探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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6月7日(1)祗園寺

2009-06-12 12:02:19 | 会員の調査報告
2日目、水戸市八幡町の祗園寺を訪ねました。筑波山挙兵を行った天狗党と敵対し、戊辰戦争を旧幕の立場で戦った諸生党を率いた市川三左衛門の墓があります。
前日、茨城県立歴史館で原市之進に関する講演会が開かれ、講演後にその講師の方から諸生党の墓地として同寺を教えていただきました。
行き方は、水戸駅北口7番乗り場から茨城大学行きのバスに乗り、茨城高校入口のバス停で下車、進行方向を右に曲がると山門が見えてきます。
祗園寺は、曹洞宗 寿昌山 祗園寺と称し、明の東皐心越禅師を開祖とし、徳川光圀により創建されました。住所は水戸市八幡町11-69であり、茨城高校・中学に隣接していて、墓域は山門をくぐって本堂手前を左手に入ったところにT字型に拡がっています。
墓域に向おうとする右手に高さ3mはある諸生党殉難碑が建っています。裏面には500名にも及ばんとする諸生党殉難者の氏名が刻まれていて、天狗党殉難者に勝るとも劣らない勢いです。遺族や歴史家などが顕彰に熱心のようで、殉難碑の左傍らに黒色で丁寧な解説碑に刻まれた賛同者も相当数にのぼっています。その石碑によると、新潟県の西山町や千葉県の八日市場にも諸生党記念碑があるそうです。
このお寺にあるお墓の目印は木柱ではなく、白いプレートの看板です。それを頼りに、洋画家の中村彝(つね)の墓(墓域中央)、朝比奈家の墓(本堂裏手)、市川三左衛門の墓(諸生党殉難碑を背に墓域の突き当たり)に向かいました。墓域は奥行きはそんなにありませんが、幅は100mを優に超えます。
朝比奈家の墓は、「朝比奈弥太郎墓」の看板に導かれて行きました。10基ほど墓碑があり、古くて読み取りづらいものが多く、その中にあって状態がよかったのが、立原翠軒撰書による城代朝比奈雲斎(右兵衛泰雄・号は道軒・父弥太郎)墓でした。墓碑によれば、戦国時代駿河の今川氏に仕えた朝比奈氏を発祥としていることなどが書かれ、興味深いものがありました。しかし、肝心の弥太郎の墓はよく判りませんでした。それも、あとで判ったことですが、初代水戸藩主徳川頼房に仕えた人物も弥太郎、幕末の諸生党も弥太郎で、諱が判らない限りどうにもなりません。雲斎墓は文化十一年建立ですから、代々弥太郎なのでしょう。
さて、やはりメインは市川三左衛門です。墓碑は風化が激しく、正面に「○○常莫大居士○霊」と戒名がほとんど読み取れない状態です。下には家紋のような葉の形が刻まれています。横面のない自然石で、裏面には何もありません。ただ、戒名の右上に「慶安二年」と書いてあるように読めます。そうすると本当に三左衛門の墓なのかどうか疑いが出てきます。
位置関係は三左衛門と思われる墓が一番奥の真ん中で、両側を市川家一族が取り囲むようにして左側に6基、右側に7基並んでいます。所々読めない墓碑もあって、じっくり調べるには30分はかかるでしょう。
そんな中で印象的だったのが、左側奥から2番目に位置し、三左衛門、その妻、息子たちを一緒に葬った「倶会一処」と刻まれ、先端が三角の形をした墓碑です。その墓だけ、かなり前かがみに建っていました。「ともに一所に会す」と読むのでしょう。裏面には「市川三左衛門弘美/配 岸子/秀五郎弘称/主計弘継/安三郎/大正六年六月合葬/弘勝建立」(/は改行)とありました。
お寺のパンフレットには、この他に農本主義者橘孝三郎、詩人山村暮鳥などの墓があると記されています。
そのあとは、いよいよ常磐共有墓地に向かいました。祗園寺から西へ徒歩で5分ほどの所。バス停なら茨城高校入口から2つ目の末広町3丁目が最寄りになります。つづく
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