会員のカネコです。
以前、谷中霊園と青山霊園の改葬危機の墓所について取り上げました。
谷中霊園の改葬危機の墓所
青山霊園の改葬危機の墓所
さらに、その前には染井霊園の姫路藩主酒井忠績の墓所が改葬危機にあることも取り上げました。
撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓
今回は雑司ヶ谷霊園を取り上げます。
雑司ヶ谷霊園でも無縁となった墓所に改葬告知の札が立てられているのをよく見かけます。
その中の著名な家としては公家の澤伯爵家の墓所があります。
澤家は天武天皇皇子舎人親王の後裔で本姓は清原氏、江戸時代中期に舟橋庶流の伏原家より分家して一家を興しています。
幕末の当主澤為量は安政5年(1858年)養子宣嘉と廷臣八十八卿列参事件に加わって日米修好通商条約勅許に反対しています。宣嘉は「七卿落ち」の一人として長州へ落ち延び、生野の挙兵に参加するなど、尊王攘夷派の公卿として過激な活動をしています。維新後は外務卿となり、外交に関わりますが、明治6年(1873)ロシア公使に決まり、着任する直前に38歳で急逝し、小石川伝通院に葬られています。伝通院には宣嘉のみの墓碑があり、為量はじめ、澤伯爵家の人々は雑司ヶ谷霊園に葬られました。
宣嘉以降の澤伯爵家は複雑な家督相続をしていきます。
宣嘉の後、隠居していた養父為量が再相続し、宣嘉の養子として後継者と目された為量三男宣種は廃嫡となり、その後分家。宣種の養子となっていた宣嘉長男宣量が為量没後、家督相続しています。
『昭和新修華族家系大成』によると、この本が刊行された時点の当主名は空欄となっており、宣量には男女4名の子の記載があります。当主となった宣量長男宣武には妻子がなく、昭和41年(1966)に没しています。
無縁告知札には埋葬者として、宣量の子4名の名も記されており、宣量の子の代で澤伯爵家は絶えたことが窺われます。
現在立てられている告知札は平成30年12月28日に立てられており、額面通りで行けば、令和元年12月29日が期限となります。
これは今年の1月に撮影したものです。
こちらは最新の今月16日に撮影したものです。
尚、近くには宣嘉の二男宣元が分家して男爵となった澤男爵家の墓所もあり、こちらは無縁告知札は立てられておらず、祭祀が続いているようです。
『昭和新修華族家系大成』によると、2代宣一には娘2人がおり、他家に嫁いでいますが、そのご子孫によって祭祀が続けられているように思われます。
前述の通り、本家である伯爵家の家督相続が複雑であり、男爵家のご子孫とは世代も離れているため、男爵家の方が伯爵家の墓所を継承することは難しいように思います。
以前も書きましたが、幕末維新に活躍した人物の墓所といえども、あくまでご子孫の祭祀の場であり、ご子孫が絶えた場合は、その維持が難しくなります。
我々ができることとしては記録に残し、墓所が確かに存在したことを伝えるということになるかと思います。
大変厳しい現状ですが、澤伯爵家の墓所がご縁者によって維持されることを願っております。
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以前、谷中霊園と青山霊園の改葬危機の墓所について取り上げました。
谷中霊園の改葬危機の墓所
青山霊園の改葬危機の墓所
さらに、その前には染井霊園の姫路藩主酒井忠績の墓所が改葬危機にあることも取り上げました。
撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓
今回は雑司ヶ谷霊園を取り上げます。
雑司ヶ谷霊園でも無縁となった墓所に改葬告知の札が立てられているのをよく見かけます。
その中の著名な家としては公家の澤伯爵家の墓所があります。
澤家は天武天皇皇子舎人親王の後裔で本姓は清原氏、江戸時代中期に舟橋庶流の伏原家より分家して一家を興しています。
幕末の当主澤為量は安政5年(1858年)養子宣嘉と廷臣八十八卿列参事件に加わって日米修好通商条約勅許に反対しています。宣嘉は「七卿落ち」の一人として長州へ落ち延び、生野の挙兵に参加するなど、尊王攘夷派の公卿として過激な活動をしています。維新後は外務卿となり、外交に関わりますが、明治6年(1873)ロシア公使に決まり、着任する直前に38歳で急逝し、小石川伝通院に葬られています。伝通院には宣嘉のみの墓碑があり、為量はじめ、澤伯爵家の人々は雑司ヶ谷霊園に葬られました。
宣嘉以降の澤伯爵家は複雑な家督相続をしていきます。
宣嘉の後、隠居していた養父為量が再相続し、宣嘉の養子として後継者と目された為量三男宣種は廃嫡となり、その後分家。宣種の養子となっていた宣嘉長男宣量が為量没後、家督相続しています。
『昭和新修華族家系大成』によると、この本が刊行された時点の当主名は空欄となっており、宣量には男女4名の子の記載があります。当主となった宣量長男宣武には妻子がなく、昭和41年(1966)に没しています。
無縁告知札には埋葬者として、宣量の子4名の名も記されており、宣量の子の代で澤伯爵家は絶えたことが窺われます。
現在立てられている告知札は平成30年12月28日に立てられており、額面通りで行けば、令和元年12月29日が期限となります。
これは今年の1月に撮影したものです。
こちらは最新の今月16日に撮影したものです。
尚、近くには宣嘉の二男宣元が分家して男爵となった澤男爵家の墓所もあり、こちらは無縁告知札は立てられておらず、祭祀が続いているようです。
『昭和新修華族家系大成』によると、2代宣一には娘2人がおり、他家に嫁いでいますが、そのご子孫によって祭祀が続けられているように思われます。
前述の通り、本家である伯爵家の家督相続が複雑であり、男爵家のご子孫とは世代も離れているため、男爵家の方が伯爵家の墓所を継承することは難しいように思います。
以前も書きましたが、幕末維新に活躍した人物の墓所といえども、あくまでご子孫の祭祀の場であり、ご子孫が絶えた場合は、その維持が難しくなります。
我々ができることとしては記録に残し、墓所が確かに存在したことを伝えるということになるかと思います。
大変厳しい現状ですが、澤伯爵家の墓所がご縁者によって維持されることを願っております。
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