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古代マケドニア王国 8

2025-07-29 05:47:37 | 古代

以上がマケドニア人が到来した時の状況である。マケドニアの原初の領土について、ヘロドトスは次のように書いている。
「アルゴス(ペロポネソス半島の北東部の都市)の3人の若者がイリュリアに逃げ、その後、イリュリアの東方の都市レバイアに移り、レバイアの王に仕えた。ししばらくして王は3人に王国を去ることを求めた。三人はベルビオ山のふもとのミダスの庭園に行き、そこに住んだ。長い年月の後、彼らは町を拡大した。末の弟ペルディカスが初代国王になった」。
三兄弟を追い出した王の住むレバイアという都市はイリュリアの東方ということしかわからないが、三兄弟が住んだ「ベルミオ山のふもとのミダスの庭園」は低地マケドニアニアの東半分のどこかである。ミダス王はアナトリアに移住し、フリュギア人の王となった(紀元前740年頃)。マケドニア人が到来したのは、ミダス王が去った後である。ハルキディキ半島の付け根に住んでいたミグドニア族はミダス王と同じ部族である、とヘロドトスは述べている。
ツキジデスは「マケドニア人の先祖はテルマ湾の海岸に上陸した」と書いている。「浜辺に住んでいた人々の家は円形に並んでいた。マケドニア人は彼らを駆逐した。マケドニア人の原初の領土は西の高地マケドニアではなく、中央の低地マケドニアである」。
家を円形に並べたのは、敵がやって来た時、家を防壁として利用するためだろう。4軒の家を並べても、四角形にしかならず、円形に並べるには、最低でも6軒は必要である。せっかく家を円形に配置していたのに、先住民は追い出されてしまった。低地マケドニアに上陸したのは、3人の兄弟だけだったのだろうか。
マケドニア人の原初の領土について、ヘロドトスとツキジデスが具体的にに述べているにも関わらず、初代から第4代の王の時代に繰り返しイリュリアとの戦争が起きており、マケドニアの原初の領土が西の高地にあったと考えられる。最初に紹介した「原初の領土は中央の低地」と言う話と矛盾する。この点について説明したい。
イリュリア人のタウランティ族の王について、次のように書かれている。
タウランティ族が最初にマケドニアに侵入したのは紀元前691年だった。その後平和な関係になったが、タウランティ族は再びマケドニアに侵入するようになった。タウランティの王ガラウラスがマケドニアに侵入したのはのは紀元前678年と640年の間である。マケドニアの王アルガイオスとマケドニア軍は多くのイリュリア兵を倒し、イリュリア兵は逃げ去った。
イリュリアとの戦いに勝利したアルガイオスは、マケドニアの第2代国王である。彼について、次のように書かれている。
「アルガイオスは男たちを女装させ、花輪などで飾り、女のように見せかけて、イリュリアのタウランティ族に勝利した。タウランティ族の王はガラウラスだった」。
第2代国王アルガイオスが勝利したのは、紀元前678年と640年の間である。イリュリアによるマケドニアへの攻撃が始まったのはこれより13年前または51年前であるが、イリュリアとの最初の衝突についてマケドニア側には記録がなく、この時のマケドニアの王はが第二代のアルガイオスか、初代のペペルディカスか、わからない。おそらく、初代のペルディカスの時代にイリュリアとの戦争が始まっており、マケドニアの原初の領土は西部の高地にあったと考えるのが自然である。しかし、「原初の領土は中央の低地にあった」と考えることも可能である。中央低地には、西端に住むボッティアイア族以外にまとまった集団は住んでいなかったので、低地の制覇はそれほど時間がかからなかったと思う。この頃のマケドニア人について、重要なことが伝えられている。マケドニア人はボッティアイア族との戦闘を後回しにして、南部の高地に進出したのである。彼らは南部の高地を獲得してから北西に向かって進み、イリュリア人と衝突したのである。
マケドニア人の南部高地への進出は次のように伝えられている。マケドニア人は南方のピエリア山に向かって進んだ。ピエリア山は標高が低く、この山の北部はテルマ湾に迫っており、この山の南部は海から離れていて、海との間は平野となっている。ピエリア山の西と北を取り囲むようにアリアクモン川が流れており、ピエリア山の南にはギリシャの最高峰オリンポス山がそびえている。 ピエリア山の南部は居住に適しているだけでなく、地形が自然の要害となっており、安全である。ここにピエリア族が住んでいた。ピエリア族との戦闘は困難だったと思うが、マケドニア人は彼らを追い出すことに成功した。ピエリア族はトラキアの沿岸部に逃げた。残念ながら、ピエリア族との戦闘が何年に起きたか、伝えられてない。この時期マケドニア人の数が増えていたはずずであるが、どのようにして、ある程度の集団に成長したのか、わからない。また3兄弟の時代から末弟のペルディカスが初代の王になった経緯も伝えられていない。ピエリア山を獲得した後、マケドニア人はアリアクモン川を超えて西部高地に進出し、イリュリア人と衝突した。ボッティアイア族はピエリア族より大きな集団なので、彼らとの戦いを後回しにして、無人の山岳地帯に進んだら、イリュリア人に襲われたのである。その後マケドニア人にとってイリュリアとの戦争が課題担ったが、イリュリア人との戦争がない時期もあり、そのような時に、マケドニア人はボッティアイア族と戦い、勝利したのである。ボッティアイア族はハルキディキ半島の南部〈テルマ湾沿岸)に逃げた。ハルキディキ半島から3本の細長い半島が突き出ており、南側のパレネ半島の付け根にある港ボッティアイアは、ボッティアイア族の港だったが、アテネの植民地となった。ボッティアイア族を追い出した時、マケドニアの王は誰だったのか、伝えられていない。マケドニアの歴史では、第3代の王以後もイリュリアとの戦争が語られるが、ボッティアイア族の戦争については何も語られていない。第3代ピリッポスとそれ以後の王たちについて、次のように書かれている。(英語ウイキペディア)
ピリッポス1世はイリュリアの侵入を数回撃退したが、最後に戦死した。彼は勇敢で賢い王だった。幼い息子アエロポスが次の王になった。
第4代アエロポス1世の時代に、トラキア人やイリュリア人が攻めてきて、マケドニアは敗北した。マケドニアの人々は絶望し、戦争の際王が戦場にいれば、兵士たちは勇気を持って戦うだろう、と考えた。これが実行され、幼い王が戦場に現れると、マケドニア軍は粘り強く戦い、トラキア兵もイリュリア兵も逃げ出した。アエロポスは暇な時に、机を作ったり、卓上ランプを制作した、とプルタークは書いている。
第5代アルケタスについては、次のように書かれている。
アルケタスはアエロポス1世の息子である。彼はもの静かで、落ち着いた性格の王であり、平和な手段によって領土を維持した。アルケタスは領土拡張のための戦争をしなかった。
第6代アミュンタス1世については、やや詳しく書かれている。
アミュンタス1世は紀元前512年から498年まで統治した。彼以前の王たちについては、出来事がほとんど知られておらず、アミュンタス1世は確実な知識を得ることができる最初の王である。アミュンタス1世は第5代アルケタスの息子である。
紀元前513年、最初のペルシャ戦争が起きて、翌年ダリウス1世はアナトリアに帰り、彼に代わって、ダリウスの従兄弟のメガバズスが戦争を続けた。メガバズスはトラキアを西に進み、ストゥルマ川の流域に侵入した。ストゥルマ川は、現在のブルガリアの首都ソフィアから南に向かって流れ、ハルキディキ半島の付け根〈トラキア側)で海に出る川である。ペルシャ軍はパイオネス人を服従させ、彼らをアナトリアに移住させた。パイオネス人はストゥルマ川以外西の広い地域を支配しており、権力の空白が生まれた。このチャンスをとらえ、アミュンタス1世はアクシオス川を超えて、ミグドニアの西端のテルマ湾沿岸部を獲得した。
以上が、マケドニアの原初の領土と、最初の6人の王について知られていることである。
最後に、マケドニア人が自分たちはアルゴスの市民の子孫と主張していることについて、付け加える。
ペロポネソス半島の北東にあるアルゴスはサロニカ湾に面している。昔、アルゴスにはミュケーネの軍事拠点があった。ミュケーネの王アガメムノンの息子オレステスは母を殺し、イリュリアの東方に逃げた。彼の子孫がそこに住み、町となり、アルゴス・オレスティコ(オレステスのアルゴス)と呼ばれた。この町はリュンケスティス族の領土の少し北にある。マケドニア人は、アルゴス・オレスティコの由来をヒントに、自分たちの先祖はアルゴス人だと主張したのかもしれない。。アルゴス・オレスティコが拡大してマケドニアになった、とマケドニア人は述べていない。

ペルディカス2世について書いた後、脱線し、マケドニアの最初の6人の王について書いたが、 本線に戻り、ペルディカス2世以後の王たちについて書きたい。


       【アルケラオス1世:在位 前413-399年】
ペルディカス2世の死後、ペルディカスの長男アルケラオスが彼の後を継いだ。アルケラオスは有能な支配者として知られ、軍事と通商において大胆な改革を実行した。彼の時代にマケドニアは強い国になった。
アルケラオスの就任直後、ある事件が起きて、彼は敵国アテネとの関係を改善した。半世紀の間、アテネはマケドニアにとって脅威だったが、アルケラオスはアテネと友好的な関係を築いた。前413年の終わりごろ、シチリア島のシラキュースの戦いで、アテネは敗北し、ほとんどの船が破壊された。シチリアは海洋帝国アテネの墓場となった。アテネはこれ以後も戦い続けたが、流れを変えることはできず、10年後の紀元前404年、ペロポネソス戦争は終了した。シチリア戦争で敗北後、アテネは艦隊を再建するため大量の木材が必要となり、アルケラオスはアテネに木材を売った。アテネはアルケラオスと彼の息子たちを「アテネの代弁者」と呼んだ。

アルケラオスは純度の高い硬貨を大量に発行し、経済発展の基礎を築いた。また要塞を築き、直線の道路を敷いた。直線の道路は軍隊の移動を早め、人や物品の移動にも役立った。
アルケラオスは軍事と経済の基礎を築いただけでなく、文化の発展にも貢献した。彼は中央ギリシャの芸術を幅広く取り入れた。詩人や悲劇作家をマケドニアに招いた。彼が招いた悲劇作家の中に、アガトンやエウリピデスがいた。エウリピデスはマケドニアに滞在中に「アルケラオス」や「バッカイ」を書いた。


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