新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

ミッチェナーの病歴

2018年07月26日 | 日記

 James A. Michener(1907----1997)。歴史小説作家だと思っているが、ノンフィクションも書いている。よく知られる歴史小説のおおくが、ペーパーバックにして1000ページを超える厚さを誇る。
 90歳まで生き、ざっと数えただけでも33冊の作品数があるのだからさぞかし健康だっただろうと思いきや、じつはそうではなかった。
 母親がジェームズを妊娠したとき栄養状態が悪かったためか、生まれつきカルシウム不足の傾向が見られた。肋骨が弱く、歯も明らかにカルシウム不足だった。乱視で眼鏡を発達段階に合わせてたびたび変える必要に迫られた。
 子どものころ、近所のガキ大将と喧嘩して鼻を3回折った。そのせいで後世、呼吸が苦しく感じることがあった。「人の話を聞くべきときに自分がしゃべっていた」のが原因で、鼻を折るほどの喧嘩になった。だがここから、人とは比較的折れ合いながらうまくつきあう処世術を身につけた、とみずから省みている。
 小学校の高学年ぐらいだっただろうか、右肘を骨折した。手術をした医師があまり腕がよくなかったために、回復しても右肘がうまく曲がらず、野球のピッチャーをできなくなった。ただ右肘がよく曲がらないことはバスケットのシュートに役だった。テニスではバックハンドがパワフルに打てるようになったし、バレーのアタックでも相手方コートの後方に強力に打ち込めるというメリットができた。
 40代半ばで痛風になった。足の親指にハンカチが落ちても跳び上がるほど痛い。たまたまそのころ家に来ていたヘルパーさんの妹がフィラデルフィアの名医を紹介してくれた。その医師が発明した薬で痛みはなんとか収まった。
 58歳で心筋梗塞になる。もともと頑健なスポーツマンだったことが心筋梗塞にたえた一因だった、と医師に言われる。6週間の入院を終えて、レニングラードについての作品執筆に戻ろうとするが、まったく頭が働かなくなっている。まえから好きだったスペイン、パンプローナへ出かけ、牛追い祭りについてノンフィクションを書くことで、ようやく執筆する自信を取りもどせた。
 69歳でチェサピーク湾岸のコテージに移り住み、「チェサピーク物語」にとり組みはじめたころ、左腰の痛みに襲われた。左股関節のソケット部分と大腿骨の先端がじかに擦れることから生じる痛みだった。1976年当時の医学技術では、手術で治る成功率は3分の2程度だった。ミッチェナーは手術を拒否し、痛みに耐えながら作家活動を続けた。チェサピークからテキサスの農場に居を移し、さらにアラスカのシトカでも痛みに耐えながら取材と執筆をつづけた。
 78歳、テキサス、オースティンに滞在していたとき、心臓へ向かう冠動脈5本がつまっていることが分かり、バイパス手術を受ける。
 80歳を目前に、最後のチャンスとばかりにマイナス52度のアラスカへ移り住んだが、腰痛が悪化、ついに手術に踏み切った。医学技術は日進月歩であり、そのころすでに手術の成功率は98パーセントにまで改善されていた。入院していたマイアミの病院で、すばらしい女性看護師にめぐり会った。カリブ海出身の若くてセンスのよい女性で、のちにミッチェナーはこの女性を「カリビアン」に登場させることになる。転んでもただでは起きないしたたかさがうかがえる。
 
 ミッチェナーは自伝ともいうべき「THE WORLD IS MY HOME」のなかで、金銭面のこと、人との出会い、旅行、趣味、ベストセラー、政治とのかかわりなどについてあからさまに述べている。彼が「南太平洋」を発表してからの生活は、凡人との差が大きすぎて比べにくい。せめて病気やけがについてなら、自分の病歴と比べられるかと思い、書きあげてみた。しかしここでも人脈がものをいう。53歳のときレニングラードで知り合った心臓の専門医が、58歳で心筋梗塞を起こしたときに駆けつけてくれ、貴重なアドバイスを与えてくれる。病気についてさえ、人との出会いがものいう。






クトナ・ホラー

2018年07月23日 | 日記

「黒いチェコ」。チェコの暗部を描いた本らしい。2015年に出版されている。著者はフリーのジャーナリスト。目次のなかにクトナ・ホラーの文字をみつけ、その章を読み始めた。
 クトナ・ホラーはかつての銀の採掘地として、チェコでは観光名所になっている。プラハから東へ70キロほどの位置にある。プラハの繁栄を財政的に支えたのがクトナ・ホラーから産出される銀だったことが書いてある。プラハは中世、ボヘミア王国の都として、また神聖ローマ帝国の首都として栄えた。ただその素晴らしい都市作りには資金が必要だった。ちょうどそのころだった、クトナ・ホラーに銀鉱が発見されたのは。銀は約400年にわたって採掘されつづけ、総量2400トンがプラハへ供給された。当時の世界の銀産出量の三分の一を占めた。
 ちなみに同時代、日本の佐渡や岩見でも銀が採掘されていた。2400トンというクトナ・ホラーでの産出量とほぼ同量が日本でも産出されていた。ポルトガルの詩人カモンイスが「ルジアダス」のなかで、日本を銀の産出国として紹介しているほどだ。
 都市の繁栄のかげにはかならずその資金源がある。ポルトガルやスペインが海外からの富の流入で繁栄したように、プラハはクトナ・ホラーからの銀で潤った。はじめ神聖ローマ皇帝はクトナ・ホラーの町から借金して町の建設をしていたが、そのうち土地所有権がなくても、鉱脈が発見されればその鉱脈を国が所有できるような法律をつくりあげる。こうして巧妙に地下資源を使い放題の状態にした。

 チェコ、プラハについては、千野栄一先生からおおくを学んだ。先生は1950年代後半から1960年代、プラハに留学した。私が授業で聴講したのは1970年代半ばだった。先生はプラハの街について、またチェコについてあまりおおくを語らなかった。言語関係のいくつかの雑誌に書いた文章の端々から、また数少ない著書のひとつ「プラハの古本屋」からプラハの街のようすを垣間見ることができるにすぎなかった。しかしいまにして思うのは先生がプラハについて「いかに多くを語らなかったか」ということだ。語れなかった事情を察するしかない。1968年「プラハの春」がソ連をはじめとするワルシャワ条約軍の戦車によって押しつぶされた苦い経験を、先生ご自身も引きずっていたに違いない。奥さまがチェコ人だったことも事情を複雑にしていた。1980年代になってプラハを再訪したとき、留学時代に親しかった友人に路上で「エイイチ!」と声をかけられた。すでに政府の上層部にいる友人は近づいてきて小声で「わかるだろ」といったという逸話から、ベルリンの壁が崩壊するまえの社会情勢が十分に推察できる。

「黒いチェコ」はポーランド史についての本を都立多摩図書館で探していたとき、偶然、目にとまった本だった。
 ところでこの都立多摩図書館、中央線沿線のオアシスのような場所だ。施設は新しく居心地がよい。国内外の雑誌、新聞は数百種類を閲覧できる。あらゆる分野の辞書が利用できる。地図も豊富に使用可能な状態にしてある。開架書架も魅力的だ。閲覧席がゆったりしている。去年、私はここでジャパンタイムズのなつかしい記事を発掘する作業をした。
 ただ猛烈に暑かったきのう22日、閲覧席は満席で、空いている席を探し求める人たちがうろうろしていた。




1981年のポーランド

2018年07月17日 | 日記


 農家の代表ジャンコ・ブク、ポーランド政府の閣僚スジモン・ブコウスキが、ビスワ川中流にある城で、頂上会談をする。ジャンコ・ブクは農業人をまとめて農業組合を結成しようと活動している。ときあたかもレク・ワレサ議長が率いる「連帯」が工場労働者の組合を結成し、自分たちの要求をつぎつぎと政府に突きつけているときだった。農業人たちからみれば、工場労働者ばかりが優遇され、自分たちは買いたいものが変えない。田畑に撒く肥料が十分にない、トラクターの部品が壊れても代替部品が容易に入手できない。自分たちが栽培した生産物を政府に引き渡さず、横流しして必要なものを手に入れるしかない現状だった。工場労働者たちのように組合を作って、自分たちの要求を政府に押しつけたい。
 政府代表としてこの会談に赴いているスジモン・ブコウスキと農業人代表のジャンコ・ブクとはじつは親戚関係にある。ブコウスキはポーランドの貴族ルボンスキ家に仕える家系にあり、貧しいながらも馬を飼い、世話してきた。少年時代からナチに対峙する共産主義に目ざめ、一時は森に潜んで地下活動していた。戦後、共産主義政府の一員として頭角をあらわした。ジャンコ・ブクはブコウスキ家につかえる農業者の家系だった。農業のことしか知らずに成長し、その後、母が起こした塾や自宅の台所で勉強し、農業の重要性を学んだ。ジャンコ・ブクの曾祖母がスジモン・ブコウスキの祖母に当たる。ナチの拷問を受けて何人もの家族を失っているし、自分たちもナチにはさんざん苦しめられた過去をもつ。
 スジモン・ブコウスキは首都ワルシャワを発つとき、政府から農業組合結成を認めてはいけないという厳命を受けていた。会談場所の城から東に見える森のなかには金属に反射する独特なするどい光が感じられた。旧ソ連の戦車がたえずじっと森に潜んでいることは周知の事実だった。1968年のチェコ、プラハ、その後のハンガリー動乱を押さえつけたのはこのような戦車群だったことを思い出させた。
 農業組合結成の交渉は行き詰まった。ブコウスキは4週間の会議中断を宣言する。そして1941年だったか、潜んでいた森のなかから物乞いに訪れたジャンコ・ブクの母ビルータを再訪する。ビルータもナチの拷問にあい、右目からあごにかけてみみず腫れが残っていた。2人は再会を懐かしみ、抱きしめあう。別れぎわ、またもやブコウスキが物乞いする。もはや何も買えないポーランドのお金ズローティスを善意の証としてブク家に残しながら、ワルシャワへ持ち帰る野菜類を車の荷台に詰め込む。政府から十分な給料をもらっているブコウスキのワルシャワの家族でさえ、日々の食料に不自由していたのだった。
 
 ジェームズ・ミッチェナーの歴史小説「ポーランド」の第1章です。登場人物はフィクションですが、時代背景がほんものであることは、日本の歴史小説を読む人ならお分かりのことでしょう。それにしても旧ソ連が率いた東欧ブロックの実状は痛ましいものです。ハンガリー、ブルガリアなどはこれ以上にひどかったようです。
 レク・ワレサ議長(当時)の名前は、いまではもっとポーランド語に忠実な読み方をしているようですが、ここでは1981年当時、新聞や雑誌が書いていた読み方を使っています。他の名前は私が英語から推測した読み方をカナにしたものです。




市町村ごとの災害史をつくろう

2018年07月11日 | 日記

 1982年7月だったと思うが、藤野、日連地区の山が崩落した。わが家から川を隔てた反対側になる。民家が何軒か崩落した土砂に埋まり、死者が出た。その後、山は修復工事がなされ、土砂で埋まった民家は新しく建て替えられた。いまその山を仰ぎ見ても崩落の跡はうかがえない。事故からすでに30年あまりが経過した。事故があった山の裾に開けた集落の、民家の戸数は増えている。その間にその地区に引っ越してきた人たちは、あの事故のことを知ったうえで引っ越してきたのだろうか。疑問だ。
 相模原市はハザードマップを作成し、全戸に配布している。わが家は裏山が崩れた際に、土砂が流れてくる危険性のある地域に入っている。近所の人たちで、このような危険性を意識している人が何人いるだろうか。
 自分が住む地域の危険性を意識しても、安全地帯に引っ越すことは容易でなく、鉄筋コンクリートの頑丈な建物に建て替えることもままならないのが現実だ。
 今回、大規模な洪水に見舞われた倉敷市真備町には、ハザードマップができていた。そのマップどおりに水が流れ込み、被害をもたらした。ふだんからその危険性を意識していたとしても、そう簡単に安全な場所へ引っ越せるものではないが、いつか起こる危険性を認識していれば、新しくそこへ家を建てる人は確実に減る。ハザードマップをつくり、それを住民に周知することは必要だ。
 私の提案は、各自治体が市町村ごとの災害史を編むことだ。日本が成立して1300年の間には、洪水、火災、震災がくり返し起きており、そのたびに立ち直ってきた歴史がある。自然災害による被害を最小限に食い止めるには、それを知って、住宅を新築するときの参考にできるようにする必要がある。
 うえに掲げた写真は、私が調べあげた京都の街の災害史だ。ブログに表が載せられない、または載せかたを知らないので写真にした。洪水と火災、震災だけでなく疫病の流行、竜巻、飢饉までが入っている。京都にいまみられるおおくの神社仏閣で、創建された当時のまま残されているものは数えるほどしかない。あとはすべて洪水や火災に見舞われ、なんども立て替えられてきた。百年に一度、自然災害が襲っても、千年の間には十回も災害に見舞われていることになる。古来、鴨川はなんども氾濫をくり返した、と聞いている。
 このような災害の記録を、市町村ごとに用意してほしい。そして家を新築したり土地開発するに際して関係者に周知してほしい。心の備えがあれば、被害は違ってくるはずだ。






東京駅プラットフォームがゆらゆら

2018年07月08日 | 日記

 きのう午後8時20分ごろ、東京駅のプラットフォ-ムがゆらゆらした。地震だ、ととっさに身構えた。20秒ほどつづいた。おおくの人が揺れに気づいていたが、おおきく反応した人はいなかった。私はプラットフォームが揺れるのを感じたのははじめてだったので、過剰に反応してしまった。電車はしばらく運転を見合わせるだろう。高尾行きの特快に乗る予定だったが、すこしでも早い電車で行けるところまで行くほうがよいと考えて快速に乗った。駅のアナウンスはない。スマホを見ていた人が千葉で震度5だとささやいていた。発車ベルが鳴り、快速電車が何事もなかったかのように発車した。三鷹駅で後から追いついてきた特快に乗り換えた。後続電車も地震の影響はなかったようだ。
 東京駅のプラットフォームがゆらゆらするぐらいでは、みな反応しないのだろうか。それほどまでに地震に慣れっこになっているのか。それとも駅のプラットフォームの揺れに反応する私のほうが過敏なのか。

 まれにみる広範囲で豪雨による災害が発生している。朝日新聞2面の大見出しに、「広域、同時多発」とあった。テロを思わせる見出しにぞっとした。天変地異、気候変動、地球温暖化などといわれるが、自然が人間界に同時多発テロを仕掛けてきたと思われる。
 被害にあわれた人には、心からお見舞い申しあげます。