新・日曜炭焼き人の日記

炭遊舎のホームページで書いていた「日曜炭焼き人の日記」を引きついで書いていきます。

タオルの文字は?

2016年10月29日 | 日記

 ATPテニスの試合が連日テレビで生中継されている。昨夜は午前2時に起きて錦織圭が出場した準々決勝の試合を観戦した。試合結果は報道でご存知だろう。
 それより私は、選手たちが試合中にボールパーソンから受けとる汗拭き用の白いタオルに書いてある赤い文字が気になっている。ボールパーソンたちはその文字がよく見えるように、テレビにはっきりと映るようにタオルをきちんと開いて選手に渡しているようだ。なんと書いてあるのか。
 試合会場はスイスのバーゼルにある。Baselの文字はテニスコートの両側、選手たちがサーブをする位置に大文字と小文字を使ってきちんと書いてある。タオルの赤い文字はそれに似ているようにも見えたが、すこし違う。なかなか正確に読みとる機会がない。ボールパーソンたちはテレビ画面に映るように開いて選手たちに渡すよう指示を受けているのだろう、文字の上下が逆になってテレビに映ることは一度もなかった。だが、それがはっきりと読みとれるほどゆっくりと手渡してはいない。
 私はPersilかそれに近いつづり字を推測した。ネットで調べるとパセリの意味がある。しかしこれは、この場合の意味としてはおかしい。書きはじめが大文字であることも気になる。
 手元にある辞書リーダーズプラスがもっとも近い意味を提供してくれた。商標で「英国リーバー・ブラザーズ社製の洗剤」と書いてある。洗剤のメーカーがタオルを無償で提供していることは十分にあり得る。
 さまざまなスポンサーが経費を提供し、広告を出している。Fly Emiratesの文字が始終テレビ画面に映し出されている。ほかにもあった。しかしタオルの文字を広告に使うとは、にくいやり方ではないか。見えそうで見えないもどかしさを残すところがさらににくい。今日の試合でもう一度その文字を確認しよう。





記憶がない

2016年10月24日 | 日記

記憶がない
 ジェームズ・ミッチェナー作「カリビアン」を読み始めた。このペーパーバックを買ったのは4半世紀ほど前だった。買ってすぐに読み始めたが、170ページでやめてしまった。170ページに黄ばんだメモがはさんであったことから、推測できた。当時から私は、この種の本を読むときには登場人物をメモする習慣をもっている。外国人の名前は憶えにくいし、ページが進むにつれ、前に登場した人物を忘れてしまうと筋を追えなくなるからだ。いま、はじめから読み返している。4半世紀前に読んだときの内容をほとんど憶えていない。ふたたび170ページまで読んだところで振り返ってみて、カリブ海の島に人肉を食う民族がいたことだけがかすかに頭に残っている。それ以外のことはまったく記憶にない。まるではじめて読む本であるかのように読んでいる。英語の本であり、辞書を引きながら苦労して読み進むのだから、もう少し記憶に残っている部分があってもよいと思うのだが、悲しいかな記憶力があまりに乏しい。
 
記憶ちがい
 糖尿病対策にはショウガを食べるのがよい、と何かの本に書いてあった。職場の同僚と健康本を見ながらあれこれチェックしていたときだった。一晩たつうちに私の頭のなかでそれはニンニクに置き換わっていた。糖尿病対策にはニンニクを食べるのがよい、と。ニンニクは何にでも効く、万病に効くと思っているし、それはそれで間違っていないはずだ。しかしここで私が記憶したかったのはある健康本に書いてあったこと、すなわちショウガをなるべく食べよということだった。それがニンニクに置き換わってしまったのはまずい。数日後、同僚とおなじ本を繰っていたとき、自分の記憶のすり替わりに気づかされたのだった。

 夏のある日、城山のSさんに電話連絡して野菜をもらいに行ったときのこと。その半年前にSさん宅を訪問して、すでに場所を知っているつもりでいた。ところが車で何度かそれらしい路地に入ってもSさん宅は見つからない。なんどもSさんに電話して場所を確認したが、なかなかたどり着けない。なんのことはなかった。場所探しの起点にしていた交差点をひとつ間違って認識していたのだった。これは記憶力のなさというよりも勘違いのゆえんというべきかもしれない。

 さて、私がここに書いている文章のほとんどは記憶に頼って書いている。その記憶自体がじつにいい加減なものであることを知って、このブログを読んでいただければ幸いだ。






新車が来た

2016年10月23日 | 日記

 バイクの新車が届いた。午前中の陽気に誘われてドライブしてみた。乗り心地はすこぶるよい。まえのバイクに比べて、エンジンブレーキがよく効く。下り坂でブレーキをかける回数が大幅に減る。さらに燃費がきわめてよさそうだ。この点は販売店Sモータースからも聞いていた。50キロを走行してガソリンは1目盛りさがったのみだ。ガソリンタンクを満タンにしておけば200キロを走れる。ガソリン1リッターで50キロを走行できる計算になるが、これははたしてどうか。
 難点はある。まずオイル交換が必要になる。普通乗用車とおなじだ。これまで乗っていたバイクは、エンジンオイルが減った場合にのみ補給していた。オイルの汚れをチェックしたことがなかった。新車は3000キロ走行するごとにオイル交換が必要だとされている。これはやっかいだ。
 またガソリンメーターの針が指す位置が上り坂になるとかなり下がり、下り坂で指す位置に比べて1目盛りも差がある。上り坂ではガス欠状態に陥っても下り坂ならまだ走れるということだろうか。できれば逆であってほしい。上り坂こそガソリンが必要であり、下り坂はエンジンを切っても走れるのだから。
 私のバイク遍歴のはじまりはホンダ・タクト。これに乗って藤野の隅々を走り回った。車では入りにくい狭い路地でもバイクなら入っていける。坂だらけの藤野では自転車はおとなの乗り物ではなかった。その後、スズキ・セピア、ヤマハ・ジョグ、ヤマハBJ(ビッグ・ジョグ)と続いた。自宅から藤野駅までと職場から最寄り駅のあいだとで2台のバイクを使っていた時代があったし、子どもたちも自分のバイクを乗り回していたので、いったい何台のバイクを買ったか数え切れなくなっている。
 歳をとったいま、少年時代に憧れたテレビ番組のヒーローのように、さっそうとバイクを乗りこなしてみたいものだ。






「猫」を読む

2016年10月17日 | 日記

 毎朝、新聞で『猫』を読むのが日課になっている。夏目漱石『吾輩は猫である』が新聞に連載されている。「こころ」「三四郎」もこうして再読した。いや「こころ」は新聞ではじめて読み通した、というべきだろう。1回1回区切らなければ退屈でとても読めた小説ではなかった。「門」「それから」はもうついて行けなくなってやめてしまった。
 そして『猫』。単行本でむかし読んだ。新聞ですこしずつ読むのがまた楽しい。おっと、これは本来、新聞小説ではなかったな。明治の末ごろ、俳句雑誌の月刊『ホトトギス』に載ったものだ。ということは1回分の長さ、区切りが新聞小説のそれとは違うはずだ。読んでいて第8回までが一区切りだったことが分かった。第9回だったか、吾輩がいささか有名になったと書いてあった。猫の絵を描いた年賀状がたくさん届いたとも・・。読者の反応を作品のなかに取り入れる手法は、セルバンテスの「ドンキホーテ」を彷彿させる。
 漱石を専門に研究した人によれば、『猫』は漱石の処女作で、イギリス留学から帰国してこれを書き始めたころ、精神の病は最悪の状態だった。そんな状態でかくも融通無碍な作品を世に出せる漱石の筆力には驚嘆する。猫の視点で人間界を描写する手法が奇抜なら、苦沙弥先生のもとに迷亭君、寒月君らが集まって交わす会話はなんとも珍妙で、読者の心をくすぐりつづける。高等遊民、太平の逸民ということばが頭をよぎる。私が憧れる人種であり、『猫』はこのブログがめざすところでもある。
 銭湯のなかの風景が猫の目から描かれていた。おもしろいが、やはり迷亭先生の珍説をうかがうほうが気分を楽しませる。そろそろ終盤を迎えたようだ。語彙やエピソードの豊富に入った本は漱石をおいてほかの作家には書けないだろう。終わってしまうのは惜しい。たしか密壺にはまり込んで、「ねこじゃねこじゃ」を踊りながら窒息死するんだったかな。





珍味

2016年10月16日 | 日記

    
 あけび。店では買えない珍味だ。府中のMさんが炭焼き場の横の柿の木にアケビの蔓をはわせたのは数年前だった。いまにも枯れそうな弱々しい蔓だったので根元に炭の粉を入れてみた。それから数年たち、今年はじめて実をつけた。Mさんのものなので実を見つけたときすぐに電話で知らせた。ところがMさん、近くこちらへ来る予定がないし、わざわざ来るには交通費がかかる。とって食べてほしいという。そこで私がいただくことになった。
 種の部分は甘い。ところが果肉を一口食べると苦い。苦みはその後、数時間口に残った。形も食べ方もパッションフルーツとおなじだ。パッションフルーツの味は甘いというより酸味がある。これは南国からいただく以外に入手できないので、やはりめったに食べられない。
 アケビをいただいたのは3週間前だった。

 炭焼き場上の農道が舗装し直され、きれいになった。相模原市が2年かけて工事してくれた。でこぼこがなくなり、車の底部を擦る心配がなくなった。路肩が崩れないように下にも杭が打ち込んである。ただこの杭、生木で作られており、10年もつかどうか。