新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ポルトガルワイン

2015年05月30日 | 日記

 庭にカルミアが咲いています。

 ポルトガルワインを専門に扱っている店が八王子にある。これはめずらしい。そこに並ぶさまざまなワインを眺めているだけでも、しあわせな気分に浸れる。
 3年前リスボンのスーパーに毎日通い、ワイン売り場を物色していたときには、アレンテージョ産のものが目についた。リスボンの南東に広がる一大産地だ。たぶんポルトガルのワイン産地のなかではいちばん広いブドウ栽培面積を誇る地域だろう。ポルトガルのなかでは観光客の足が向かない地域であり、土地柄といい、そこで産するワインの味といい田舎っぽさがぬぐいきれない。いいかえれば田舎っぽさ、味の素朴さが魅力のワインでもある。
 日本での知名度でいえば、ダン地方で産出されたワインがいまでは突出しているのではなかろうか。壇一雄がポルトガルに滞在したとき、自分の名前と同じだからという理由で愛飲したと、なにかに書いたのがとてつもない宣伝効果を発揮した。こだわりのある作家がこだわったという事実がこれほどまで宣伝になるものか。飲み屋でも成城石井などのワイン売り場でも、ダンがポルトガルワインの代名詞になっているフシがある。ダンはブドウの産地の名前にすぎないのだから、ダン・ワインにもさまざまな種類がある。八王子のワイン店を訪れた客と店主との間で「これが壇一雄が飲んだワインですか」「そうですね、それを飲んだかもしれませんよ」という会話が交わされることがあるそうだ。
もっとも、ダンはポルトガル国内でもちょっとしたブランド扱いされているようだ。ダン・ワインだけはラベルの上部にダンのロゴが入っているし、コルク製のラベルを貼りつけたボトルまである。
 私が求めるワインはコクがある辛口の赤で、他の種類は顧みることがない。その意味でダンは私の好みに近い。刺身にも餃子にもピザにも何にでも合う。というより、料理との相性など気にしないでひたすら飲む。
 むかしマテウスという、いかにも上品そうな独特の瓶に入ったワインを飲んだ。甘くて、二度と飲むまいと思った。ポルトの街を流れるドウロ川の上流で産出されるポートワインは試飲してみる価値はあるかもしれないが、店主によれば食前酒、食後酒として利用され、これもかなり甘いそうだ。やはり私の求める範疇には入らない。もともとポートワインはイギリスへ輸出するためにブランデーを加えて酒精を強めたもので、地元の人が飲むワインではない。清酒についてもいえることだが、地元の人がのむ酒こそ、ほんとうにおいしい酒だ。みやげもの用、輸出用に開発された酒の味を私は評価しない。
 これからときどき八王子のこのワイン店に通う。ソムリエでもある店主から、ワインに関することのみならずポルトガルについてもさまざまな情報が得られそうだ。
 しかもこの女性店主、どうやらフェルナンド・ペッソーアのファンであるらしい。こんどはペッソーアを話題にしてみよう。

酒こそわが人生

2015年05月10日 | 日記

 「人生の中で、いちばん良いなあと思う瞬間。私の場合は、楽しい酒を呑んでいる時である。最近では、酒を呑むために生きているように感じている。」
 これは「酒こそわが人生」とおっしゃる石川文洋さんの著書の書き始めです。そのまま私自身にもあてはまりそうなので、思い出して読んでみました。
 石川さんは20代後半でベトナム戦争の取材をした、いわゆる戦場カメラマンとして多くのひとの記憶に残っています。アメリカ軍に従軍して銃弾が飛びかう危険な戦場を取材し、夕方サイゴンにもどってきて冷たいビールやコニャックソーダでのどを潤す。その酒のおかげで、翌日また戦場へ行こうという気力がわいてくる、という趣旨のことを書いておられます。命を危険にさらすほどの厳しい環境で仕事をしたあとの酒だから、味もひとしおだったでしょう。
 石川さんの著作を読んでいると自由業とはいえ、朝からビールをあおる、昼間立ち寄った先でちょっとビールを引っかける、などちょっと飲みすぎではないかと思える場面にまま遭遇します。そのせいかどうか因果関係は知りませんが、いまは体調を崩されているようです。
 おなじ写真家でも古びゆく大都会の面影を切りとるのがお得意とみえるチョートクさんも、かなり頻繁にアルコール飲料を口にされます。深酒はしないようですが、自由業の気楽さは私にはうらやましいかぎりです。
 著書「屋根裏プラハ」には、上質なチェコワインのお得さが書かれています。南モラビア産のワインを飲むなら、オーストリアのウィーンで飲むより国境を北へ越えたチェコで飲むほうが経済的です。チェコはまだユーロを使っていませんから、生活必需品の物価が相対的に低いのです。プラハ滞在中に国境近くにあるワインの産地ミクロフへ車をとばし、ワインをまとめ買いした経験が紹介されています。
 作家、吉村昭は歴史小説作家として取材旅行をよくしました。旅行先で一日の取材を終えるときまってその土地の居酒屋へ入ります。そのあとバーを数軒はしごしないではいられなかったようです。しかし酒自体のことをほとんど文章に書いていないところから、吉村は下戸だったのではないかと私は推測しています。酒が飲みたくてバーをはしごしたのでなく、人を求め、酒場の雰囲気を求めてバーをわたりあるいたのではなかったでしょうか。若いころ病気したり、仕事がうまくいかず苦労したせいで生き急いでいたふうがうかがえます。





連凧、きれいにあがる

2015年05月07日 | 日記

 連凧が空を舞いました。連休の最終日、上野原の河原で気持ちよい昼時を過ごすことができました。適度の風があり、やすやすとあがりました。連凧にとってはいささか風がつよく、100枚あげるのが限界でした。100枚の凧にあたる風の力は合わせると相当なもので、手袋をはいた手でもひとりではもてないほどです。200枚用意した凧のうちの半分を、2時間近く風に泳がせました。
 ふじの凧の会では、今後も陣馬山山頂での連凧あげをやめ、5月の連休中に上野原の河川敷であげることにします。
 



瀬谷ルミ子さん

2015年05月06日 | 日記

 「職業は武装解除」が文庫本になった。1977年群馬県生まれ、イギリスの大学院で紛争解決学を学び、23歳でNGO職員としてルワンダ、24歳で国連ボランティアとしてシエラレオネ、26歳で日本大使館員としてアフガニスタン、29歳で国連PKO職員としてコートジボワール、その後、NPO日本紛争予防センターの職員、理事長としてケニア、バルカン、ソマリア、南スーダンで活動している。
 部族紛争が収まった地域に入って武器を捨てさせ、元兵士たちに職業訓練をし、就職させる。並大抵の苦労ではない。兵士たちにとって武器は食い扶持を稼ぐ手段だ。それを捨てさせるには将来像を描いて見せなければならない。軍のなかでも上官クラスは甘い汁をいっぱい吸っている。それをあきらめさせるにはどうすればよいか。紛争が収まって平和になってしまうと紛争中の加害者に刑罰が加えられる恐れがある。現状維持をのぞむ人たちをどう説得するか。紛争が日常化してしまうと、紛争という現状を維持しなければ困る人たちが多くなる。
 2003年アフガニスタンで元兵士たちに武器を捨てさせることに成功したとき、瀬谷さんは兵士たちのことばとして書いている。「日本がいうから信頼して武器を差し出すんだ。アフガニスタンの民を無差別に空爆しているアメリカやイギリスにいわれたら、撃ち殺してやる」と。日本が今もっている「けっして戦争をしない国」というイメージがいかに大切かを示している。
 ソマリアでは「アフリカで植民地支配をしたことがなく、支援を行う際にも政治的な思惑をつきつけない日本は中立的な印象を持たれている」。だから日本人である自分が入っていって武装解除の仕事をしやすいのだという。
 瀬谷さんは最近では戦後70周年を記念して出す安倍談話の中身を検討する懇談会の最年少会員として名前を連ねている。影響力を発揮してくれることを期待したい。




連休中の交通渋滞

2015年05月04日 | 日記

 5連休の中日、山中湖周辺までドライブしてきました。交通渋滞に遭うことなく行ける場所として選んだ場所で、思惑どおりにすいすいとドライブできたのですが、帰り道に反対側斜線で大渋滞が発生しているのを目撃してしまいました。
 道志みちの西へ向かう車線で3キロほども渋滞していたのです。渋滞の先頭は道の駅「どうし」へはいる信号のある交差点でした。道の駅の駐車場が混雑して、1台出ては1台はいるというのろのろ状態になってしまい、駐車場があくのを待つ車が信号を先頭に並んでいるのでした。さらに道志みちは国道であるにもかかわらず片側1車線しかないために、信号から遠く離れて待つ車は、道の駅の駐車場があくのを待つ列なのか、交通量が多いための渋滞か事故のために発生した渋滞かの区別がつかず、ただ並んで待つだけになってしまっているのでした。
 渋滞にまきこまれた車は道の駅に寄るつもりがなかった車も多かったでしょうに、気の毒なことでした。気を利かせて道の駅に寄るつもりのない車をそのまま通してあげる工夫ができないものでしょうか。そのような指示ができる警察官の出動を、だれかが気をきかせて要請すればよいのではないでしょうか。

 写真はチューリップとしだれ桜の饗宴。