新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

肥桶かついで畑へ

2017年06月21日 | 日記

 天秤棒の両端に肥桶をさげ、その天秤棒をかついで畑へ行く。重い肥桶をかつぐ人の足はときにはよろけ、肥桶のなかの屎尿がチャブンチャブンし、桶から飛沫が飛び出すこともしばしばだった。昭和30年代半ば、つまり1960年ごろまで日本の農村ではふつうに見られた光景だ。肥桶のなかに入っていた屎尿は農家の自宅で出たものだった。そのころのトイレはいまのような水洗式トイレでなく、屎尿をそのままトイレのなかに溜めておいて後で汲みとる汲みとり式トイレだった。農家では屎尿を捨てないで畑にまく有機肥料として有効利用していた。農村ではなんと人の屎尿までもが役に立っていたのだった。
 そして畑にはその屎尿を一時溜めておく肥溜めがところどころに掘られていた。これは畑で遊ぶ子どもたちにとって注意するべき場所だった。うっかりして肥溜めに落ちると体中が糞まみれになる。臭くて不衛生なことこのうえない。
 日本ではむかしから人の屎尿を有効利用してきた。江戸時代、人口が都市部に集中するようになると、農村での屎尿が不足したらしい。そこで都市から農村部へ屎尿を運ぶことを仕事にする人が現れた、と何かで読んだことがある。
 この文章を書こうという気になったのは、ジェームズ・ミッチェナーが「センテニアル」のなかで、日本人移民を描写して、人の糞尿を畑に撒いているところを描写しているからだ。ミッチェナーは1890年代コロラドに入植した日本人夫婦をとても好意的に描いている。サトウキビ畑で苗を間伐する作業は長時間にわたって中腰でしなければならず、とてもハードな仕事だった。ヨーロッパからの移民たちがそのハードさゆえに長続きしない仕事を日本人夫婦は黙々とこなす。そして小銭を貯めてわずかばかりの土地を買い、畑を開墾する。野菜を育て、自分たちが食べきれない分を売り歩く。その野菜を栽培するための肥料として、自分たちの糞尿を使っていたのだった。家から肥桶をかついで畑へもっていき、土や野菜にかけていた。周りの人たちはそれを見て嫌悪感を抱いた。人の糞尿を有機肥料として利用するなどもってのほかだった。牛糞、馬糞がいつでも入手できる地域だった。鶏糞、豚糞も使えただろうが、人糞を有効利用しようという文化はなかった。村の有力者が日本人夫婦に注意してやめさせたという。この日本人夫婦にしてみれば、祖国でしてきたことをそのまま新天地でもしていたにすぎないのだが、ヨーロッパから入植した人たちが多数を占める土地では、あからさまな嫌悪感を抱かせたようだ。
 畑に肥を撒く光景はいまでこそ見られないが、日本の原風景のひとつともいえるのではないだろうか。




ツバメの雛が巣立った

2017年06月14日 | 日記

 6月14日を記憶し、記録しておくべきだと思い、これを記すことにします。ツバメの雛が巣立っていきました。正確には13日午後4時から14日午前7時半までの間に、5匹の雛が巣を離れてどこかへ飛んでいきました。
 ツバメの巣がある場所は藤野駅近く、民家の玄関を改装し、バイク置き場として10台ほどのバイクが日々出入りしている部屋の、監視カメラの上です。監視カメラの上にツバメが巣を作ったのはもう10年以上もまえでしょうか。いつごろからかツバメが巣をつくり、卵を産み、雛がかえり、巣立っていくことをくり返すようになりました。雛はかわいいものです。毎年5匹ほどの雛がその巣から巣立っていきます。
 私がそこへバイクを預けるようになったのがもう10年ほどまえです。はじめのうち、ツバメの巣があることなど知りませんでしたし、気づきませんでした。しかし親ツバメが餌をくわえて戻ってくると雛たちはチーチーと鳴き声を上げます。そうしてそこに巣があることを知ったのでした。巣がある場所をよく見ると監視カメラになっています。監視カメラの上に巣を作っているのです。監視カメラに巣や雛たちは映りません。バイク置き場の大家さんはその巣を取りはらうことをせず、下の床面が糞で汚れるので敷物を敷いています。
 不思議なことに雛たちは、私たちバイク置き場の利用者がそこへ入っているときには鳴かないでじっとしているのです。だから私たちは長い間気づかなかったのでした。自分たちの存在が人間に気づかれると危害を加えられる恐れがあると思うのでしょうか、あるいは親ツバメにきつく諭されているのでしょうか。私たちがバイクを置きに、またそれをとりにその部屋に入っているとき、雛たちはただじっとし、鳴き声をいっさい立てないのです。それでいて顔はじっとこちらを向いている。5匹の雛が横一列に顔だけをのぞかせて、じっとこちらを見ているのです。写真に収めたくなるのですが、フラッシュなどたくと雛たちを刺激してかわいそうなので思いとどまっています。それでも親ツバメが口に餌をくわえて戻ってくると、さすがに雛たちは黙っていられません。親がそばにいる安心感も手伝ってか5匹がいっせいに鳴き声をあげます。部屋は一瞬にしてにぎやかになります。
 もちろん私たちはだれもツバメや巣に危害を加えたりしません。そのことをツバメたちが悟ったためか、最近は雛たちが鳴いていることも少なくありません。
 さてその雛たち、誕生したのはいつごろだったのか、来年はそれにも気をつけて記録しておくことにします。







使わないコンテンツ満載の電子辞書

2017年06月11日 | 日記

「40年一日のごとく」語学で飯を食っている。辞書は手放せない。
 2機目の電子辞書を買った。職場に置いておけるものがほしかった。英語の辞書でよいのだが、いっそ買うならとスペイン語、ポルトガル語が入っているものにした。
 頻繁に使うのは英和、和英、それに国語辞典だ。最近あまり使わなくなったが、ポルトガル語は欠かせないし、何かのおりにフランス語、ドイツ語の辞書を参照したくなる。イタリア語もあったほうがよい。紙の辞書ではそれらの言語はすべてむかしから買いそろえてあるが、持ち歩きには不便だから、電子辞書になっているとありがたい。
 これまで使ってきたのはリーダーズ英和とリーダーズプラス、それに広辞苑が入っている機種だ。コンパクトサイズでいまも重宝している。
 新しく買った電子辞書にはジーニアス英和とジーニアス和英、それに大辞泉が入っている。大辞泉はあまりよく知らないが、ジーニアスはもはや電子辞書の標準装備のようになっている。何も知らないで電子辞書を買う人は、必然的に大修館書店のジーニアス英和辞典を選んでいる。紙の辞書ならもっとさまざまな種類から選べるところだが、電子辞書となるとジーニアスの独占市場のようになっている。大修館書店の一人勝ちというところか。
 私にとって必要なのは、英和、和英、国語の各辞典だけであとはお飾りになる。そのお飾りがなんと多いことか。買ったばかりの電子辞書のメニューを開くと「ゼロからはじめるスペイン語」「口が覚えるスペイン語」、なんと学習参考書を兼ねている。「ニッポニカ」「ブリタニカ」「ビジュアル大世界史」「エピソードで読む世界の国243」「冠婚葬祭マナー辞典」「すぐに使える基本法律用語辞典」「ビジネス便利辞典」、あまりに多くてここに書き抜く意欲がなくなった。そうそう、有名な歌手が歌っているクラシック音楽も聴けるようだ。
 必要がないものは入れないでほしい、その分値段を下げてほしい、もう少しコンパクトなサイズにしてほしい。電子辞書メーカーに注文したいことはさまざまにある。
 語学の辞書はいまはカシオしか出していない、と電気器具量販店の店員さんがいっていた。シャープ、セイコーは何を出しているのだろう。





団塊の世代が70歳になる

2017年06月04日 | 日記

 写真家チョートクさんが古希を迎えたらしい。写真家仲間がしてくれる古希の祝いを本人がおどけて生前葬と呼んでいる。1947年生まれだから満年齢で70歳になる。このような祝い事は日本の習慣としては数え年で数えてするものだが、そんなことはこの際どうでもよい。70まで生きながらえることは古来希なことだから、これはめでたいことだ。
 1947年生まれは戦後のベビーブーマーの頂点を形成している。きわめておおくの人がこの年に生まれた。小説家の堺屋太一はこの年代の人たちをまとめて団塊の世代と呼び、それが人口に膾炙した。
 団塊の世代は戦争直後の食糧難の時代に生まれた人たちだ。この時代、一年ごとに食糧事情がどんどん好転していった。彼らが中学校を卒業する1960年代はじめには、経済が発展途上になり、高校進学率が高まっていった。1965年にはすでに大学進学が経済的に夢ではなくなっていたから受験戦争が発生した。その父親たちが先頭にたってがむしゃらに働き、生み出した1970年代の高度経済成長は大きな消費世代を形成していた団塊の世代があとに控えていたからこそ実現したのだった。現役世代が退役した人たちを支えるいまの年金制度は、いわば団塊世代がその親たちの面倒をみる制度だった。団塊世代はバブル経済を生み出し、その後の長い経済氷河期をも経験してきた。時代の荒波に飲まれながらも果敢に生きてきた団塊の世代に敬意を表したい。(私も団塊の世代に附属する年代なのだが・・)。
 団塊の世代から生まれた子どもたち、つまり団塊ジュニアは東京では1972年に現れた。人口の増減をグラフに書いたときの先端部分はむろん1947年のそれほど鋭角的ではない。なだらかな山だが、いちおうは第二次ベビーブームだったことが見てとれる。この年に生まれた子どもたちが中学校を卒業する1988年、受け入れる高等学校側は対応に迫られた。そして第三次ベビーブームが計算上は1997年にあったはずだが、もはやその山はほとんど見られなかった。
 団塊の世代は戦争の産物だ。戦争が終わり、戦地から男が帰ってきた。そして生まれたのが団塊の世代だった。団塊の世代がいなくなったときにはじめて戦後が終わる、といっても過言ではない。平成時代が終わろうとも、昭和の戦後はまだこれから20年つづくだろう。