会員のカネコです。
改元を挟んだ10連休も本日で最終日です。
私はいろいろと雑務があり、あっという間の10日間でした。
ただ、平成から令和の代替わりの儀式を生中継でゆっくり見ることができ、皇室関連の番組も見れ、歴史に関わる者として、今動いている歴史を感じ、思いを巡らせることができたのは大きな収穫であったように思います。
さて、先日4月29日(月・祝)に国立公文書館や新井白石の墓所へ行ったことを書きましたが、さらにその後、青山霊園で1時間強ほど調査をしてきました。
以前調査したものの再確認が主でしたが、ライフワークである二本松出身者の人物の墓所を新たに1件見つけられたのが収穫でした。
霊園内を歩いていて気になったのが、無縁改葬告知の札です。以前も染井霊園の無縁改葬のことを書きましたが(撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓)、青山霊園でも無縁改葬告知の札が複数立っていました。
これは会津藩士で西南戦争時に陸軍中尉兼権大警部として出征した入江惟一郎の墓です。この墓の向かいにも入江家の墓数基がありますが、ここにも立札が立っていました。
当会会員の黒坂さんより以前情報を頂いたいた土佐藩出身の片岡男爵家と公家に堀河子爵家の墓所も見てきましたが、片岡男爵家は期限付きの立札、堀河子爵家は期限不記載の立札となっていました。
尚、堀河子爵家は岩倉具視の実家となります。
あと、これは無縁改葬ではなく、ご縁者による「墓じまい」となりますが、岡崎藩士で箱館戦争にも参戦し、後に丸善社長を務めた小柳津要人の墓が改葬され、林董と同じ立体埋葬施設に納められていました。
これは平成21年(2009)に撮影した小柳津要人の墓です。
以前も書きましたが、著名人の墓所とはいえ、ご子孫の祭祀の場である以上、ご子孫の事情によって墓所が変化することは仕方のないことだと思います。
平成31年の間でも日本人の生活様式、価値観は大きく変化していきました。
所謂「墓じまい」という言葉も最近聞かれるようになった言葉です。
令和の時代もまたそういった変化は続いていくと思います。
私個人の考えでは生活様式、価値観が変わっていくことは決して悪いことではなく、我々もそのような変化に柔軟に対応して、より良い社会になるべきだと思います。
その中で、歴史や伝統というものとどう向き合い、それに対して何ができるか?令和の時代を迎え、そのようなことを引き続き考えて行きたいと思っています。
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★5月11日(土)・12日(日)「ひの新選組まつり」『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行います
「ひの新選組まつり」にて『探墓巡礼 谷中編~箱館戦争関係人物を歩く~』の販売を行います
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ただ、平成から令和の代替わりの儀式を生中継でゆっくり見ることができ、皇室関連の番組も見れ、歴史に関わる者として、今動いている歴史を感じ、思いを巡らせることができたのは大きな収穫であったように思います。
さて、先日4月29日(月・祝)に国立公文書館や新井白石の墓所へ行ったことを書きましたが、さらにその後、青山霊園で1時間強ほど調査をしてきました。
以前調査したものの再確認が主でしたが、ライフワークである二本松出身者の人物の墓所を新たに1件見つけられたのが収穫でした。
霊園内を歩いていて気になったのが、無縁改葬告知の札です。以前も染井霊園の無縁改葬のことを書きましたが(撤去危機になっている江戸幕府最後の大老酒井忠績の墓)、青山霊園でも無縁改葬告知の札が複数立っていました。
これは会津藩士で西南戦争時に陸軍中尉兼権大警部として出征した入江惟一郎の墓です。この墓の向かいにも入江家の墓数基がありますが、ここにも立札が立っていました。
当会会員の黒坂さんより以前情報を頂いたいた土佐藩出身の片岡男爵家と公家に堀河子爵家の墓所も見てきましたが、片岡男爵家は期限付きの立札、堀河子爵家は期限不記載の立札となっていました。
尚、堀河子爵家は岩倉具視の実家となります。
あと、これは無縁改葬ではなく、ご縁者による「墓じまい」となりますが、岡崎藩士で箱館戦争にも参戦し、後に丸善社長を務めた小柳津要人の墓が改葬され、林董と同じ立体埋葬施設に納められていました。
これは平成21年(2009)に撮影した小柳津要人の墓です。
以前も書きましたが、著名人の墓所とはいえ、ご子孫の祭祀の場である以上、ご子孫の事情によって墓所が変化することは仕方のないことだと思います。
平成31年の間でも日本人の生活様式、価値観は大きく変化していきました。
所謂「墓じまい」という言葉も最近聞かれるようになった言葉です。
令和の時代もまたそういった変化は続いていくと思います。
私個人の考えでは生活様式、価値観が変わっていくことは決して悪いことではなく、我々もそのような変化に柔軟に対応して、より良い社会になるべきだと思います。
その中で、歴史や伝統というものとどう向き合い、それに対して何ができるか?令和の時代を迎え、そのようなことを引き続き考えて行きたいと思っています。
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当家の墓は青山霊園にあるのですが、近くに東京郵便電信学校同窓会建立のご夫婦と思われる墓があり、無縁改葬告知の立札が設置されていました。
余計なお世話だとは思いましたが、ネットで調べたところ逓信同窓会が後継団体だとわかり(ホームページ冒頭に記載あり)、メールにてお知らせしておきました。
後日返信が来ましたが、逓信同窓会は東京郵便電信学校同窓会とはまったく別団体であり、墓を承継する義務も無いし関係ないとの事でした。
当然といえば当然ですが、埋葬されているご夫婦はどのような所縁があった方なのか、等々考えちょっと切ない気持ちになりました。
ちなみに墓は暫くして撤去されてしまいました。
功績のある方のお墓を残したいという思いから、実際に行動されたことに大変感銘を受けました。
今回は残念な結果ではありますが、無縁改葬告知の立札が設置されたお墓でも、血縁者の方が出てきて、改葬を免れたこという事例もありますので、地道な行動が大切なのではないかと思いました。
昨今は、著名な人物といえども、無縁になっていれば生前の功績を考慮されずに改葬されてしまうケースが多くなってきましたので、記録だけでも残せないものかと思っています。
貴重なお話をお寄せ頂きありがとうございました。
最近になり祖母の祖父(=私の高祖父)が
旧二本松藩士だったかもしれないという
僅かな手がかりを掴み、あれこれ調べているうちに
こちらのページに辿り着きました。
少々長くなりますが、どうかお目通しください。
旧二本松藩士だった棚橋一郎氏の記事の後に
目にしたこちらのページの内容に
心臓が止まりそうになりました。
私の家族と江戸の昔から縁ある小柳津家のことが
彼らのいまの「 家 」のことが書かれていたからです。
不思議な出来事に導かれ、青山霊園にあった
小柳津家のお墓参りをしていたのですが
数年前に引っ越しをするとのことで
2017年11月が最後のお別れとなりました。
そのことは「 マルゼニアンの彰考往来 」という
私のページに記事として掲載しています。
以来、小柳津さんたちがどこにいってしまったのか
ずっとずっと気になっていましたが
おかげをもちまして家族同然に大切な人たちの
消息を掴むことができました。
カネコさん、本当にありがとうございます。
小柳津要人はその昔、忠義を貫き岡崎藩を脱藩。
旧幕府軍の一員として箱根・山崎の戦いから
箱館・五稜郭までを戦い抜いた人です。
最近になり、自分の古い家族も旧幕府軍とともに
戦った悲劇の二本松藩士だったかもしれないことに
気づき、懸命に調べているのですが
はっきりしたことがわからずにいます。
私の祖母の祖父は「 大沢要蔵 」といいます。
幕末に大目付だった黒田傳太氏の回想記にも
同じ名前が登場しているのですが
彼のことをなにかご存知ではないでしょうか。
奥御右筆(80石)だった大沢半右衛門の家族ではないかと思っているのですが
明治4年8月10日に亡くなった大沢半右衛門成相という人物から後に続く子どもたちのことがわかりません。
もしもなにかご存知でしたら、お教えいただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。
二本松藩士をお調べとのことで、私のライフワークと重なり、ご縁が出来て嬉しく思います。
私の手持ちの資料からお答えいたします。
明治5年の士族名簿に「大澤要蔵成功」の名がありました。「養父大沢半右衛門 養祖父大沢権治」とありますので、ご想定していた大沢半右衛門の一族で間違いありません。
明治4年正月26日に家督相続をしておりますので、養父半右衛門成相が亡くなる前に相続をしていたようです。
『二本松寺院物語』にも大沢家の記述があります。
成功は同じく二本松藩士の羽木郷介の二男、羽木権蔵貞守の弟で大沢家に養子に入っています。
養父成相、養祖父成強ともに書の達人で、成強は荒木流書道師範として弟子千余人がいたそうです。
成強も同じく二本松藩士槇忠次の三男で、槇家は丹羽家二代長重以来の家臣で、二本松藩士の中では比較的古くからの家臣です。
大沢家については「新家譜」(二本松市史5巻)に大沢六班成美という人物が記されおり、曽祖父武藤権右衛門の子権竹が大沢姓を称し、その子が成美の父大沢六班充性となっています。成美の代に出世し、80石を賜っています。成美と成強の関係は明確ではありませんが、同じ80石ですので、成美の養子が成強ではなかと思います。
大沢家の墓所は少林寺にあり、本堂左横に成強・成相の顕彰碑、裏山にある墓地中腹に墓所があります。『双松碑文集』に顕彰碑の銘文が載っています。
要蔵成功の実家羽木家の墓所は蓮華寺にあります。
一度、二本松に行かれてご先祖の墓参をされるとよろしいかと思います。
もしツイッターのアカウントをお持ちでしたら、当会のアカウントがございますので、DMを使って画像をお送りすることもできます。ご必要でしたらご相談ください。
「マルゼニアンの彰考往来」も拝見させていただきました。
丸善関係者を丹念にお調べになっており、大変なご労力をかけられている様子がうかがえ感銘を受けました。
小柳津要人は箱館戦争参戦者としての興味が強かったのですが、丸善での業績について大変勉強になりました。
今後ますますのご活躍を祈念いたします。
初めて投稿させていただきます。
本日(令和4年1月22日)、青山霊園立山地区を訪問したところ、米津子爵家の墓所に令和3年12月28日付けで無縁墳墓等改葬の立て札が立っていることを確認しましたのでお知らせいたします。
なお、墓石には当主としては長瀞藩主米津政明、子爵米津正敏、子爵米津政賢の3方が刻まれていますが、立て札によると、同家最後の爵位継承者である米津政福子爵も葬られていることがわかりました。
以上、ご報告まで。
乱文で申し訳ございません。
はじめまして。当ブログをご覧いただきありがとうございます。
青山霊園立山墓地の米津家墓所も無縁になっていたのですね。昨今は旧華族家といえども無縁改葬の危機に晒されている墓所が増えているようで、憂いは増すばかりです。
告知立札によって埋葬者を知ることができるのは不幸中の幸いとでも言うべきか、時折驚く情報があるものです。
また、このような情報がありましたらご教示いただけますと幸いに存じます。