新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

青山南さん

2017年09月28日 | 日記


横浜、里山ガーデン。キバナコスモスが目立っていました。

 岩波新書の新刊「60歳からの外国語修行」を4日で読み終えました。電車のなかで読む本と決めていましたからもう少し時間がかかると見込んでいましたが、意外に早く読めました。読みやすい本でした、翻訳家、青山南さんがスペイン語を習おうとメキシコで生活をはじめる話です。この本には早くから目をつけていました。9月はじめに岩波書店の広報誌に大きく載っていたので8月に出版されたものと私が勘違いして、ジュンク堂書店の店員さんをあわてさせてしまったほどに期待していた本でした。

 青山南さんは名前だけはすでに30年ほどまえから知っていました。フリーランスの翻訳家として、訳書をつぎつぎに出されていましたから。私はたぶんその1冊も読んでいません。興味の対象が青山さんとは微妙にずれていたせいでしょうか。しかし翻訳家が書く文章は総じておもしろく、ためになります。青山さんが語学留学のために滞在し、ホームステイしたグアダラハラはメキシコではメキシコシティーに第二の都市としてその名をよく知っていました。
 翻訳家が書く文章は読みやすいのです。読みにくい原文でも読みやすい日本語に仕立て上げることが翻訳家の仕事ですから、それにずっと携わってきた人の文章はほぼ例外なく読みやすいものです。また漢字かな遣いのしかたがとても参考になります。漢字がおおい文章は堅ぐるしく読みにくいものです。ことばの使い方もおおいに参考になります。
 この本ではいたるところにスペイン語が登場します。それも初歩的なスペイン語が・・。動詞の活用だったり、簡単な言い回しだったり。私はなんとなく優越感を感じながら読みすすめました。青山さんがある程度の年齢になってからNHK講座でスペイン語をはじめたのに比べ、私は学生時代にすこしばかりかじっていたのですから、あたりまえかもしれません。
 メキシコの歴史についても触れてくれています。1968年10月、メキシコオリンピック開会のわずか数日まえに学生運動の活動家たちが何人も政府当局によって殺された痛ましい話など、これまであまり人口に膾炙されなかったことを話題にしてくれています。
 メキシコへ語学留学にきている他国の人たちについても、また語学学校の先生たちやホストファミリーのことなど興味深い話題が満載されています。グアダラハラへ行ってみたくなりました。

  




治療法は自分で決める

2017年09月18日 | 日記

 高脂血症で御茶ノ水の三楽病院にかかっている。半年に一回、クレストール2.5mgという薬をもらいに行く。2.5mgの薬1錠を自分でハサミで半分に切ってのむ。つまり1日に1.2mgほどをのむ。この数年はそれでコレステロール値になんら問題がなかった。
 ところがこの7月の定期健診で、コレステロール値が基準を少しばかり超えていることが分かった。総コレステロール値もLDLいわゆる悪玉コレステロール値も高くなっていた。これはたいへん。病院に行く予定を3か月早めた。毎日1錠をのむ、むかしの服用のしかたに戻すしかない。
 三楽病院へ2か月に1回行っていたころは、きまった医師に診てもらっていた。その医師はすでに退職された。容態が安定していたので病院へ行く回数は3か月に1回になり、いまは6か月に1回になっている。
 いつも予約なしで飛びこむ。内科では常時5人から6人の医師が診察にあたっているが、私が行く曜日が一定しないし、6か月も間があくと再来でなく新来患者のような扱いを受ける。そんなこんなでいつも異なる医師に診てもらうことになる。医師は総じて若い。私からみればみな若いのだが、それでもわりあい経験の浅い医師にあたることが多くなったような気がする。いっぽうこちらは病歴20年のベテランであり、コレステロールについての本を数冊は読んできた。薬もリポバス、リバロ、クレストールと変遷してきた。どの薬がどの程度の効き目があるか、どの薬が自分に合わないかを知っている。医師をしている友人も何人かいて、アドバイスをもらったことがある。
 結果、最近ではこちらが自分自身の治療法、薬の飲み方を提案し、医師の了承を得る形になってしまった。薬を半錠ずつのむ方法も、また今回から1錠ずつ飲む服用法に戻すことも私のほうから医師に切り出した。
 しかし考えてみれば、これが病気治療の本来の姿ではないか。インフォームド・コンセントといわれるが、その方面の知識が十分にある患者は自分で自分の治療法を決めるのが自然だ、と思っている。








迷惑な隣人

2017年09月17日 | 日記

 北朝鮮の「あの人」のことです。核開発やらミサイル打ち上げやら、まわりの国々の迷惑を考えずに自国のプライドを守ることばかり。いや、たぶん自己の保身が第一の目的なのでしょう。仮想敵国にされているのは第一がアメリカ、第二が日本のようです。国際社会の心配に耳を傾けようとしません。
 しかしもともと、国際社会の規範はだれがつくったものでしょう。アメリカ、ロシアほかいくつかの、核を早くからつくり、保有する国以外は核をもってはいけない、という決まりを作ったのは核保有国でした。かってにつくった核開発禁止の規定を国際規範に仕立て上げ、「自分たちが核をもつことは差し支えないけど、あとの国は核を作ってももってもいけない」などという屁理屈が国際社会の規範としてまかり通っています。しかもアメリカ、ロシアなど核保有国は核の数を減らそうという努力をしているようには見えません。イランや北朝鮮がそれに反発しているのには、歴史的にみて道理があります。
 むかしマケドニアのアレクサンドロス大王はペルシアを征服し、カイバル峠を越えてインドのパンジャブ地方をも自国の領土にしようとしました。そのころ盗賊を捕まえて「なぜおまえは盗賊を働くのか」と詰問したところ、「大王さまがあちこちを荒らし回るのとおなじです」と応えたといいます。さらに「大艦隊を率いていれば正義になり、小さな小舟で盗賊を働くと悪になるのですか」と大王に問い返しました。
 アメリカと北朝鮮のチキンゲームも同じようなものです。国連や国際社会を味方につけていれば正義になり、後発の弱小国が単独に行動すれば悪になります。言語学者であり平和運動家でもあるアメリカのノーム・チョムスキーは、その暴力性においてアメリカと北朝鮮の2国はなんら変わりがない、という趣旨のことを述べて、アメリカ政府に警告を発しているようです。
 では、そのように迷惑な隣人をもつ日本はどうすればよいのでしょうか。やはり国際社会と緊密に連携しながら、「あの人」を懐柔していくしか方法がないでしょう。「あの人」が人格的にまともな人であることを祈るばかりです。
参照:海賊の世界史(中公新書)





八王子の路面電車

2017年09月16日 | 日記

 緑化フェア、八王子でやっています。9月16日から10月15日まで。写真は富士森公園内のグランドを改装したメイン会場。

 メイン会場の一画にペチュニアを鑑賞しながら八王子の歴史を振り返るコーナーがあります。なんとむかし八王子にも路面電車が走っていたようです。現在の高尾山口駅から京王八王子駅までの(たぶんむかしの)甲州街道を走っていたとのこと。いつまで走っていたのでしょうか。
 私が藤野に住み、八王子を生活圏にするようになったのが33年まえの1984年です。少なくともそのころ路面電車はもう走っていませんでした。路面電車はバスに比べれば機動性がなく、鉄路がある部分しか走れませんからどうしてもバスに取って代わられる運命にあります。それでも路面電車が醸し出す風情が好きで、なんとなく全国にいまあるすべての路面電車に乗りつくしたい誘惑に駆られます。
 札幌はどうだったか記憶がおぼろですが、福井、広島、長崎、高知、神戸にはたしかに路面電車が走っていました。いまはどうでしょう。高知には世界各国から取りよせた車両が走っています。これはおもしろい。神戸に住んでいたとき、路面電車を日常生活の足として利用していました。長田区御蔵通りから三宮駅前まで毎日、路面電車で往復していましたが、いまはもう存在しません。京都では嵐電以外の路面電車にも乗ったことがあるような気がしますが、この記憶には自信がありません。
 東京にはじめて出てきた1970年春には、路面電車が駒込駅前の本郷通りなどでまだふつうに走っていました。それから2,3年のうちに荒川線をのぞく他の線は消えていきました。あっという間でした。その後、いまも残っている荒川線は3年間ほど私の日常生活の足として利用させてもらいました。
 いやあ、甲州街道を走る路面電車に乗ってみたかったですねえ。そのころの街は甲州街道沿いに集中していたのでしょうか。またいつか調べてみましょう。
  

悠久のインド

2017年09月04日 | 日記

 インドのデリーを訪れている友人からメールが届いた。その友人は、12歳前後に父親の仕事の関係でデリーの学校に3年間ほど通っていたことがある。今回、その学校をなんと50数年ぶりに訪問してみたという。
 以下、友人からのメールを引用しながら書いていく。
 学校へ着くと、日曜だというのに門が開いていたのでそのまま中へ入った。50数年前の記憶が鮮明によみがえり、見るものすべてが当時のままであることを知る。「インドは100年経っても変わらないというのは」「作家プレームチャンドの一節ですが、まったくその通り」「小生が過ごした寄宿舎も、先生がいた寮もそのままでした。こうなると、もう精神は12歳くらいの50年以上前の自分に」戻り、「かって知ったる建物に足は自然に向か」う。「部屋の並びも昔のままでしたから、わがもの顔である棟に入」る。「ある部屋の窓が開いており」なかで神父さんらしい人がパソコンをたたいている。「Father, I am sorry to bother you, but may I talk to you for a moment?と話しかけると、Come in come inと気さくに部屋に招」き入れてくれる。
 紅茶とビスケットを供されながらいろいろな話を聞く。友人が在籍していた当時校長先生だった人がいまは92歳になるがまだ学校にいるから会っていけと勧められる。日曜だというのに次から次へとさまざまな人に会い、資料をもらってホテルへ帰ってきた。満足した一日だった、という。
 ここで感心するのは、50数年たって学校の建物がほとんど変わっていないということだ。悠久のインド、といわれるが、これにはさすがに新鮮な驚きをおぼえる。正確にはインドのなかのイギリス系社会というべきかもしれないが、イギリス系学校がインドという土地柄のなかにあるからこそ悠久の姿を体現できているのだと思う。
 日本ではどうか。私が卒業した小学校は木造校舎だったがいまではりっぱな鉄筋コンクリートの校舎に変わっている。むかしの面影はない。中学校は場所自体が移っており、元の場所にはなにか別の施設ができている。デリーのこの学校のように50年以上もおなじ校舎を使い続けることは日本の学校ではあり得ないことだ。
 旧態依然というのはマイナスの価値を含むことばだが、デリーのこの学校はよい意味で旧態依然とし、卒業生である友人に対してとても温かいもてなしをしてくれている。人間を大事にする教育をし続けていることの証左なのだろう。
 古きよきインドが永遠につづくことを祈る。そしてEMフォスター原作の映画「インドへの道」をもう一度ゆっくり観てみたい。