新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

アメリカン・エキスプレス発祥の地

2020年10月25日 | 日記

 米ニューヨーク州東部にエリー運河が開通したのが1825年だった。五大湖の一つ、エリー湖と都市オールバニーを結ぶ運河だった。オールバニーからニューヨーク市まではハドソン川が流れている。したがってエリー運河の開通はニューヨーク市とエリー湖を結ぶ水路ができたことを意味した。エリー湖畔バッファローがその終点に位置し、北には観光地ナイアガラ瀑布がある。またカナダのトロントが隣のオンタリオ湖畔にあるし、デトロイトまでも水路を伝っていける。そのうえ1850年ごろ、エリー運河ぞいに鉄道が整備された。ナイアガラ瀑布は当時すでに観光名所であり、新婚旅行客を惹きつけていた。物資の輸送に人の輸送を目的に加えて、アメリカン・エキスプレスは発足した。エキスプレスは佐川急便、宅急便の急便にあたる。佐川急便も宅急便も人の輸送を業務に入れていないが、アメリカン・エキスプレスはそれを積極的に推し進め、旅行会社として名をあげることになる。
 創業者の一人はエリー運河ぞい、鉄道ぞいの町ユーティカ出身のウェルズだった。東海岸から、すさまじい勢いで中西部への開発を進めていた時代、物資も人もエリー湖畔バッファローへと向かっていた。それに目をつけるのは起業家として当然だった。
 その後、アメックス社はトラベラーズ・チェックで一世を風靡し、クレジット・カード・ビジネスに乗り出す。ところが1990年ごろ、銀行系のクレジット・カードVisa、Masterに圧され、存続のピンチを迎える。
「House of Cards」を読み始めた。Cardsにはcardの意味と同時にcardboardの意味をかけてある。つまり「危ういカード会社」の意味になる。


熱燗の季節になった!

2020年10月22日 | 日記

「今日はやけに寒いね!」が「今夜は熱燗でもどう?」の意味を含むのが、飲んべえどうしの会話だった。少なくとも40年まえ、このような会話がよく聞かれた、よく誘われた職場に勤務していた。のんびりした時代だったせいもあってか、週に何回かは仕事帰り、飲み屋に立ち寄った。
 なんとなく冷えたきのう、ふと思い出して日本酒を買って帰った。久しぶりに熱燗を飲みたかった。夏の間、食欲を失い、それとともに飲酒欲も失せかけていた。涼しくなるにつれてそれが回復してきた。炭を焼いていたころ、火鉢に火をおこし、そこにカラカラを乗せて酒を温めながら飲んだものだったが、炭焼きをやめてからというもの、ウィスキー、焼酎、ワインなどに嗜好が移り、日本酒からは遠ざかっていた。日本酒は何を飲んでも甘く感じるようになったせいもあった。秋が深まったきのうになって、とつぜん昔を懐かしむ気持ちで日本酒に回帰してみた。
 黄桜の辛口一献。懐かしい味だ。日本酒は日本料理に合う。味わいが控えぎみで出しゃばることがない。肴の味を引き立てこそすれ、自己主張して台無しにすることがない。焼酎はそれ自体に味がないので、ウーロン茶で割ったり、梅干しを入れてみたりする。ウィスキーの味は自己主張が強すぎて食中酒に向かない。食前の食欲増進剤として、または食後の口直しに飲むのがよい。赤ワインもそれ自体の味を求めて飲む人が多い。健康によいとされるポリフェノールが含まれるのも魅力だが、和食に合うか。それらに比べ、日本酒はいかにも日本的だ。自らが出しゃばることなく、つまり自己主張することなく肴の味を引き立て、食欲を増進させる。ゆうべの肴は焼き魚。日本酒との組み合わせは絶品だった。
 ことしは日本酒を味わいながら秋の夜長を楽しむことにしよう。

歴史とは何か

2020年10月12日 | 日記

 1988年に出版されたジョン・スカリー「オディッセイ/ペプシからアップルへ」を読了した。読んだのは1994年のペーパーバック判だが、アップル社がたどった軌跡を読みとることができた。著者スカリーは1988年、毎朝早起きして出勤前に自伝の原稿を書き、その日に書いた分だけをサンフランシスコ近くの自宅から米国東海岸のニュージャージーとバージニアに住む二人の編集者にAppleLinkと呼ばれるネットワークで送ったという。クリックするだけで送信できる装置がすでに設置され、実用化されていた。アップル社と出版社がネットワークで結ばれ、原稿のやりとりがクリックするだけでできた。それも1988年という早い時期にすでに可能だった。
 ひるがえって私(たち)はそのころ原稿を書いてどのような方法でやりとりしていたか。1988年といえばワープロ専用機をはじめて買った歳だったような気がする。シャープの書院という箱型の機種だった。その後ノート型になり、2年に1度のわりで買い換えたが、一貫してシャープの書院を使った。1988年当時は手書きで原稿を書かなくてすむようになった喜びを感じていた。汚い字を相手に見せなくてすむようになったことは安堵感を伴い、爽快感さえ感じさせる出来事だった。やりとりは3.5インチのフロッピーディスクを使っていた。相手方へ原稿を送るのも、自分で持ち歩くのもフロッピーディスクに入れた状態で十分だった。2000年ぐらいまで続いた。
 わずか26文字ですべてを表現できる英語と異なり、日本語の場合、何千とある漢字を含んだワープロの開発が必要であり、それは不可能に近いと思っていた。それが実現したこと自体が驚きだったのに、われわれ庶民に手の届く価格で提供されたことが画期的だった。
 いまではもちろんメールに添付する形で簡単に原稿をやりとりすることができるが、それが1988年という時期にすでにおこなわれていたことをこの本の後書きで知った。歴史を知るとはこういうことでもある。
 世に歴史好きはたくさんいる。日本全国に、世界中に史跡が遺されていて、そこを巡り歩く人がいる。私はそのような歴史とは違う、自分が知らない過去を発掘することを好む。1988年に自分がいま知っているインターネット社会の原型がすでに存在していたこと、それを知ることが楽しい。自伝を読むこと、社史(ある会社の歴史)を読むことなどを通じて、自分が知らなかった過去の世界に関する知識を今後もさらに広めていきたいと思っている。

月下美人が咲いた

2020年10月04日 | 日記

 月下美人が咲きました。一晩だけの命です。見逃したらおしまいです。じつは1週間ほどまえ2輪開いたのですが、庭に出してあったために気づいたのは翌朝、萎んでからでした。今回開いた花は小ぶりでしたが、さすがに堂々とした趣を備えていました。
 昨年は長野をはじめとする豪雨被害の少しあと、リビングに入れてあった鉢に咲いているのを真夜中に見つけました。リビングで夜中まで光を当てているのと外で自然光だけの場合とで開く時間に差が出るようです。昨夜8時20分には満開状態でした。




東寺名宝展を観た

2020年10月01日 | 日記

 久しぶりに遠出した。まずは兵庫の母のもとへ。新幹線ひかり自由席はよく空いている。とくに静岡から西はガラガラになる。帰りに京都へ寄った。インバウンドがいない京都は歩きやすい。20年前はこうだった。東寺名宝展を観た。
 空海の直筆になるとされる写経が展示してある。細かくていねいに書かれた文字に驚く。周りに他の修行僧が書いた写経も何枚か展示してあるが、それらに比べても抜群に細かくていねいな文字を書いてある。あれほど大胆に国の人びとに教理を説き、普及させた人がこれほど細かい文字を書くものか、と驚いた。日本三筆の一人だ。ちなみに他の二人はというと、小野篁と菅原道真だと同行の友人が教えてくれた。
 名宝展の極めつきは千手観音だった。大きい。高さ4メートルはあるだろうか。もともと食堂(じきどう)に安置されていたものが火災に遭い、修復されたものがいまの千手観音だという。金堂の薬師三尊、講堂の大日如来像も圧巻だった。
 東寺へは京都駅から西へ少し歩くが、むかしの京の中心になる朱雀通りからすれば東になる。西には西寺もあったらしい。