新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

京都は外国人観光客ばかり

2014年12月29日 | 日記

 京都駅前や京都市内の地下鉄の車内は観光客だらけだ。じつに多い。一目見て外国人と分かる人種、一見するだけでは日本人かと思われるが、よく見ると日本語をしゃべらないアジア系の人種も多い。円安の成果だろう。
 だが、円安は私のように外国を旅行したいものにとってはきわめて痛手だ。2年まえにポルトガルを旅行したとき、1ユーロ100円で計算できた。いまは1ユーロ150円になっている。5000円で宿泊できたホテルが7500円を支払わなければ宿泊できない。
 外国人が増えると話しかける楽しみが増える。駅のコインロッカーがどこも満杯で、空きがなかなか見つからない。1つだけ空いていたので、「ここ空いていますよ」と教えてあげたら「He just told me」と仲間にいっていた。日本人ではなかったのだった。町中を歩いていると和風旅館の前でたばこをふかす欧米系の人がいた。Sくんが英語で話しかけると、天理大で学び、いまはジュネーブで柔道、空手を教えているとのこと、日本語にも堪能な人だった。隣に手作りのかまぼこ屋があり、その先には名水をくめる銭湯があったので、話は自然にかまぼこ、銭湯、名水へと移っていった。電車のなかでUくんの隣に座った女性が英語の雑誌を開いていた。ベトナムと日本を仕事で往復するUくんが、もしやと話しかけると日系ブラジル人だった。
 外国人が増えるとあらたな雇用が生まれる可能性がある。JR京都駅の関西国際空港からの列車が入るプラットフォームには外国人専用の観光案内ブースが設置されている。朝だったので英語と中国語ができる人がひとりいただけだったが、京都外国語大学の学生が交代でやっているらしい。
 アベノミクスがこの調子でプラス面を伸ばしていってもらいたいものだ。



年末ジャンボを買った

2014年12月23日 | 日記

 
 わが家の庭のろうばいがいま五分咲きです。花はつぼみから満開に向かう段階が私はいちばん好きで、よく写真におさめます。

 19日は年末ジャンボ宝くじ売り出しの最終日だった。新宿西口に行ったついでに、当たりくじが出ることで名高い宝くじ売り場に向かった。
 アルプス広場に売り場があり、10人ほどが並んでいた。しめた、買えるぞ、と喜んで列の後尾についた。ミニは売り切れ、連番は売り切れという悪条件だったが、残りくじを10枚買った。
 地下から地上へ出ると、そこには人人人の長い列があり、列の先には小さな仮設の宝くじ売り場が見えた。そうか、ここが有名な宝くじ売り場だったのか。長い列の最後尾には「ここが最後尾」という札をもった人が立っている。それにしても、そのすぐ下には10人しか並んでいない売り場があるのに、みんながここへ並ぶとは・・。あたる確率に違いがあるはずがない。そこに並ぶ人は行列が好きだとしか思えない。
 ともあれ私にとっては吉田兼好法師の石清水詣でのようなことになってしまった。

薪炭づくり

2014年12月21日 | 日記
     
 薪炭づくりが始まりました。まずは伐木の専門家Sさんから、木を安全に、しかも商品として無駄な部分を出すことなく伐倒するにはどうすればよいか、についてレクチャーを受けました。最初の写真のようにチェーンソーを入れる部位の両脇に切れ目を入れておくことで、木の根元付近のいちばん利用価値が高い部分に亀裂が入ることを防げるという、細かい配慮には一同感心して耳を傾けました。
 その後ウィンチなどの道具をフル活用して、日影原地区のクヌギを4本伐倒しました。木の切り口がきれいになるようにチェーンソーの頭を木のなかへ突っ込み、木の幹の中央部を平らにきれいに切ってしまうやり方をSさんが見せてくれました。突っ込みというそうです。
 伐倒のあと太い幹部分は40センチに玉切り、運搬機で作業場まで運びました。作業場では薪割り機(中央の写真)で割ります。薪割り機は強力で、節くれだった部分でもものともせずに割っていきます。
 燃料用の薪と炭にするための薪の束ができあがりました。墨田区からの若い見学者を含めて約20人での作業になりました。



京都、伏見でスズメの焼き鳥

2014年12月13日 | 日記

 40年ほどまえ、伏見を訪れた私たち3人は駅前でスズメの焼き鳥を食べた。骨ばって肉がほとんどない照り焼き風のものが串刺しにして出てきた。うまいとは思わなかったが強烈な印象になって残っている。スズメの焼き鳥を食べたあとどこを見物したのかあまり記憶にない。伏見は豊臣秀吉が関白の座を息子に譲ってから隠居した場所だった。
 秀吉は宇治川をのぞむ指月の丘に城を築き入城する。京都洛内に住まわせていた諸大名とその家族も伏見に移住させる。ところが1596年の大地震で自慢の天守が石垣もろとも崩れ、数百人の圧死者がでる。マグニチュード7.5前後の巨大地震だった。
 この地震は阪神淡路を襲った1995年の地震とおなじ地層に断裂を生じ、同時に有馬高槻断層帯に断裂が生じたものだった。天竜寺、大覚寺、二尊院などもこのとき倒壊している。その4日まえに大分で、前日には愛媛でもマグニチュード7程度の大地震が発生していた。
 秀吉はかろうじて助け出され、指月の背後の木幡山にあらたに築城する。秀吉の没後、徳川家康が征夷大将軍を任ぜられてからの大半を過ごした城でもあった。
 1620年伏見の城は廃城になった。その後荒れていた城山に数万本の桃の木を植え、花の季節には全山が桃色に染まったのは江戸中期以後だった。
 駅前でスズメの焼き鳥を食べてから40年、もう一度ゆっくり訪れてみたい。今度はチキンの焼き鳥にしよう。

室町殿、北山殿

2014年12月11日 | 日記

 室町時代といわれる時代があった。室町とはどこか。恥ずかしいことながら「京都〈千年の古都〉の歴史」を読んではじめて知った。一条大路の北に鎌倉時代、室町邸、西園寺邸など貴族の邸宅が立ち並んでいた。南北長期には崇光天皇が御所にした。それを足利義満が入手し新邸を造営した(c1376)ことで義満を室町殿と呼び、その時代を室町時代と呼ぶようになった。
 義満は東隣に相国寺を建設する。そしてその相国寺の東に高さなんと108メートルの七重塔をつくった。その約200年まえ東山山麓に建設された81メートルの九重塔をはるかにうわまわる目立ちようだった。相国寺境内の広大さとその寺格を天竜寺に次ぐ第2位においたこと、七重塔の際だつ高さなど足利政権が権威を誇示することに腐心しているさまがうかがえる。
 義満はまた西園寺氏の別荘を譲りうけ、北山殿を建てる(c1400)。ここに築かれた舎利殿がのちに禅寺にあらためられ、金閣寺と呼ばれるようになった。
 北山杉などでよく知られる北山は金閣寺の北西に広がる広大な森林地帯をいうようだが、北山殿という呼び方や義満が庇護することによって栄えた北山文化というときの北山は、金閣寺付近のことだと考えてよいだろう。