リベラルアーツということばを学部の名前に使っている大学がある。文学、数学、歴史、芸術など幅広い講座を備えた学部ではあるが、そこへの入学をめざす高校生たちにリベラルアーツが意味するものが正確に理解できているとは言い難いのが現状のようだ。はじめはいろいろな講義を聴いて勉強し、その後に専門を決められる学部だというのがリベラルアーツの典型的な解釈のようだ。誤解もはなはだしい。
レオナルド・ダ・ヴィンチを見てみよう。最後の晩餐、モナリザを描いた。鳥の飛翔を研究した。人体の調和を図面化した。トスカーナの渓谷地帯の地図を製作した。建築、哲学面にも業績を残したようだ。学問や芸術のせまい枠にとらわれず、気の向くまま、必要に迫られるままに何でもした。それをイタリア語でアルテス・リベラーレスと呼んだ。
かつて宇沢弘文があるラジオ番組で神保哲生、宮台真司をまえに述べたことがあった。
宇沢は1945年4月に旧制一高に入学した。そして8月に日本は終戦を迎えた。師団司令部が使っていた一高を占領軍の将校たちが接収に来た。その当時の校長、哲学者である安倍能成が応対に出て、こういったという。「この一高はリベラルアーツのカレッジである。リベラルアーツというのは、専門を問わないで人類が残してきた遺産――学問であり芸術であり科学でもある――をひたすらに吸収して、一人ひとりの生徒が人間的な成長を図り、それと同時に、その大切なものを次の世代に伝えるものである。そのような聖なる営みをしている場所sacred placeを、占領という世俗的なvulgarな目的には使わせない」。当時としてはめずらしく、占領軍の将校たちは黙って帰っていったという。
安倍能成のことばもさることながら、黙って帰っていった将校たちの見識にも頭を垂れるしかない。占領軍の将校たちだ。安倍能成のことばを真に理解できなければ、黙って帰っていくはずがない。黙って帰っていったのは安倍能成のことばを理解したからであり、いいかえれば、その将校たちもまたリベラルアーツの教育を受け、それが学生たちの人生にもたらす力を十分に認識していたからだと推測できる。
終戦後のアメリカ占領軍の将校たちの学識レベルがきわめて高いものであったに違いないことは、その指導のもとで作られた日本国憲法が70年にわたって一字一句も変えられないままに施行されてきていることでも分かる。
リベラルアーツ、恐るべし。