新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

リベラルアーツ、おそるべし

2015年11月30日 | 日記

 リベラルアーツということばを学部の名前に使っている大学がある。文学、数学、歴史、芸術など幅広い講座を備えた学部ではあるが、そこへの入学をめざす高校生たちにリベラルアーツが意味するものが正確に理解できているとは言い難いのが現状のようだ。はじめはいろいろな講義を聴いて勉強し、その後に専門を決められる学部だというのがリベラルアーツの典型的な解釈のようだ。誤解もはなはだしい。
 レオナルド・ダ・ヴィンチを見てみよう。最後の晩餐、モナリザを描いた。鳥の飛翔を研究した。人体の調和を図面化した。トスカーナの渓谷地帯の地図を製作した。建築、哲学面にも業績を残したようだ。学問や芸術のせまい枠にとらわれず、気の向くまま、必要に迫られるままに何でもした。それをイタリア語でアルテス・リベラーレスと呼んだ。
 かつて宇沢弘文があるラジオ番組で神保哲生、宮台真司をまえに述べたことがあった。
 宇沢は1945年4月に旧制一高に入学した。そして8月に日本は終戦を迎えた。師団司令部が使っていた一高を占領軍の将校たちが接収に来た。その当時の校長、哲学者である安倍能成が応対に出て、こういったという。「この一高はリベラルアーツのカレッジである。リベラルアーツというのは、専門を問わないで人類が残してきた遺産――学問であり芸術であり科学でもある――をひたすらに吸収して、一人ひとりの生徒が人間的な成長を図り、それと同時に、その大切なものを次の世代に伝えるものである。そのような聖なる営みをしている場所sacred placeを、占領という世俗的なvulgarな目的には使わせない」。当時としてはめずらしく、占領軍の将校たちは黙って帰っていったという。
 安倍能成のことばもさることながら、黙って帰っていった将校たちの見識にも頭を垂れるしかない。占領軍の将校たちだ。安倍能成のことばを真に理解できなければ、黙って帰っていくはずがない。黙って帰っていったのは安倍能成のことばを理解したからであり、いいかえれば、その将校たちもまたリベラルアーツの教育を受け、それが学生たちの人生にもたらす力を十分に認識していたからだと推測できる。
 終戦後のアメリカ占領軍の将校たちの学識レベルがきわめて高いものであったに違いないことは、その指導のもとで作られた日本国憲法が70年にわたって一字一句も変えられないままに施行されてきていることでも分かる。
 リベラルアーツ、恐るべし。





近況

2015年11月29日 | 日記

 朝は冷え込みます。一昨日は日連大橋で気温2度を表示していました。
 昨日は八王子のKNさんのお誘いでロゴス教会でのクリスマスコンサートに行ってきました。炭遊舎で一緒に活動していたKNさんですが、闘病中の女性STさんも一緒でした。闘病中とは思えないほど顔色がよく、今後やってみたいことをあれこれと話されていました。趣味の多彩さはうらやましいほどです。
 炭遊舎代表だったSTさんにはたまにお会いしますが、お元気であちこちへ飛び回っているようです。先週お会いしたときには翌日から福岡の伝右衛門を訪ねるといっていました。
 炭遊舎の脇で土地を借りているMTさんには、めったにお会いしませんが、炭焼き場へ行くと脇の土地のようすがなにかしら変わっていますから、ときどき見えていることが分かります。
 城山で畑を営み、ことこまかにブログに載せておられるSさんからは、直接メールもいただいています。郷里の鹿児島でも畑作業をしておられるようです。
 一昨年、大雪後の単管パイプ解体作業や看板の削り直しなどでお世話になった城山のMGさんとは8月のブルーベリー摘み以来、直接にはお会いしていませんが、ときどきメールをいただいています。
 相模湖、石老庵のご主人とその奥さまには4月の花見でお会いして以来ご無沙汰しています。その後、お元気でしょうか。

 近いうちに、炭焼き小屋を取り壊すことになりました。壁にSFさんが描いた風景画を掛けてあるほうの小屋です。BMさんやSJさんが泊まり込んで窯の火を世話してくれたことがある思い出の小屋です。借地なのでゆくゆくは更地にして返すことになりますが、しばらくは薪置き場に使います。





中央線普通列車には広告がない

2015年11月21日 | 日記

 毎朝、中央線の通勤特快に乗る。立川まで30分とかからない。その間、車内の広告を眺めているだけで時間をつぶせる。広告は目をひく。文字を読んでもおもしろい。立川で青梅線に乗り換える。いちばん後ろは女性専用車両だ。とはいえ東京駅に7時半から9時半の間につく上り電車だけが女性専用車両をもつのだから、それ以外の時間帯も下り電車も女性専用にはならない。しかし広告には気をつかっているようで、その車両には女性をねらった広告が多い。いまはピンク系の色を多用したヤクルトジョアの広告が車両全部の中吊りを独占している。アップルが入った新製品を広告しているらしい。2か月ほど前だったか、ハッシュドポテトの広告が青梅線女性専用車両の中吊りを独占したことがあった。むかしのテレビドラマ「スーパーマン」に登場するクラーク・ケントの相手役を思わせる昔風女性が、机のかげに隠れて、上司に怒られながら、電話をしながら、はたまた道を歩きながらハッシュドポテトを口にふくみ、「タベテネー、ゼ」と吹き出しがいっているのだった。
 夕方、立川から松本行き、高尾から大月行きの普通列車に乗ることがある。車内広告はほぼゼロ。なぜこうも違うのか。最近はひとつだけ中吊りされている。山梨にある私立大学の新設学部の案内だ。9月には総務省が出した国勢調査の広告と上野原市にある大学のオープンキャンパスの案内が中吊りされていた。それ以外はなにもなかった。快速電車から乗り換えると、普通列車のがらんとした車内はなんとなく寂しい。
 なぜこういうことになるのか。車内広告のほとんどは乗客の消費行動を促すものだ。企業はコストパフォーマンスを重視するので、効果のない広告を出さない。とすれば、中央線の普通列車に広告を出さないのは、普通列車に乗る客が広告の品を買う可能性がきわめて低いからだろう。理由としては
1 普通列車を利用する客は富裕層ではない
2 普通列車に乗る客は列車内の広告に関心がない
3 日常の足として利用する客が少ない
の3つが考えられる。
 1については、大会社の幹部クラスの、いわゆる富裕層はみな高尾より東に住んでいるはずだ。大雨が降ればすぐに運転を見合わせ、代替の交通機関がなにもない地域には住めないだろう。ただ疑問が残る。単線のため駅での待ち時間が多く、災害にも弱いと思われる4両編成の八高線では、中央線快速電車なみの広告がところせましと貼られていることだ。高尾大月間に劣らず田舎地帯を走っているはずだが・・。2については、好奇心がある客が少ないといいかえることができるかもしれないし、また広告に自分の意見を左右されるようなミーハーが少ないともいえる。自分の意見をしっかりもち、自分の生活スタイルを確立した乗客が多い、と解釈すれば普通列車の乗客をプラスに評価することになるが、それは事実だろうか。3については、ちょっとそこまで出かけるのにわざわざ電車を利用しないということだ。電車やバスが縦横無尽に張り巡らされた都心部とは異なり、電車に頼らない生活を強いられている結果だろう。用があるときは車で出かける。通勤、通学以外に電車を使うことがない。女性の乗客が少ない。
 中央線普通列車に広告がない理由は、ほかになにがあるだろう




北杜市、金田一春彦通り

2015年11月16日 | 日記

  
 八ヶ岳山麓に「金田一春彦通り」という名前の道路があることは前から知っていた。このたび金田一春彦記念図書館があることを知り、行ってみたが、あいにく休館日だった。図書館の職員に資料だけはもらってきたが、展示してあるという直筆のメモ類や2万冊におよぶ寄贈された蔵書類を見ることはできなかった。
 大学の1年生のときだったか、金田一先生の授業を聴講したことがあった。言語学の分野ではすでに有名な先生だったので、授業が始まる直前に教室に行くと、200人ほどが入れる教室はほぼ埋まっていて、後ろのほうの席に腰かけるしかなかった。先生が入ってきて「わたしが金田一です」というあいさつから始まったと思う。マイクを使わず、教室の前の空間を行き来しながら穏やかな話しぶりで話がつづいていく。教室の後ろまでは声が聞こえそうで聞こえない。聞こえないようでもところどころ聞こえてくる。ときどき前の席でどっと笑い声があがる。なにかおもしろいことを言っているなあ、と後ろで聞き耳を立てる。聞こえそうで聞こえない。数分たつとまた前の席でどっと笑う。また聞き耳を立てる。聞こえない。それがくり返されて90分の授業が終了した。
 このようにユーモアを交えた話し方は、テレビ出演のおりなどでも変わらなかったようだ。
 その後、わたしが実験音声学を教わった吉沢典男教授(当時)は金田一春彦の弟子だということだった。吉沢教授がはじめて金田一邸をたずねたとき、「きみは○○県の○○出身ですね」とぴたりと言いあてられたときは恐れ入ったという話をされていた。
 金田一京助はその父にあたる。中学校の国語の教科書は金田一京助編だった。正確な読み方が分からなかった私は「かねだ・いちきょうじょへん」と読み、ヘンな名前があるものだと思っていた。国語辞典にもこの名前があった。そこへ中学1年で国語を担当された若い女性教師が金田一先生に教わったという話をされた。ここではじめて金田一という名前の読み方を知ったのだが、この名前がポピュラーになったのはずっとのちに横溝正史の「八つ墓村」をはじめとする金田一耕助探偵のシリーズが出てからだろう。
 八ヶ岳山麓の紅葉を見にいったついでではあったが、図書館が閉館だったのは残念だった。いつかまた行くことにしよう。




整体に行きました

2015年11月15日 | 日記

 久しぶりに整体の先生に体を調整してもらった。2001年以来お世話になっている。この先生には教わることが多い。
 以前、「胃が悪い」とうったえたとき、「横隔膜が機能していないのではないか」と横隔膜の治療をしてくれたことがあった。おなじく最近の「胃が悪い」といううったえには、胃の入り口と出口の筋肉がゆるんでいるせいではないか、とその治療をしてくれた。つまり食道から胃につながる部分と胃から十二指腸へ行く部分の筋肉が年齢とともにゆるんできているという仮説だった。今回、先生は私の胃部に手をあて、「このまえ来たときよりずっと調子よさそうだね」と私の体調を言いあてた。
 先生は認知症についても仮説を立てて実験されている。認知症は内臓と脳を治療すれば改善される、というもので、一定の効果を上げているという。いまのところ先生の説では、老齢化は内臓とともに起こる。とくに腸だ。腸の働きをよくすれば、老齢化からくるかなりの病気は防げる、またはその症状を和らげることができるとみている。最近の多くの研究と符合するようだ。
 いつだったか奇異なことをいったことがあった。秋ごろから治療に通ってきていた大学受験生が翌春に早稲田大学商学部に合格した。「もうすこし前から来てくれていれば、政経学部あたりに合格させてあげたのに」というのだ。政経学部は商学部より偏差値レベルが高い。一瞬、私は「この先生、勉強も教えているのか」と思ったが、そうではなかった。「頭のこりをほぐせば、やる気のある子は伸びる」というのだった。
 先生の人体についての研究は日進月歩のようで、「いつか(整体のついての)本を書く」といい、「ようやく先が見えてきた。治療例が整ってきた」といいながら、「もうすこし、もうすこし」といつまでたっても著書出版は実現しない。