サドル家とハキーム家はナジャフのシーア派の名門である。サドル家のバーキルとハキーム家のバーキルは1960年代の政治的イスラム運動の中心的な人物として、互いに協力し合った。政治的イスラムが世界的な注目を集めるのは、1979年のイラン革命以後であり、1960年代は無名だった。
2人のバーキルはイラク最初のイスラム政党ダアワ党の拡大に貢献した。
サドル家のバーキルは、政治的イスラムの思想家である。彼の著作はイスラム原理主義運動の理論書となっており、バーキルは教祖的存在である。
1980年のバーキル・サドルの死後、もう一人のバーキル、ハキーム家のバーキルはイランに亡命し、テヘランでイスラム革命最高評議会を創設した。現在ダアワ党と並ぶ、シーア派の大政党になっている。さらにハキームは党の軍事部門としてバドル旅団を組織した。バドル旅団はバドル軍に成長し、現在イラク内務省軍と並ぶ軍事集団になっている。
まずサドル家の3人について書く。
<ムクタダ・サドル>
バーキル・サドルは1980年に死んだので、あまり知られていない。よく知られているのはムクタダ・サドルである。2003年のイラク戦争後、米軍を攻撃し、有名になった。イラク・アルカイダのザルカウィとマフディ軍を指揮したムクタダ・サドルの活躍は、フセインの逮捕以上に話題となった。
彼とイラク・アルカイダのザルカウィは戦後の混乱を深めた。2人は悪の権化のように米軍から憎まれた。
マフディ軍は「イラクの主権を守る」という立場から、米軍を攻撃した。「占領軍である米軍は主権をイラクに返し、できるだけ早く撤退すべきである」というのが、シーア派すべての一致した考えである。ムクタダ・サドルが例外的なのは、武力攻撃によって意思表示したことである。
マフディ軍はバース党残党の暴力からシーア派住民を守った。警察は消滅していた。占領当局があわてて警察官を復帰させたが、それらの警官は、しばしば殺害された。
シーア派住民の多数から尊敬されるシスターニ師と比較すると、ムクタダ・サドル師は小さな存在だったが、民衆に密着した活動によって、徐々に支持者を増やしていった。
(写真) iraqi news
2015年になってサドル師は、シーア派民兵に対し、スンニ派住民を殺害することを禁じている。彼はシーアとスンニの分裂が深まるのを、食い止めようとしている。
2015年4月6日、サドル師はイエメンの内戦がイラクに波及する危険を感じ、サウジアラビアとイランが和解することを求めた。「権力者どうしの争いによって、民衆が犠牲になってはならない」。
<サーディク・サドル>
ムクタダが属するサドル家は、シーア派法学の名門である。父のサーディク・サドルはシスターニと並ぶ大アヤトラであり、1990年代後半、ナジャフのシーア派最高学府の頂点に立っていた。
シーア派の聖地ナジャフ
(地図)wikipedia
サーディクは1999年、モスクから家に帰る途中、銃撃され、暗殺された。彼はフセイン政権に不服従の姿勢を示していたので、政権による暗殺と考えられた。
これに怒ったシーア派住民がナジャフとバグダッドで大暴動を起こした。政府は最精鋭の共和国特別防衛隊を送ってこれを鎮圧した。住民27人が死亡した。軍を指揮したのは、フセインの二男クサイである。
<天才思想家バーキル・サドル>
サーディクが暗殺される20年以上前に、サドル家の法学者が処刑されている。サーディクのいとこにあたるムハンマド・バーキル・サドルである。バーキルはイスラム世界有数の思想家であり、1950年代にイラク最初のイスラム政党の創設に関わった。ダアワ党の創設がいかに画期的な出来事であったか、山尾大が述べている。
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2003年のイラク戦争後、シーア派のイスラム政党が躍進した。それら諸政党の起源は1950年代に出現した一つの政党にたどることができる。それがダアワ党である。ダアワとは「呼びかけ」を意味する。
豊富なイスラム法の知識を有するバーキルは、ダアワ党の精神的指導者になった。バーキルの独創的なイスラム国家論はイスラム思想史に新たな時代を開き、彼の著「イスラム国家の力の源泉」は、以後の政治的イスラムの教科書となった。ホメイニ師の「法学者の統治」もバーキルの国家論から発展した。当時ホメイニ師はナジャフに亡命しており、ナジャフの法学者バーキルの影響下で自分の理論を発展させた。
(引用)山尾大 現代シーア派のイスラム国家論
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イスラム・ダアワ党は、現在に至るまでイラク最大のイスラム組織である。サダム政権崩壊後の4人の首相のうち、3人がダアワ党から出ている。
ナジャフのイマーム・アリ神殿内部 豪華な墓
(写真)wikipedia
<バーキル・ハキーム>
2003年、ハキームの死の直後、ガーディアン紙が彼の死について書いている。
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ハキームは一貫してサダム・フセインに反対する立場をとった。
2003年8月29日、ハキームは自動車爆弾によって死亡した。イラクの統一の必要を訴える説教を終えてイマーム・アリ・モスクを出た時、自動車爆弾が破裂した。大きな爆発で75人が巻き添えになった。
ハキームは最大の反政府勢力である革命最高会議の指導者であった。ハキーム家はイラクのシーア派の間で最も高名で、尊敬されれる家系であり、シーア派に対する影響力は絶大である。イラク国民の60%がシーア派である。
20003年5月12日ハキームは亡命地テヘランからイラクに戻った。1980年にイランに亡命したので、23年間の亡命生活だった。亡命から帰国した革命の指導者という点で、イラン革命の指導者であるホメイニ師と共通している。ホメイニ師はイラクのナジャフで12年間亡命生活を送り、1979年パリ経由でイランに帰った。
帰国したハキームは、14年前のホメイニ師がそうであったように、ナジャフの民衆から熱烈な歓迎を受けた。 新政権の中心的人物となることを期待されたのである。
[亡命以前]
ハキームは1939年、ナジャフに生まれた。父は高位の法学者だった。ハキームはシーア派イマームとして伝統的な教育を受けた。
1960年代、ハキームはダアワ党に参加し、バーキル・サドルと共に政治的イスラム運動の中心的存在になった。1980年のバーキル・サドルの死まで、2人は緊密に協力しあった。
ハキームは過激な原理主義者ではなかったが、シーア派の立場を熱心に擁護したので、バース党政権からは危険人物とみなされた。
1970年代、バース党政権はシーア派法学者の政治グループの弾圧を開始した。1972年、ハキームは思想的理由で逮捕され、拷問を受けた。彼の5人の兄弟と10数名の親戚がフセイン政権によって殺害された。
1977年、ナジャフの反乱の責任を問われ、ハキームは再び逮捕され、終身刑の判決を受けた。2年後の1979年7月、ハキームは減刑され、釈放された。減刑の理由は、彼が民衆の間で非常に人気があったからである。
1980年、ダアワ党の思想家バーキル・サドルが政権によって殺害された。ハキームは前科があるので、自分も危ないと判断し、イランに亡命した。
イランでは前年革命が起き、シーア派のホメイニ師が最高権力者となっていた。ハキームがイランに亡命した1980年、イラン・イラク戦争が既に始まっていた。ハキームは敵国に亡命したのである。残酷な戦争は1988年まで続き、8年戦争と呼ばれる。
[テヘラン時代]
亡命前ハキームが所属していたダアワ党は、テロ集団となっており、政府の人間に対して襲撃をくりかえしていた。指導層は、保守的な法学者たちである。
亡命地のテヘランで、ハキームはイラン・イスラム共和国によって安全を保障され、イラクのバース党政権に対し、公然の敵となった。
ハキームはダアワ党を含むシーア派をまとめて、イスラム革命最高評議会を創設した。党の名前が示すように、フセイン政権を倒し、イスラム法学者による統治を実現することを目的としている。
イランとの戦争が始まると、フセイン政権はシーア派に対する不信感を強めた。シーア派政党は敵国イランと通じている、と疑ったのである。シーア派の政治団体に対する弾圧はさらに厳しくなった。
逮捕を逃れて、多くのシーア派がイランに亡命した。ハキームは彼らを組織化した。
ハキームがイラクのバース党政権打倒を目的とする政党を組織したことを、フセインが黙って見過ごすはずがなかった。1983年、フセイン政権は亡命せずイラクに残っていたハキーム一族125人を逮捕し、この中の18人を処刑した。
このことはフセイン政権に対するハキームの敵対心をさらに強めた。革命最高評議会はイランの援助を得て、武装集団を組織した。これがバドル旅団である。武装グループは、イラク国内の地下組織と密かに連絡を取り、イラクの施設を定期的に襲撃した。イラクにとって、これは、戦争相手国イランのゲリラ部隊に襲撃されるに等しかった。バドル軍はイラン軍の別動隊となり、イラク軍と戦った。
1991年、湾岸戦争の直後、ハキームはブッシュ米大統領の裏切りに怒った。父ブッシュは、フセイン政権に対するシーア派の反乱を支援するそぶりを見せながら、いざという時に知らんふりをした。反乱したシーア派は、共和国防衛隊のなすがままになり、戦闘というより、一方的な虐殺になった。犠牲者は数万人と言われている。
1990年代の後半、ダアワ党は革命最高評議会から距離を置くようになった。革命最高評議会はイランの影響を受けすぎており、イランの原理主義的な指導者ハメネイ師の支配下にあると考えたからである。
[帰国後の4か月]
5月12日にナジャフに帰ってから、たった4か月後の8月29日、ハキームは殺害された。今になってみれば、ハキームの生命が脅かされていたことは明白だ。というのは、ハキームを支持する群衆の中に、ムクタダ・サドル師の支持者が紛れ込んでいたからである。29歳のムクタダ・サドル師は、バグダードの貧しい地区の過激派に支持されている。彼らサドル派の考えによれば、「外国帰りの亡命者がシーア派を代表する資格はない」。
ハキームのような亡命帰りの指導者たちは若い世代をひきつけ、古くからの国内派にとって脅威となっている。少し前、ハキームの叔父に対する暗殺が未遂に終わったが、実行犯はサドル派の人間と噂されている。
シーア派内部に亀裂が生まれている。4か月前に、別の法学者が殺害されていた。ハキームと同じく、ホーイ師も亡命帰りの法学者である。サダム政権崩壊直後の2003年4月12日、ナジャフのモスクで、ホーイ師はライバルの党派によって、めった切りにされて死亡した。モスクで法学者を殺害することなど、過去には想像もできないことだった。
ハキームは米国がイラクを支配することに反対した。6月彼は不吉な発言をした。
「米国は、解放者としてイラクに来たと自らの正当性を主張する。しかし今や、彼らは占領軍である。イラク国民の忍耐が限界に達したら、地方的な反乱が起きるだろう」。
しかし威嚇的ともとれる発言とは裏腹に、ハキームは米軍に対して武器を取らないよう、支持者を戒めた。ハキームは巧妙な現実主義の政治家だった。弟のアブドゥルアジーズ・ハキームを統治評議会に参加させた。米軍が選任した統治評議会は国民を代表していないと批判された。しかし終戦直後は占領軍に全権があるのが当然である。米国はとりあえず、臨時のイラク側代表を選定した。
ハキームのイスラム革命最高評議会が統治評議会に参加することは、驚くべきことである。統治評議会のメンバーとなったアブドゥルアジーズは、バドル旅団の最高責任者である。バドル旅団の本部はイランにある。
イラク戦争中、ラムズフェルド国防長官はバドル旅団に対し、イラクに侵入しないよう警告した。バドル旅団がイラクに入ることは、イラン軍がイラクに入ることに他ならない。
ハキームとは対照的に、ムクタダ・サドルは言行一致であり、占領軍による統治を否定し、米国の操り人形にすぎない「統治評議会」を拒否した。
バーキル・ハキーム
(写真)global security org
ハキームはまれにみる人間的な魅力の持ち主である。由緒あるサイード家の黒ターバンで頭を包みながら、しばしば、いたずらっぽい子供のような笑顔を見せる。つらい経験をした人間の笑顔とは思えない。彼の兄弟は殺害され、彼自身は拷問を受け、牢獄に入れられた。ハキームが属するサイード家はムハンマドの子孫であり、格式が高い。
(原文)Lawrence Joffe:Ayatollah Mohammad Baqir al-Hakim
貼り付け元 <http://www.theguardian.com/news/2003/aug/30/guardianobituaries.iraq>
[亡命以前]と [テヘラン時代]はウイキペディア英語版によって補足した。
貼り付け元 <https://en.wikipedia.org/wiki/Mohammad_Baqir_al-Hakim>
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