James A. Michener(1907----1997)。歴史小説作家だと思っているが、ノンフィクションも書いている。よく知られる歴史小説のおおくが、ペーパーバックにして1000ページを超える厚さを誇る。
90歳まで生き、ざっと数えただけでも33冊の作品数があるのだからさぞかし健康だっただろうと思いきや、じつはそうではなかった。
母親がジェームズを妊娠したとき栄養状態が悪かったためか、生まれつきカルシウム不足の傾向が見られた。肋骨が弱く、歯も明らかにカルシウム不足だった。乱視で眼鏡を発達段階に合わせてたびたび変える必要に迫られた。
子どものころ、近所のガキ大将と喧嘩して鼻を3回折った。そのせいで後世、呼吸が苦しく感じることがあった。「人の話を聞くべきときに自分がしゃべっていた」のが原因で、鼻を折るほどの喧嘩になった。だがここから、人とは比較的折れ合いながらうまくつきあう処世術を身につけた、とみずから省みている。
小学校の高学年ぐらいだっただろうか、右肘を骨折した。手術をした医師があまり腕がよくなかったために、回復しても右肘がうまく曲がらず、野球のピッチャーをできなくなった。ただ右肘がよく曲がらないことはバスケットのシュートに役だった。テニスではバックハンドがパワフルに打てるようになったし、バレーのアタックでも相手方コートの後方に強力に打ち込めるというメリットができた。
40代半ばで痛風になった。足の親指にハンカチが落ちても跳び上がるほど痛い。たまたまそのころ家に来ていたヘルパーさんの妹がフィラデルフィアの名医を紹介してくれた。その医師が発明した薬で痛みはなんとか収まった。
58歳で心筋梗塞になる。もともと頑健なスポーツマンだったことが心筋梗塞にたえた一因だった、と医師に言われる。6週間の入院を終えて、レニングラードについての作品執筆に戻ろうとするが、まったく頭が働かなくなっている。まえから好きだったスペイン、パンプローナへ出かけ、牛追い祭りについてノンフィクションを書くことで、ようやく執筆する自信を取りもどせた。
69歳でチェサピーク湾岸のコテージに移り住み、「チェサピーク物語」にとり組みはじめたころ、左腰の痛みに襲われた。左股関節のソケット部分と大腿骨の先端がじかに擦れることから生じる痛みだった。1976年当時の医学技術では、手術で治る成功率は3分の2程度だった。ミッチェナーは手術を拒否し、痛みに耐えながら作家活動を続けた。チェサピークからテキサスの農場に居を移し、さらにアラスカのシトカでも痛みに耐えながら取材と執筆をつづけた。
78歳、テキサス、オースティンに滞在していたとき、心臓へ向かう冠動脈5本がつまっていることが分かり、バイパス手術を受ける。
80歳を目前に、最後のチャンスとばかりにマイナス52度のアラスカへ移り住んだが、腰痛が悪化、ついに手術に踏み切った。医学技術は日進月歩であり、そのころすでに手術の成功率は98パーセントにまで改善されていた。入院していたマイアミの病院で、すばらしい女性看護師にめぐり会った。カリブ海出身の若くてセンスのよい女性で、のちにミッチェナーはこの女性を「カリビアン」に登場させることになる。転んでもただでは起きないしたたかさがうかがえる。
ミッチェナーは自伝ともいうべき「THE WORLD IS MY HOME」のなかで、金銭面のこと、人との出会い、旅行、趣味、ベストセラー、政治とのかかわりなどについてあからさまに述べている。彼が「南太平洋」を発表してからの生活は、凡人との差が大きすぎて比べにくい。せめて病気やけがについてなら、自分の病歴と比べられるかと思い、書きあげてみた。しかしここでも人脈がものをいう。53歳のときレニングラードで知り合った心臓の専門医が、58歳で心筋梗塞を起こしたときに駆けつけてくれ、貴重なアドバイスを与えてくれる。病気についてさえ、人との出会いがものいう。