新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

マドリッドにはスリが多い?

2016年06月30日 | 日記

 旅行ガイドブックを読んでいると、「マドリッドにはスリやひったくりが多いのでご用心!」というようなことが書いてある。その例として、道路を歩くときにバッグを道路側に提げていると車で通りがかりにひったくられる、路上で誰かがなにかを落とす、親切心を起こして拾ってあげていると、その隙にポケットから財布をすられる、地下鉄の車内で数人のグループに取り囲まれて荷物を奪われる、などが書いてある。またリュックサックは背中に背負うとナイフで切られることがあるので前にかけるのがよい、夜8時から朝8時までは地下鉄に乗らないほうがよいとも。旅行会社の人に訊いても「そうです」という。旅行会社の担当者はさらに「奥さまと並んで歩くときには奥さまがバッグをご主人の側の手に持って・・」と注意してくれた。さいわい旅行者に身体的な危害を加えるような事件は起きていないらしい。
 スペインは慢性的な経済不況で失業率が高い。若者だけにかぎってみると50パーセント近い失業率だという。そこで私は慈悲の心を発揮して、スリにすられてもよい紙幣をいつもポケットに入れておくことにした。20ユーロ(約2400円)を小銭入れとともに持ち歩き、妻にも同額をバッグに入れさせた。パスポートなどの貴重品はホテルの金庫に保管し、持ち歩かない。地下鉄に乗るときにはドア付近に立たない、道路を歩くときにはたえず周りに気を配る、などを実行した。
 物乞いをする人が多い。路上のあちこちや地下鉄の駅構内にしゃがみ込んで通行人からの施しを待っている。地下鉄車内でも小銭を入れるカップをもって回ってくる。あるいは車内で歌を歌う、楽器を演奏するなどの芸をしたあと施しを受けるために車内を回る。
 地下鉄車内でこういう人がいた。メモ用紙ぐらいの大きさの紙を1枚ずつ乗客に配って歩く。私にも1枚くれた。手書きしたもののコピーで、そこには「私は仕事がなく子どもが2人いる。子どもたちを食べさせていかなければならない・・」などと書いてあった。これはスペイン社会を知るための資料になると思い、私はそのメモをバッグにしまい込んだ。2車両分くらいの乗客全員に配布したのだろう。その後その人はそれを回収し始めた。私のところにもやってきて「さっきのメモを返してほしい」というそぶりをした。とっさに私は知らないふりをしてしまった。罪悪感にさいなまれた私はホテルまではそのメモを持ち帰ったが、部屋のくずかごへ投げ捨ててしまった。このように良心的な物乞いをする人たちもいる。
 緊張を強いられた10日間だったが、幸運にもスリやひったくりには一度もあわなかった。それどころか危険を感じたことは一度もなかった。逆によいことはいろいろあった。地下鉄の回数券を買おうと券売機を操作してもうまくいかず困っていたとき、声をかけてくれ、券売機を操作してくれた女性がいた。地下鉄の駅で出口と入り口を間違ってうろうろしていると、「こっちですよ」と教えてくれた人がいた。多くの人たちの親切のおかげで気持ちよいマドリッド滞在になった。
 





バリャドリッド

2016年06月29日 | 日記

    
 バリャドリッドを訪れた。マドリッドから北西へ高速列車で1時間、商業の中心地であり、バリャドリッド大学があるので学生も多い。私が行きたかった理由はこの街がむかしの首都であり、イサベル女王がアラゴンのフェンルディナンド王と結婚式をあげた場所だったからだ。フランスのルイ14世の母がこの街で生まれているし、コロンブスはこの街で亡くなっている。そうした雰囲気に浸れるだけの風情がある街だ。日本ではあまり知られていない。
 私が訪れた日はたまたま月曜日だった。セルバンテスが晩年に住んでいた家がふだんは公開されているのだが、月曜日で休館だった。サンパブロ教会裏の彫刻美術館も閉まっていた。ファビオ・ネリの館も休館。それでも街を歩くといにしえのしっとりした栄光が感じられた。街の西側を流れる川を見たかったが帰りの列車の時間が迫っていて果たせなかった。
 今回、行きたくて行けなかったのがマドリガル・デ・ラス・アルタス・トレスという小さな町だ。イサベル女王はこの町の貧しい王宮で生まれている。増田義郎氏は岩波新書「コロンブス」にこう書いている。
「イサベルの生まれた宮殿は今でも残っていますが、行ってみますとおどろくほど粗末な建物です。フェリペ二世の作りました、マドリッド郊外のエル・エスコリアルの宮殿などと比べますと、スペインがわずか一世紀ぐらいのあいだに、どんな大国にのしあがったかということが、実感的によくわかる。それほど貧しいところです。」
 私もそれを肌で感じてみたかったが、かなわなかった。理由はこの町が観光地ではないこと、それゆえにそこへ行くための交通手段がきわめて乏しいことだ。案内してくれる友人、知人がいない。レンタカーを借りて運転する自信がない。一介の観光客としては行動範囲に限界がある。
 右側通行の道路で車を運転することができればどれほど便利か、とよく思う。若いころに運転して慣れておくべきだった。








落書き文化

2016年06月28日 | 日記

  
 スペインの街中の落書きは以前に比べてずいぶん減った。ポルトガルの首都リスボンに比べてもマドリッドの落書きは少ないという印象を受けた。それでも日本に比べると多い。とくに電車の車窓から外を眺めていると、防音壁などは落書きで埋まっている。そのようすたるや労力と根気とペンキ代などの費用と、そして企画力のすべてを傾注し、精魂こめて書き上げたに違いないと思われるものばかりだ。車庫に駐車している電車の車体が落書きでおおわれているのを見ると哀れさえ感じる。しかしさすがにスペイン国鉄RENFEの名誉にかけて、高速列車の車体にだけは落書きさせていない。
 こんなところにまで落書きが、と驚いたのは地下鉄のトンネル内の壁だった。地下鉄に乗っていると暗いなかでも落書きが見えることがある。いったいいつ書くのだろう。夜、電車が走らない時間帯にトンネル内に侵入して書くのだろうか。
 落書きに命を懸けている人がいるのかもしれない。







路上にも駅にもゴミ箱が・・

2016年06月27日 | 日記

  
 マドリッドの街にはいたるところにゴミ箱が設置してある。路上には約40メートル間隔で写真のようなゴミ箱がある。これは便利だ。むかし道路はゴミ捨て場だった。水洗トイレがなかった時代にあっては屎尿の捨て場でもあった。自動車の時代になってからは道路が駐車場になっている。バル(立ち飲み居酒屋)など公共の場所では、ゴミや食べかすは床に捨てることになっていた。
 いまは道路がきれいになっている。路駐が多いことは変わりがないが、ゴミは一掃された。これは路上にゴミ箱を設置した結果だろう。バルのゴミはどうなったか調べなかったが、小さなバルが密集しているサンミゲール市場内にゴミが落ちていなかった。人びとのマナーがよくなったようだ。
 地下鉄の駅にもいたるところにゴミ箱があるし、高速列車に乗っても各座席に小さなゴミ箱が設置されており、あめ玉やガムの包み紙ならそこへ捨てられるようになっている。
 ひるがえって東京では、1995年の地下鉄サリン事件以来ほとんどの駅からゴミ箱が撤去されている。公園でもゴミの持ち帰りが奨励され、ゴミ箱をおいてある公園はほとんどなくなった。日本ではゴミ箱は犯罪の温床になりかねないのだろう。
 スペインではゴミ集め作業に従事している人たちの仕事を確保し、同時に街の清潔を保つためにゴミ箱を設置しているように見える。むかしは公園の花壇に水をかける人たちの姿をよく見かけた。今回のスペイン訪問では残念ながらそれはほとんど見かけなかったが、これも公共の仕事として街が提供していたものだろう。






スペインの車とバイク

2016年06月26日 | 日記

    
 マドリッドの街を歩いていて、たて続けに日本車が通り過ぎた。トヨタ、ニッサン、ホンダの順だった。あいだにシュコダが1台入っていた。シュコダはたしかチェコのボヘミア地方に本拠地をおく自動車メーカーだ。道路が駐車場になっているので、道路を歩くと車を観察できる。日本車ではトヨタが多い。ヨーロッパのメーカーではフォルクスワーゲン、BMW、メルセデス・ベンツなどが目立つ。日本ではとんと見かけないチェコのシュコダもその数では負けていない。またメルセデスといえば日本では高級車の代名詞になっているが、ヨーロッパではバスにまでメルセデスのマークがついていたりする。写真の2枚目はニッサンのノートなのだが、日本のダサい車体とはうってかわってかっこいい。車体の形によってこうも印象が違うものか。
 日本の軽自動車に相当するチャチな車はスペインには存在しない。みなどっしりした普通車ばかりだ。やっぱり日本はまだ貧しいのだろう。
 3枚目の写真は、プラド美術館の近くで見かけた3輪バイク。前輪が2輪あり、後ろが1輪ある。日本の3輪車は後輪が2輪のものばかりなのでこれはめずらしい。乗り心地、使い心地はどうなのだろうか。後ろが2輪の場合、ピザの配達に使われていることからも分かるように後ろに荷物を積んだときの安定感が増すはずだ。ところが前が2輪だと前に安定感が来る。それはそれでいい。カーブを曲がるときのハンドルのきれ具合はどうだろう。自分で実際に乗ってみなければ分からないなあ。