣きついてくる。ジョン・スカリーはペプシで苦労し、年齢もジョブズより15歳ほど上だったせいもあり、会社全体の脆弱な体質を見抜いていた。ついにスカリーが伝家の宝刀を抜き、役員会の同意のもとにジョブズを退職に追いやった。ジョブズがその会社の創設者だったにもかかわらず、マッキントッシュ部門主任の地位しか与えられていなかったのは、まだ20代と若くて経験不足であることもあったが、おそらくこの「大人の発達障害」とも呼べる性格のせいだったのではなかろうか。しかしこの性格のせいでマッキントッシュという優れたパソコンを開発できたのだし、ジョン・スカリーをペプシからアップルへ迎えることができたことも事実だ。
 いったんアップルを去った何年か後にアップルに返り咲き、その後アイフォンなどで数々の快進撃を遂げていくジョブズをも、この病名のもとで捉えることができないことはいうまでもない。そこには自らの努力によるなんらかの自己変革があったと思われる。ジョン・スカリーの自伝「Odyssey/Pepsi to Apple」は1990年代初頭で留まっている。





マッキントッシュ

2020年08月18日 | 日記

 アップル社のCEOだったジョン・スカリーの自伝「Odyssey」によれば、1984年初頭にマッキントッシュを売り出したとき、わずか74日で5万台を売り上げたという。そのまえにApple Ⅱを5万台売るのに2年半を要しているし、IBM社がIBM PCを5万台売るのに7年半かかったことに比べれば、マッキントッシュの売れ行きのすごさが分かる。開発したのはスティーブ・ジョブズだった。ジョブズには、パーソナルコンピュータを企業だけでなく学校や個人にも行きわたらせようという意図があった。コンピュータは世界を変える、人びとの生活を変えると信じて疑わなかった。それには機体を個人の机におけるほど小型にする、誰もが買えるほど安くする必要があった。
 世界の潮流、時代の潮流に遅れること13年、私がはじめてコンピュータを操作したのは1997年だった。それまでワープロ専用機を愛用していて、文書作成とせいぜい簡単な表計算ができさえすれば十分だと考えていた。なんのためにパソコンが必要かを理解しなかった。1997年の人事異動で、すでにみながパソコンで事務作業している学校に勤務することになった。当時、おなじ都立高校でも学校によってパソコンの普及度がずいぶん違っていたようだ。新しい学校では各部屋にパソコンの端末があり、それらが校内ランでつながっていた。つまりどの端末からも自分が必要とする文書や資料にアクセスできた。これは遅れをとったと気づき、急いで自宅でもパソコンを購入した。パソコンになれるためだった。大きな箱形の、いわゆるデスクトップパソコンだった。
 学校でもっともパソコンがものをいうときは、生徒の成績処理においてだった。240人分の成績を処理し、学期末には5段階の評価をしなければならない。エクセルを使えば一瞬のうちに240人分の成績が処理できることを知り、同僚に教わりながらその技術をマスターしたことで「自分はパソコンができるようになった」と自信をもったものだった。それが2000年ごろだっただろうか。それ以来20年を経過したが、私のパソコン操作技術はそれ以上に上達していないのだから情けない。
 パソコンを一般個人にまで普及させるのに偉大な貢献をしたスティーブ・ジョブズとジョン・スカリー。この2人に敬意を表しながら、きょうもパソコンに向かっている。





近況

2020年08月16日 | 日記

 この暑さでは歩きに行けない。1日1万歩を実践してきたが、ここ2、3日はゼロ。また例年なら暑さで夏バテ、胃を悪くし、食欲がなくなるところだが、ことしは幸いになんとか食べられる。晩酌の楽しみだけは奪われていないのが救いだ。
 毎年、時期をずらして帰省しているが、ことしは控えている。すでに2月以来、帰省していない。兵庫県でひとり暮らしをしている母は、なんとか生活しているようだ。日々、大学生、高校生と接触している私が、ウイルス保持者として感染源になる可能性が高いことから、母のみならず息子たち家族に会うことも自粛している。
 津久井警察署で運転免許証更新の手続きをしてきた。警察署裏の交通安全協会で写真を撮り、必要な書類を作ってもらい、収入印紙などをそろえて警察署の窓口へ行く。心配した視力検査にも難なく合格した。5年前に見えなかったものが今回はよく見えた。視力がよくなったのか。あとは新しい免許証が郵送されてくるのを待つのみ。いまの免許証はあと3か月有効だ。
 津久井からすこし脚を伸ばして城山のスーパー・アルプスへ立ち寄る。50枚入りの不織布三層マスクが税込み800円ほどで売っていた。ワオーッ! 以前に比べ、不織布自体の原価が上がっているようで、この値段では手に入らなかった。不織布の原料はプラスチックだそうだ。海に捨てられても永久に溶けない。マスクとしての性能はよくても問題は残る。






マンハッタンを歩こう

2020年08月09日 | 日記

 ニューヨークシティー、マンハッタンを歩いている。
 1983年3月20日日曜午後、スティーブ・ジョブズはカーライルホテルに宿泊していた。当時、猛烈にほしがっていた人材ジョン・スカリーに会うためだった。過去4か月、すでに何度か顔を合わせており、二人はともに相手の頭脳を尊敬し、信頼し合っていたが、ペプシのマーケティング責任者スカリーはアップルに移籍する決心をしかねていた。
 カーライルホテルは、西にセントラルパーク、東にニューヨーク一の高級住宅街パークアベニューをひかえる79番街にある。スカリーは車を76番街の駐車場に入れ、2ブロック歩いてジョブズを迎えた。午後1時半、散歩をはじめる。ホテルを出るとすぐに見知らぬ人が「横にいるのはスティーブ・ジョブズさんですか」と尋ねてくる。マディソンストリートを横切るとまた、若者がジョブズにあいさつしていた。スカリーには超有名人と歩いている実感があった。
 セントラルパークに入る。北へ行くとメトロポリタン美術館があった。階段を上がり、ガラスのドアを抜け、左へ曲がるとギリシャ、ローマの彫刻群が現れる。ジョブズは紀元前4、5世紀のペリクレス朝時代の彫刻に魅せられた。美術館を出て南へ下ると不思議の国のアリス像が見えてくる。そのまま南へ下る。セントラルパークの南西端からブロードウェイが始まる。他のまっすぐな道路の間をぬってゆるやかにカーブする道路だ。ブロードウェイを南下して49番街にあるコロニーレコードへ立ち寄る。ジョブズはボブ・ディラン、ジョーン・バエズやジャズのレコードを指でくっている。その後ブロードウェイを北へ戻り、セントラルパークの西側をさらに北へ行く。75番街にダコタハウスがある。すぐ東はセントラルパークだ。ジョン・レノンが暗殺された場所として一躍有名になった。数ブロック北にサンレモがある。ここのペントハウス(最上階のベランダ付きの部屋)をジョブズが購入しようと考えていた。眺めは抜群によい。西側にはハドソン川が流れ、その向こうにはニュージャージー州が広がる。ハドソン川の下流には自由の女神像が鎮座するし、上流にはジョージワシントン橋がかかり、橋から車でまっすぐ走るとラガーディア空港へつながる。東はもちろんセントラルパークだ。サンレモからまたセントラルパークを横切ってカーライルホテルに戻った。4時半だった。
 3時間歩きながら、さまざまな話をしたあとでも、スカリーはまだアップル入りを表明しない。ジョブズはしばらく目を落としてから、こういった。「このまま一生、砂糖水を売りますか。それとも世界を変えるチャンスをつかみますか」。