探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

6月19日、26日 染井霊園

2010-07-01 01:56:48 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

秋の巡墓会の下見を兼ねて、事前調査に来ました。

最初は三菱関係者の一角にある新撰組山脇隼太郎の墓。(=写真)



旧桑名藩士で、維新(瓦解)後米国留学を経て三菱勤務。高島炭鉱事務長など要職を勤めました。

最近、父の薦めで山脇と高木剛次郎を主役にした『昭和を生きた新選組』(瀧澤中著、経済界)を読んでいただけに、感慨深いものがありました。

墓碑正面には「山脇正勝墓」と瓦解後の名が刻まれています。明治二十八年(1895)五月六日卒と左面にあります。
(一種イ4号15側)

だいぶ離れた場所にあるのは坪井信道ら三代ならびに坪井家之墓。(=写真は信道、信良の墓)



信道、号は誠軒。蘭方医で緒方洪庵、川本幸民らの師匠です。大鳥圭介、大村益次郎、福澤諭吉など緒方洪庵門下はよく紹介されますが、わが国蘭学の隆盛は実にこの坪井による貢献が大なのです。

その養子信良は越中高岡出身で将軍奥医師、その息子正五郎は人類学者となっています。
(一種イ8号6側)

また、今回偶然見つけた興味深い墓と、やっとの思いでたどり着いた墓が1つずつあります。

まずは偶然の方。陸羯南からの右側程近くにあった高島炭鉱技士 田嶋虎衛の墓。(=写真)



右隣にある母親の墓碑の裏面にある「高知県士族」の文字がたまたま目に留まり、碑面を追っていくと、明治5年(1872)土佐に生まれ同志社へ入って高島炭鉱へ。不幸なことに炭鉱のガス爆発により35歳で逝去した人物でした。

土佐出身で三菱系の人物の墓はこの染井霊園に多々ありますが、場所も全く離れたところにある三菱系の人物として、紹介 致します。
(一種イ8号4側)

さて、もうひと方は幕臣、浦賀奉行所与力にして瓦解後、海軍大尉になった香山永隆の墓。こちらはいくつかの文献に染井霊園にあることは書かれているのですが、何せ広い霊園内、場所の特定が容易ではありません。ローラー作戦で数時間廻り続け、やっとの思いで見つけました。(=写真左)



同じ敷地内に中島義生家累代之墓と書かれた墓があり、こちらは同じ浦賀奉行所与力中島三郎助の孫に当たる家で、元々香山家とは縁戚関係にあります。
(一種イ5号1側)

ここで悔しい話をひとつ--この霊園を探して未だたどり着けずにいるのが、高知市桂浜の坂本龍馬像を創った本山白雲の墓です。

高知県西部宿毛の出身で、靖国神社前の品川弥二郎像を高村光雲とともに作成した人物でもあります。

光雲ゆかりの人物だけにその近くを隈なく当たりましたが、未到達。どなたか教えていただけませんかというのも悔しいので、探索中ということにしておきましょう。
コメント (3)
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