新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

トマス・クックの国際時刻表

2015年09月29日 | 日記

 1979年にはじめて洋行したとき重宝したもののひとつにトマス・クックの国際時刻表があります。ヨーロッパの国境を越えて行き来する列車をすべて網羅しています。
 ポルトガルまで行く航空券を求めて都心の旅行会社へ行くと、「往きはマドリッドまでです。帰りの飛行機はローマから乗ってください」といわれました。目的地がポルトガルだというのにスペインまでしか飛行機で行けません。しかも日本へ帰国するときにはイタリアまで行かなければなりません。1か月という長丁場の旅でオープンチケットしか出せないとはいえ。いまなら考えられないほど不親切な旅行会社の対応でした。でもそのころはこのようなことがまかり通っていたのでしょう。しかたがないのでその間をユーレールパスでつなぐことにしました。ユーレールパスはヨーロッパ域内の列車なら一定期間、何度でも、どこまででも乗れるじつに便利なパスです。マドリッドからリスボンへ、リスボンからパリへ、パリからローマへ特急列車で移動しました。トマス・クックの時刻表には始発駅、途中停車駅、終着駅での時刻がすべて書いてあります。
 マドリッドからリスボン行きの特急列車に乗り、スペイン・ポルトガル間の国境を越えた最初の駅マルヴァンでおりることにしました。マドリッド、アトーチャ駅でマルヴァンまでの切符を買いもとめました。夕方暗くなってから発車しました。夜行列車は私と同じようなバックパッカーでいっぱいでした。朝まだ暗い時刻にマルヴァン駅につきました。駅舎内のベンチに腰を下ろして夜が明けるのを待ちました。
 まずは銀行でポルトガルの通貨エスクードを入手しなければいけません。先立つものはお金です。ミシュランのガイドブックに載っているほどの町だし、国境を越えたところにある町ですから銀行の一つや二つはあるはずです。そのころ私は東京の都心部に住んでいて銀行に不自由したことはなく、キャッシュカードを財布代わりに使っていました。スペインへ飛行機で着いたときも空港の両替所でペセタを手に入れました。昼過ぎでしたから両替所の職員はワインを片手に札を数えていました。
 さて夜が明けたころ、駅舎の出口からはじめて外を見ました。駅前はがらんとしています。銀行らしいものはありません。銀行がない。しまった! どうしよう? 
 しばらく考えたのち、駅員に事情を打ち明けることにしました。スペインのペセタ紙幣が少し残っていました。あとはトラベラーズチェックばかりです。私のたどたどしいポルトガル語がなんとか通じたようです。よかった。駅員が親切にも首尾よく処理してくれました。
 隣の町カステーロ・デ・ヴィーデまで行けば銀行があります。バスに乗らなければなりませんが、たまたま駅の隣でバーをやっているおやじが闇で両替をしていました。そこでペセタを両替してもらえばバス代が払えます。バーのおやじが起きる時刻を待って私を連れて行ってくれました。語学力の乏しい私にかわって事情を話してくれ、両替してもらいました。
 バスにも乗せてくれました。さらに途中でバスを乗りつぐ必要がありました。バスの運転手が次のバスの運転手に話を引き継いでくれ、カステーロ・デ・ヴィーデに到着したときにはそのバスの運転手が私に銀行を手で指し示して「あそこに銀行がある」と教えてくれました。なんと親切な人たち、なんとみごとなチームプレーでしょう。感謝感激、さらにいっそうポルトガル人が好きになったことはいうまでもありません。
 そうやって偶然におとずれたカステーロ・デ・ヴィーデの町がすばらしい町でした。山頂に拓けた城塞の町でした。こじんまりした田舎町ですが、眺望は抜群でした。中央に観光案内所があるほどの観光地です。でも日本人でここを訪れた人はほかにいないのではないか、と私はひそかに自負しています。





ミシュランのレッドガイド

2015年09月27日 | 日記

  
 レッドガイドはホテルとレストランのリストです。信頼して宿泊できるホテルが、その設備とともにランクづけして記されています。ホテルの等級は建物のファサードの形で表され、5つのランクに分類してあります。ミシュランのランクづけがそのままホテルのランクになっているわけではないのでしょうが、ヨーロッパでは星のマークをファサードに配したホテルをよく見かけます。ミシュランによってつけられたランクは低くても、ミシュランのレッドガイドに載るぐらいのホテルならぼられる心配なく安心して宿泊できます。レッドガイドには最低宿泊料が明記されています。
 私がポルトガルの大学町コインブラで泊まったホテルはたしか2つ星の小さなホテルで、一泊2000円台でしたが、簡素ながら清潔な部屋でした。駅から近かったので直接ホテルへ行き、「今夜泊まれますか」とたずね、部屋を見せてもらい、即決しました。ミシュランのレッドガイドは安心感を提供してくれます。どこへ行っても駅に着いたらレッドガイドをみてリーズナブルな料金のホテルを探し出し、公衆電話から電話します。電話にでた人に「今夜泊まれますか」というだけでした。それが私のホテル探しのスタイルになっていました。
 さすがに今は電話で話すのがおっくうになり、日本で宿泊先を予約してから出かけるようになっていますが、以前は日本で予約するホテルは最初の1泊分だけと決めていました。私にとってレッドガイドはホテル探しの必需品でした。
 レッドガイドではレストランも5つにランク分けされています。ナイフとフォークを十字に組み合わせたマークを5つ並べたものが最高ランクです。マークが4つ、3つとへるにつれてランクが落ちます。しかしレッドガイドに載らない店がほかにたくさんあるのですから、レッドガイドに載っていれば最下級のマークひとつの店でも「安心して食べられる店」を意味しているはずです。
 日本でよく三つ星レストランとか三つ星シェフとかいうのはミシュランのレッドガイドの第5ランクを意味しているのでしょうか。少なくとも私がもっているレッドガイドではナイフとフォークの組み合わせをマークにしていて★印ではありませんし、ランクは3つでなく5つに分かれています。いまのランクづけシステムがむかしのものと変わったのかもしれません。
 レッドガイドには町ごとに地図が載せられ、おもなホテルやレストランが紹介されています。町ごとの地図はとても便利で、旅行するあてがなくても調べものをするために使うことがあり、あちこちの国のレッドガイドを集めました。書棚には10冊近くが並んでいます。いまはインターネットで簡単に町の地図が見られるようになりましたから、調べもののためにレッドガイドを買いそろえる必要はなくなりました。



ミシュランのグリーンガイド

2015年09月26日 | 日記


 ミシュランのガイドブックには赤い表紙のレッドガイドと緑の表紙のグリーンガイドがあります。高尾山がミシュランに載ったおかげで外国人観光客が押し寄せるようになったのは、グリーンガイドに載ったということでしょう。
 写真は私が所持しているグリーンガイドのうちもっとも古い版で、1979年にはじめてヨーロッパを漫遊したときに携行したものです。
 ミシュランのグリーンガイドは、当時ヨーロッパを観光旅行する人のうち半分以上の人が携えていたガイドブックだといっても過言ではないぐらいに普及していました。ほかに適当なガイドブックがなかったのかもしれません。日本橋丸善へ行くと、ヨーロッパの国ごとのグリーンガイドが並んでいました。アジアの国ぐにやアメリカの版は当時はまだ出版されていなかったと思います。「地球の歩き方」もまだなかったか、その存在が知られていませんでした。マドリッドからポルトガルへ向かう長距離列車のなかで、グリーンガイドで熱心に建築物の説明に読みふけるアメリカ人の若者を見て、ひとりで孤独な旅行をする私は同じグリーンガイドを携えていることに勇気づけられたものでした。
 ポルトガルの大学町コインブラを歩きまわったときのことです。見るべきモノのほとんどは大学関連の建物で、ミシュランのグリーンガイドには大学の由緒ある門、図書館、チャペル、修道院、見晴らしのよい場所などが地図とともにことこまかく記されています。町を歩いて観光する人たちのほとんどがそのグリーンガイドを小脇に抱えています。彼らはガイドブックに記されているところを順にめぐっていますし、私もそうしているのですから、どこへ行っても同じ人たちに会います。それどころかたどる道順もガイドブックどおりで一緒です。同じガイドブックをもって同じところを見学し、同じ説明文を読んで同じように納得し、感動するという、なんとも滑稽なことが起こっていました。ご存知のようにミシュランはフランスのタイヤメーカーであり、自動車でヨーロッパの国ぐにをめぐる人たちのためのガイドブックと地図を出版しています。だからまず自動車を駐車するところを記します。それから歩いてどう回れば効率的かを示してくれています。
 グリーンガイドでは見学地の価値を★印の数で示しています。高尾山はミシュランでは★印がいくつ付されているのでしょうか。最高ランクは★三つです。リスボンの町自体には★が三つついていますが、観光の目玉であるジェロニモス修道院は★二つしかついていませんし、テレビでよく紹介されるポルトの町は★ひとつです。その評価は意外に手厳しいようです。




吉田類の酒場放浪記

2015年09月22日 | 日記

 いつのころからかテレビでこの番組を見るようになりました。そしていつのころからかその生活スタイルが好きになり、いつのころからか私のあこがれの人になりました。吉田類さんは駅周辺の盛り場をうろつき、一件の酒場へ入り、酒を呑み肴を求めます。店の主や店の客と何げないことばを交わします。とくべつに気の利いた警句を発するわけではありません。店でかならずすることは、店のお客さんと乾杯することです。ときにはお客さんが食べているつまみをもらって食べることもあります。それこそが一見客が店の常連客にとけ込むための極意というかテクニックでありましょう。ほろ酔い気分で店を出て、一言二言しゃべり、千鳥足ではしご酒に向かいます。ここで15分の番組クールが終わります。
 お酒は日本酒、ビール、焼酎がお好きなようです。洋酒を注文するところを少なくとも番組のなかでは見たことがありません。お酒はぬる燗を好みます。もちろん冷やで飲むべきお酒は冷やで・・。そして肴も純和風のものを好みます。駅近くの赤提灯だからそういうものしか置いていません。店長おすすめの料理を好んで食べます。
 こう見ると吉田類さんは何から何まで私とは正反対なのです。私は社交性がないので、ふらりと飲み屋に立ち寄ったりするのは苦手です。旅行先などでもし飲み屋に入ったとしても店主や客と親しく話したりせず、せっせと飲みたいものを飲み、食べたいものを食べて店を出ます。ことばを交わさず、ひとり孤独に放っておいてくれる雰囲気の店が好きです。日本酒は甘いし焼酎は味がなくてただアルコールを摂取するためだけに飲んでいる気分になります。ワインやウィスキーのほうが舌触りがいいですね。つまみにはごってり味つけされた惣菜より、もとの素材のあじをそのままに味わいたいほうです。ウナギでさえ蒲焼きよりは素焼きを好みます。幼いころなにも加工せずそのまま焼いて食べたときの味が私の味覚の原点になっていますから・・。
 人はみな自分にないものに憧れるのではないでしょうか。自分に備わっているものをそれ以上ほしがる必要はありません。吉田類さんを私が憧れの人にする理由は、私にないものを吉田類さんがお持ちだからにほかありません。





林芙美子記念館へ行きました

2015年09月21日 | 日記


 連休の初日、新宿区中井駅前をぶらついてきました。新宿から西武線で3つ目の駅です。都心に住んでいたころもこの辺をぶらついたことはありません。駅周辺の小さな路地に小さな商店がところせましと立ち並んでいます。駅を出てまず目をひいたのが「おいしいメロンパン」を売る店でした。長い行列ができていました。ちょうどこの日が開店日で、先着百名に無料でメロンパンを配るらしいのです。つぎに尾張屋というそば屋の看板が目にとまりました。横書きで右から読む看板でした。歴史を感じさせます。歩いていくと坂ばかりで、一の坂、二の坂、三の坂とあります。坂の上を歩くと、りっぱな家ばかりです。新宿から二十分程度のところにこんな閑静な住宅街があったのですね。四の坂まで行くと林芙美子がこだわって建て、死ぬまでの十年間を暮らした家があります。いまは林芙美子記念館として新宿区が管理、運営しています。
 館内では博識なボランティアガイドさんのお世話になりました。女中部屋に二段ベッドが作りつけてあります。「このベッドは芙美子が渡欧したときにシベリア鉄道からヒントを得たものです」。寝台車そのものです。林芙美子も渡欧した経験があったのですか。ほとんど彼女の作品を読んでいないのですが、あとで調べてみますと、27,8歳でパリへ行き、一年半ほどをそこで過ごしています。そういえば家具調度もいくつかヨーロッパから取り寄せたものが置いてあります。庭にはモミジの木が多く、色づく十二月中旬にまた来ようと思いました。帰り道、芙美子がよく出前をとったという尾張屋で腰の強いおいしいそばを食べました。訊くと昭和十二年創業とのことでした。
 JR新宿駅から西武新宿駅への乗り換えを含めてウォーキングは往復で七千歩になりました。私にとってはまずまずの運動量でした。