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ロムルス②

2020-02-06 15:40:07 | ウクライナ

ローマの最初の戦争は、近隣の村の女性を略奪したことが原因で起きた。ローマは3つの村に簡単に勝利した。カペーナはラテン人の集落でがあり、アンテナとクルストゥメリウムはサビーネ人の村である。 ローマに対する怒りと戦意の程度が異なっていたため、ラテン人のやはりカペーナが単独でローマに挑み、敗れた。
次にアンテナがやはり単独で戦争し、敗れた。カペーナとアンテナが敗れ、クルストゥメリウムは戦意を喪失していたが、敢えて戦争をし、開戦間もなく降伏した。3つの村との戦争といっても、ローマがカペーナに勝利した時点で、この戦争の勝敗は決定した.次にクレスとの戦争になった。サビーネ人の町クレスはサビーネ人地域西部で最大の集落であり、アニオ川流域にまで支配が及んでいた。ローマが略奪した女性の大部分は3つの村の女性であり、クレスの女性は少なかった。しかしクレスは威信を傷つけられたのであり、またローマはクレスの影響圏で大胆な無法行為(=女性の略奪)をし、戦争までした。クレスはローマを罰するために戦争を始めた。ローマにとってクレスとの戦いは困難になると予想されたが、開戦間もなく、略奪された女性が両軍の間に割って入り、戦争をやめるよう懇願した。略奪婚ではあったが、彼女たちは夫を愛するようになっていた。最初の戦争と異なり、今度の戦争は両軍から多数の戦死者が出ると予想され、夫や父を失うことを恐れた。こうして和戦争が中止され、ローマとクレスの間に友好関係が成立した。多くのサビーネ人がローマに移住し、ローマの人口が増えた。

====《リヴィウスのローマ史 第1巻14ー15章》====
  Titus Livius (Livy), The History of Rome, Book 1
            Canon Roberts

ローマとフィデナエとの間で戦争が始まった。フィデナエはアニオ川の少し北にあり、ローマに近かった。成立間もないローマが急に成長していることに、フィデナエの人々は不安になった。ローマが強力になる前にたたいてしまおう、と彼らは考えた。フィデナエの武装集団が、ローマとフィデナエの中間地帯に侵入し、略奪した。略彼らは徐々に南下し、ローマに近い地域を略奪するようになった。領地の略奪は戦争行為だった。またフィデナエの武装集団はローマに向かって進撃してくることもあった。実際に攻撃をすることはなかったが、明らかにローマを挑発していた。
ローマに対する挑戦が明白だったので、ロムルスはフィデナエとの戦争を決意した。彼は兵士を連れて出陣し、フィデナエから1マイル(1.6km)のところに陣地を設けた。そこに少数の守備隊を残し、全軍を率いてフィデナエに向かった。ロムルスは一部の兵を茂みの中で待ち伏せさせたうえで、歩兵の主力と騎兵率いて前進した。騎兵がフィデナエの城門の前まで進み、気勢を上げ、相手を威嚇したので、フィデナエ兵は挑発に乗って門から出てきた。騎兵は逃げ、歩兵も後退した。ローマ騎兵は再び敵を挑発し、フィデナエ兵が追いかけてくると、また逃げたく。これをくり返していると、フィデナエ兵は罠ではないかと疑い始めたようなので、ローマ兵は敵を欺き続けるため、一斉に全力で逃げた。すると場内に残っていたフィデナエ軍本隊が門から出てきて、ローマ軍を追撃した。ローマ兵はまとまりを失って逃げた。フィデナエ軍はローマ兵を追いかけているうちに茂みに達した。隠れていたローマ兵が茂みからとび出し、フィデナエ兵を側面から攻撃した。フィデナエ兵は驚き、一瞬ひるんだ。その時フィデナエから1マイル離れったローマ軍の陣地に残っていた兵が攻撃に加わった。四方から急襲されたフィデナエ兵は恐ろしくなり、フィデナエに向かって逃げた。ロムルスは兵を集めて戦陣を立て直しており、フィデナエ兵を追撃した。逃げるふりをしたローマ兵と違い、フィデナエ兵は本気で逃げたので足が速く、ローマ兵は城門の前でやっと追いついた。フィデナエ兵とローマ兵は入り乱れて城内に入った。ローマはフィデナエに勝利した。
ローマがフィデナエに勝利したことはウェイイを刺激した。フィデナエの住民はエトルリア人でありウェイイと同族である。両者は血によって結ばれており、どちらもローマに近く、ローマの侵略に対し協力して抵抗するつもりでいた。フィデナエの敗北後、ウェイイはローマので領地に侵入したが、略奪した物を持ち帰っただけであり、ローマとの戦争を期して陣地を設営することはなかった。ローマ軍は戦うつもりで出動したが、敵の姿がなかったので、テベレ川を越えて、ウェイイに向かった。ローマ軍が陣地を設営し、戦う準備を始めたので、ウェイイも戦争を決意した。ウェイイはろう城せず、撃って出ることにした。決戦の結果ローマが勝利した。ロムルスが特別な作戦をしたわけでなく、ローマ兵は戦闘経験があり、強かった。ウェイイ兵は退散し、ローマ軍は彼らをを壁まで追いかけた。ウェイイの城壁は堅固だったので、ロムルスは攻城をあきらめた。退却する際、彼はウェイイの農地を略奪した。農産物を獲得するためというより、復讐するためだった。
ウェイイは戦闘に敗れ、農地を荒らされ、意気消沈し、ローマに和平を求めた。ウェイイの領土をローマに譲るという条件で100年を期限とする友好条約が結ばれた。
以上がロムルスの実績である。祖父をアルバ・ロンガの王に復位させた時は、彼は勇気があり、ローマの建設において賢明だった。彼の統治時代にローマ時は強力になり、彼の死後もローマは安定していた。ロムルスは貴族より民衆に愛され、兵士からは尊敬された。戦時だけでなく平時においても、300人の護衛兵が彼を守った。彼はこの護衛兵をチェレレス(機敏な人々)と呼んだ。ロムルスの護衛兵チェレレス(Celeres)は、ロムルス以後の歴代の王(7人)に受け継がれ、共和制初期の紀元前509年に廃止された。しかしほどなく独裁官の制度が生まれると(紀元前501年)、独裁官直属の騎兵隊として復活した。皇帝時代になるとこれらの護衛兵は「近衛兵」として制度化され、元老院と並ぶキング・メイカーとして大きな権力を待った。
王政時代の護衛兵チェレレスは300人からなり、ローマの30の地区(クリア:Curiae)から10人ずつ集められた。彼らは貴族から選ばれ、忠誠心があり、勇敢だった。ローマの詩人オヴィディウス(紀元前43年-紀元後17年)によれば、チェレレスは最初一人だであり、城壁の守備隊の隊長だった。ロムルスの双子の兄弟を殺したのはロムルス自身ではなく、守備隊の隊長だった。リヴィウスはチェレレスの人数を300人としているが、最初は一人だったかもしれない。
ローマの王は馬に乗って移動し、戦時には馬乗で指揮するので、護衛兵は騎兵だった。300人の護衛兵の隊長は戦場において国王の副官であり、平時においては侍従長だった。国王が不在の時は彼が代理を務めた。護衛兵は騎兵に特化していたわけでなく、地形が乗馬に不適な場合、護衛兵はすぐに歩兵として戦った。
ロムルスの業績について最も注目すべきは次の点である。
ローマの建国に際し、すでに存在するラテン人の集落からの支援がなく、人が集まらなかった。普通ならあきらめるしかないような状況でロムルスは強行した。ロムルスと彼の回りに集まった少数の男性集団は現実無視の目的遂行型だった。彼らはなりふり構わず人を集めたが、近隣の集落の貧民や落ちこぼれが多く、男性だけであり、あいかわらずローマに女性はいなかった。社会の底辺の人々が集まったことは、戦争においてローマ軍を強くしたのかもしれない。ロムルスの時代、ローマは3つの村との戦争に勝利し、裕福な都市ウエィイに勝利した。戦争に強い村は高く評価されたので、当初存立が危ぶまれたローマはひとまず安定した。
ローマの建設に貢献したロムルスだが、暗殺されたようである。彼は兵士の行進を見学している時に死んだ。ロムルスのすぐ近くにいた元老たちは「王は竜巻に飛ばされて消えた」と説明した。このような説明に納得する者は少なく、元老が王を殺したと考えるものが多かった。

======《リヴィウスのローマ史第1巻16章》=====


ロムルスは困難を乗り越え、ローマに安定をもたらしたが、マルスの野原(パラェィーノの丘の北西)で閲兵中に死んだ。
閲兵中に突然雷雨となり、真っ暗になった。雷雨が去り、視界が割る明るくなった時、ロムルスの姿はなかった。このように激しい雷雨は経験したことがなかったので、兵士たちは不安だったが、雷雨が去り明るくなったのでほっとした。彼らはロムルスがいないことに気づき、ロムルスのすぐ近くにいた元老たちに、ロムルスが消えた理由、を尋ねた。すると元老たちは答えた。「ロムルスは竜巻によって空高く舞い上がった」。兵士たちは元老の説明に半信半疑だった。彼らはロムルスを失ったことを悲しんだ。
兵士と閲兵に出席していた人々は、ロムルスを建国の父として祭ることにした。そして神となったロムルスがローマに幸運を与え、市民を守るよう祈った。
以上がロムルスの死についての話であるが、元老院の説明に納得しない人々がいたという説が伝わっている。「ロムルスは元老たちによって八つ裂きにされた」とささやかれたという。多くの市民がロムルスの死を悲しみ、元老たちの犯行ではないか、と考えた。大衆の中で反元老院の感情が高まってっているを知り、プロクルス・ユリウスは元老院で発言した。
「今朝建国の父の霊が私の前に現れて、ローマの人々に告げよと言った。『ローマは世界に君臨すべきだ。戦争の技術を磨き、武力でローマに対抗できる国はないことを世界に知らしめよ』」。
元老院は彼の発言に賛同した。兵士も市民もロムルスの不滅を信じ、彼の死による悲しみが慰められた。

===============(リヴィウス終了)

ロムルスの項目の最後に、この時期の制度について繰り返しておく。
①ロムルスは100人で構成される元老院を創設した。適切な人物を選んだというよりも、この時期ローマには100の家族しかいなかったのである。
②ロムルスはローマを30の地区(クリア:Curiae)に区分した。30の地区は主要な30の家族に割り当てられたものである。


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