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アエクイ族ローマの郊外を略奪

2021-08-31 11:31:42 | 世界史

 

==《リヴィウスのローマ史第巻》=

Titus Livius   History of Rome

    Benjamin Oliver Foster

 

【1章】

 

ローマ軍がアンティウムを占領した年の翌年、ティトゥス・アエミリウスとクィンクティウス・ファビウスが執政官になった。ファビウス家の男子のほとんどがクリメラ川の戦いで戦死しており、クィンクティウスは唯一の生存者だった。アエミリウスは以前執政官だった時に、平民への土地の分配を提唱した。彼が二度目の執政官になると、土地法の制定を望む人々の期待が高まった。これまで何度も失敗してきたが、今度は何より執政官の一人が土地法の支持者なので、必ず成功するだろう、と護民官たちは自信を持ってこの問題を取り上げた。もちろん執政官の考えは変わっていなかった。貴族の多くが土地を占有していた。彼らはアエミリウスに不平を述べた。「国家の最高官が護民官のやり方を採用している。彼は他人の所有物を与えることで人気を得ている」。

今や貴族は護民官ではなく執政官アエミリウスを憎むようになった。深刻な争いに発展するところだったが、ファビウスが両方にとって受け入れ可能な提案をしたので、争いの火を鎮めることができた。前年ローマはT.....・クィンクティウスの優れた戦争指導によりヴォルスキ族から広大な土地を手に入れ、アンティウムに植民地を建設することが可能になった。アンティウムは港湾都市であり、ローマから遠くなかったので、植民地に適していた。平民は国家の新しい土地に入植を許され、すでに土地を所有している者に損害を与えることもない。これによって対立は解消され、国家は調和を取り戻すだろう。この提案は採用され、ファビウスは土地の分配をT.....・クィンクティウス、A.....・ヴェルギニウス、P.....・フリウスの三人に委任した。土地を受け取りたい者は名前を言うように、と命令された。いつものように土地が広すぎて、多くの者は欲しがらず、申し込んだ者が少なかった。植民者の数が足りなかったので、ヴォルスキ人を植民者に加えた。ほとんどの人は他国の土地ではなく、ローマの土地を欲しがった。

執政官ファビウスがアエクイ族に対し軍を進めると、アエクイ族は和平を求めた。しかしアエクイ族は誓いを破り、ラテン人の土地に侵入した。

 

【2章】

翌年の執政官はQ.....・セルヴィリウスとSp.....・ポストゥミウスだった。セルヴィリウスはアエクイ軍に向って軍を進め、ラテン人の土地に陣を敷き、周囲に塹壕を掘った。しかしローマの陣地内で疫病が発生し、ローマ軍は戦闘できる状態ではなかった。

戦争は長引き、3年目となり、クィンクティウス・ファビウスとT.....・クィンクティウスが執政官になった。戦争の最初の年クィンクティウス・ファビウスがアエクイ軍に勝利した時、和平と引き換えに、アエクイ族はローマ軍の行動の自由を認めるという特別命令を出していた。ファビウスは自分の名声によりアエクイ族を平和に向かわせることができると確信していた。彼は使節をアエクイの国家会議に送り、次のように伝えた。

「前回私は諸君と平和を達成してローマに帰ったが、今回戦争をするために戻ってきた。前回諸君に平和の約束をした私の右手は現在武器を持っている。誓いを破り再び戦争を起こした背信行為を、神々は見ており、時間をおかず復讐するだろう」。

使者が伝えた言葉は宣戦布告に等しかったが、ファビウスは「アエクイ族が自ら反省し、敵によって懲らしめられるのを避けるだろう」と期待していた。もしアエクイ族が反省するなら、ファビウスの寛大の措置を期待できた。彼らはマリウスの寛大さを知っていた。しかし彼らがあくまで背信行為に走るなら、地上の敵ではなく、怒れる神々と戦うことになるだろう。しかしヴォルスキ族は使節が伝えた言葉に耳を貸さず、ローマの使節は身の危険を感じ、慌てて逃げ帰った。ヴォルスキ軍がローマに進軍し、アルギドゥス山(ローマの南東20km、アルバ湖の東側の丘)に至った。これを知ったローマの人々は戦争を恐れず、アエクイ族に対し怒った。もう一人の執政官が急いで軍隊を率いて出発した。既にファビウスの軍が出陣しており、ローマの2つの部隊が隊列を組んでアエクイ軍に向かって進んた。しかしもはや夕暮れが迫っており、敵の前哨兵がローマ兵に向かって叫んだ。「夕日の中の戦闘は絵になるかもしれないが、実際の戦闘には不向きだ。戦陣を組んだ頃には、夜だ。戦闘には明るさが必要だ。明るくなってから闘おう。慌てなくてもよい、明日存分に闘おう」。

調子のいいことを言ってから、アエクイ軍は自分たちの陣地に引き上げていった。戦いは明日になったので、アエクイ兵はその夜ゆっくり休もうと思った。陣地に戻ると、彼らは食事をして疲れを癒してから、眠った。夜が明けると、ローマ軍の戦列のほうが少し早く整った。やっとアエクイ軍の戦列が前進し始めた。どちらの兵士も激しく戦った。ローマ兵は怒っており、荒々しかった。アエクイ兵は自分たちの思慮のなさが戦争を招いたと自覚しており、休戦もないとわかっていたので、死に物狂いで戦った。アエクイ軍はローマ軍に押され、踏み留まれず、敗北した。彼らはアエクイの土地まで逃げていったが、アエクイの兵士は士気を失っておらず、少しも和平を望んでいなかった。彼らは将軍を批判し、「一回の正面戦に全てを賭けたのは誤りだった」と述べた。「ローマ軍は正面戦に強く、我々が得意なのは徹底的な略奪と襲撃だ。多くの小隊に分かれて、あらゆる方向に向かって行動したほうが、一つの大きな集団として闘うより、我々は成功するのだ」。

 

【3章】

アエクイの兵士たちの意見が採用され、彼らは守備兵だけを陣地に残し、出撃した。アエクイ兵はローマ領で大規模な略奪をし、ローマの城壁まで至った。郊外のローマ市民は予想していなかった敵の襲来に驚いた。ローマ軍に敗れ、陣地を包囲された敵がこのように大胆な襲撃と略奪を敢行したからである。恐怖にとらわれた農民がローマの市門に押し寄せ、素朴な調子であれこれ誇張した。

「連中の目的はただの略奪ではない。少数の兵士ではなく、敵の軍隊全部が近くまで来ていて、ローマを攻撃しようとしている」。最初の報告者の近くにいた者

がこれを聞いて、別の人に伝え、話が誇張され、しまいには嘘になった。人々が走り回って大騒ぎになり、「武器を取れ!」と叫ぶと、まるでローマが占領されたかのように、人々は恐慌状態になった。運よく執政官クィンクティウスがアルギドゥス山から帰って来たので、市民は安心した。執政官は市民の不安をなだめ、敗北した敵を恐れるとは何事か、とたしなめた。そして彼は城門を守備する兵士を配置してから、元老院を招集した。元老院の権威により、市民の日常生活が停止された。それから執政官は国境の防衛に出かけた。もう一人の執政官セルヴィリウスは市内に残り、知事の任に当たった。執政官クィンクティウスが国境に到着すると、敵の姿はなかった。というのは、もう一人の執政官セルヴィリウスが敵の討伐に成功したからである。敵がどの道を通って来るかを確かめてから、セルヴィリウスはそれぞれのグループを攻撃した。アエクイ兵は略奪品を抱え動きが鈍かった。彼らの略奪遠征は失敗に終わった。逃げることができた者はほとんどいなかった。ローマは略奪品を取り戻した。

クィンクティウスがローマに帰ってきて、日常生活が再開された。戒厳令は4日間で終わった。未亡人と孤児の人数が数えられ、それぞれ、100人と4714人と発表された。その後アエクイ族は話題にならなかった。彼らはそれぞれの町に帰り、自分の屋敷で射撃やたき火を見て暮らした。

一方執政官は敵の地域に広範囲に繰り返し遠征し、破壊して回り、略奪品をローマに持ち帰り、人々に称賛された。

 

 

【4章】

次の執政官はポストゥミウス・アルブスとフリウス・フススだった。何人かの著者はフリウスをフシウスとしている。私がこれを述べるのは、フリウスとフシウスを別人と誤解しないためである。それはともかく、どちらかの執政官がアエクイとの戦争を継続したことは確かである。アエクイはエケトラ(場所不明)のヴォルスキ人に使者を送り、応援を求めた。両者はどちらもローマの敵であり、競ってローマに勝利しようとしていた。ヴォルスキは援軍を約束し、熱心に戦争の準備を始めた。ヘルニキ族がエケトラの戦争準備に気づき、エケトラの町がアエクイに反乱したとローマに伝えた。アンティウムのローマ人植民者が不穏な動きをした。またアンティウムの亡命者がアエクイ側で参戦した。ローマがアンティウムを占領した時、多くの住民がアエクイ族のもとに亡命した。彼らはこの戦争で最も勇敢に戦った。

アエクイ軍が城壁で守られた町々に逃げ込むと、アンティウムの亡命人部隊はアンティウムに帰った。彼らはローマ人植民者が本国に不満を持っているのに気づいた。そして彼らはローマの植民者を離反させるのに成功した。アンティウムの反乱が起きる直前、反乱が起きようとしているという情報が元老院に届いた。元老院の命令により、執政官はアンティウムの植民者の指導的な人物をローマに呼び出し、現地の状況を説明させることにした。彼らは召還に応じた。執政官に導かれ、彼らが元老院に入ると、元老たちが質問した。植民者の代表の返事に元老たちは納得せず、疑いを深めた。植民者代表が帰った時、来た時より彼らに対する疑いが強まった。戦争が必須となり、執政官フリウスが戦争を指揮することになった。ローマ軍はアエクイと戦うために出発した。アエクイ兵はヘルニキ族の土地を荒らしていた。アエクイ兵は広く散らばって略奪していたので、彼らの総人数は分からなかった。フリウスはとりあえず出会いがしらのグループを攻撃することにした。この戦闘で、ローマ軍は敗北し、自分の陣地に逃げ込んだ。しかし彼らの陣地も安全ではなかった。その晩から翌日にかけて、ローマの陣地は総攻撃を受け、彼らは使者をローマに派遣することもできなかった。ローマ軍が敗北し、執政官と兵士が追い詰められているという情報を、ヘルニキ族がローマに伝えた。元老院は衝撃を受け、最も緊急な場合にのみ使用される特別な形式で命令を出した。命令は「執政官ポストゥミウスは市民の安全を守る施策をするように」というものだった。ポストゥミウスはローマに留まり、武器を持つことができる者全員を徴兵するべきだと考えた。一方クィンクティウスは執政官の代理として同盟国の部隊を率いて、執政官フリウスの部隊の救援に向かった。同盟国の部隊はラテン人とヘルニキ族の兵士で構成されていた。また、アンティウムの植民者は促成部隊を派遣することになった。促成部隊とは急いで集められた、補助軍のことである。

 

【5章】

この数日間、数多くの戦闘と小競り合いがあった。兵士の数が多かったアエクイ軍は多くの地点からローマ軍を攻撃したため、ローマ軍はそれにいちいち対応しなければならず、消耗した。アエクイ兵の一部はローマ軍の陣地を攻撃する一方で、別の部隊はローマの領土を略奪した。それだけでなく、機会があれば、ローマを攻撃した。ヴァレリウスがローマの防衛を指揮しており、執政官ポストゥミウスは国境付近に向かい、略奪している敵を撃退した。ローマはあらゆる注意を払い、できる限りのことをした。市内には防衛部隊が配置され、市には警備兵が門を守り、城壁には老兵が置かれた。このような危急の状況において、数日間日常生活の停止が宣言された。ローマ軍の陣地では、包囲開始から数日間ローマ軍はじっとしていたが、執政官フリウスはデクマン門(陣地の正門の名前)から出撃を命じた。敵は驚いて逃げた。執政官フリウスは追いかけることもできたが、陣地の他の箇所が攻撃される危険があったので、追いかけなかった。しかし執政官の弟で、参謀将校のフリウスは夢中になって遠くまで敵を追いかけた。部下の兵士たちは引き返したので、敵兵が彼を追いかけていることに気づかなかった。自分が取り囲まれていることに気づき、彼はなんとか引き返そうとあれこれ試みたが、成功せず、打ち倒された。弟が敵の中で孤立したことを知り、執政官は救援に向かったが、激しい戦闘になり、負傷した。周囲のローマ兵たちが何とか執政官を救出した。敵は参謀将校を撃ち取り、執政官を負傷させたので、意気が上がった。彼らはローマ兵を攻めたて、ローマ兵は陣地に逃げ帰った。ローマ軍は再び包囲され、彼らは戦闘力と士気の双方において、アエクイ軍に及ばなかった。もはやローマ軍は敵の攻撃を抑止できず、最悪の結末を待つだけとなった。この時クィンクティウスが外国人部隊(ラテン人とヘルニキ族)を率いて到着した。アエクイ軍はローマ軍の参謀将校の首を誇らしげに掲げ、ローマの陣地を攻略しようと夢中になっていた。ローマの援軍は背後からアエクイ軍を攻撃した。攻撃開始と同時に、クィンクティウスは陣地のローマ軍に合図を送ったので、陣地のローマ軍が出撃し、アエクイの大部隊は包囲された。戦死または負傷したアエクイ兵は少なく、多くが散り散りになって逃げた。しかし彼らはローマ領内に留まり、各地で略奪を働いた。執政官ポストゥミウスは各地に分隊を派遣し、アエクイ兵を個々に攻撃した。アエクイ兵はバラバラの逃亡兵になった。ちょうどその時外国人救援部隊と負傷した執政官が率いるローマ軍が戻ってきて、逃げ回るアエクイ兵と出会った。執政官の部隊は敵兵に最後の一撃を加え、負傷した執政官と戦死した参謀、そして兵士たちの仇を討った。数日間の戦闘において、両軍とも多くの犠牲が出た。昔のことなので、戦闘に参加した兵士と戦死した兵士の正確な数はわからない。しかしアンティウムのヴァレリウスは敢えて正確な数字を記しており、ヘルニキ領で死んだローマ兵は5800としている。またローマ領を略奪し、ポストゥミウスによって殺されたアンティウム兵を2400としている。そして最後にローマの郊外を略奪していて、クィンクティウスのローマ軍と鉢合わせをして殺された兵士の数は非常に多く、4230だとしている。

ローマ軍が首都に帰還すると、市民の日常生活が停止された。空全体が真っ赤になり、他の不吉な予兆も現われた。また恐怖にとらわれた人々は、様々な予兆を見たと言ったが、そう思えただけかもしれない。国家の布告が出され、凶事が起きないように願って、神々の怒りをなだめる儀式を三日間おこなうことになった。市内のすべての神殿は男女の市民でいっぱいになり、彼らは神々の保護を願った。元老院はラテン人とヘルニキ族の大隊にローマへの貢献を感謝する伝言を送り、「戦争が終わったので、自国に帰ってもよい」と述べた。戦争が終わって到着したアンティウムの1000人の兵士は何の役にも立たず、軽蔑されて送り返された。

 


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