極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

CP-35

2005-03-21 15:44:45 | Weblog
春休みのバイトで得た金でエレキピアノを買っている。ヤマハのCP-35だ。定価は36万円だった。友人の太田から買った。17万円だった。1月にピアノが弾けるようになって、無性に欲しくなった。この電気ピアノ、とにかくデカかった。鍵盤はほんもののピアノと同じサイズで作られていた。六畳一間にはデカすぎた。音も現在のようなサンプリング音でなく、チャチなものだった。CP-35が部屋に届き、組み立ててみた。

ベットのようだった。

激しく後悔した。当時の日記にはこう書いてある。

「テレビ買って、ベース買ってもおつりがきたなあ。レコードもいっぱい買えたなあ。やっぱりバカだったかなあ。後悔、後悔」

まだ、テレビもなかったのである。

アパートでは実家のように唄うこともできない。

しばらくは保管したが、楽器屋に手放した。
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大学2年 1

2005-03-20 19:00:27 | Weblog
1983年4月上旬、バンドの話し合いを青柳と池谷と私とでしている。その後も何回か打ち合わせは続いた。平田も打ち合わせに参加はしたが、最終的にバンドに参加することはなかった。

「日本的なものを取り入れる」と青柳は言った。具体的には、民謡や音頭のリズムをやるということだ。

「民謡とか音頭のリズムは日本人にとって根本からあるものだから、受け入られやすい」とも言った。青柳は演劇業界にいるからか「アンダーグラウンドは避けたい」と言っていた。アングラは極少数しか受け入られないからだ。

「日本」をやるのは「実験的」だが、大多数にウケるライブをする、というのが青柳の出した結論だった。

「実験的で大衆受けする」ものはむずかしいと思った。
また、「日本ぽい」ものは「ダサい」と紙一重だからなあ、とも思った。

若干の疑問もあったが、ま、やるか、と思った。

劇団「空間演技」の青柳を私は知らない。すぐに退団してしまったのではないか。
ずっと後になってから「空間演技」の芝居を青柳と観にいったことがある。
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大学1年 12

2005-03-19 23:41:59 | Weblog
「静岡県民バンド」は成蹊大学の大学祭で演奏したのが最後だった。青柳は横浜放映を卒業して劇団に入った。劇団名は「空間演技」という。劇団では当然食っていくことができずにアルバイトをした。住まいも横浜から京王線、代田橋に移った。

青柳と池谷はバンドの方向性について深く話し合っていた。「既存の音楽スタイルにとらわれないもの」をやっていくことで彼等の意見はまとまっていた。実験的なライブをしていくというものだった。1982年3月時点では、芸大を目指している平田も参加するという話もあった。

池谷にお前はどうする、と聞かれ、「べつにいいんじゃない」と答えて「そんなに受け身じゃいけない」とたしなめられている。

「はる」の原形は1983年の3月に青柳と池谷から生まれた。
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大学1年 11

2005-03-18 23:05:32 | Weblog
大学1年の春休みは、これまた西村とアルバイトをしている。

西村によると、松島工作所という会社で、職安で見つけた。天竜川河川敷のビニールハウスの基礎工事をしていた。朝、所内でラジオ体操をしてトラックに乗って現場に向かった。現場にはインスタントコーヒーがあって、お湯を持っていって入れた。スプーンなどなくて、鉛筆でかき混ぜていた。もう名前も忘れてしまったが、比較的若い社員が、自分で家を建てていると言っていた。「自分で」というのは、「自分で釘を打って建てている」という意味だ。その人は右手の人さし指がなかった。

仕事のできる人、できない人、「人生いろいろ」だなあと思った。
現場主任はさすがに仕事のできる人だった。

1ヶ月近く働き、13万円ほどになった。

この頃も毎日狂ったようにピアノを弾いている。
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ピアノ

2005-03-17 22:42:34 | Weblog
1983年になった。正月に実家でピアノを弾いてみた。それまでまったく弾けなかった。池谷はなんとなく弾けていた。うらやましかった。実家のピアノは両親が妹のために買った。ヤマハのアップライトの一番安いやつだ。

左手をオクターブでルート音(根音)を弾き、右手でコードの基本和音を弾いてみた。その頃は大体の基本コードの構成はわかっていた。ルート音の鍵盤から考えれば、コードの基本はギターよりもむしろ簡単だった。

で、弾いてみた。曲は柏原芳江の「ハローグッバイ」だ。

弾けた。弾けた、といっても左手ルート、右手コードの四分音符、コードで伴奏しているだけである。10本の指はバラバラには動かない。これでは「弾けた」といえないかもしれない。ギターで言えば、コードストロークをしているのと等しい。しかし、「ハローグッバイ」が弾けるとそのまま「レットイットビー」が弾けて、そのままどんな曲でも弾けるようになった。

それからは狂ったように、あらゆるヒット曲を弾き語った。唄い狂った。ギターでやるより上品な気がした。

気分はエルトンジョンだった。

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シティロード

2005-03-16 23:16:21 | Weblog
東京に行ったら、「ぴあ」を買って映画を観捲ろうと思っていた。が、映画を観るには金が要り、なかなか思う存分に観ることはできなかった。そのうち「ぴあ」も買うことが困難になってきて、「シティロード」に切り替えた。隔週刊の「ぴあ」に比べて、「シティロード」は月刊だった。

読んでいくと劇場招待券のプレゼントがあり(ぴあでも当然あったが)、御丁寧に劇場毎の「前回当選倍率」が載っていた。よく見れば、かなり倍率の低いものもあった。これだ、と応募した。よく当たった。

池袋ピース座の「聖子の太股~温泉小町~」と「ピンクのカーテン2」も当選したチケットで観ている。
主演女優はそれぞれ、寺島まゆみ、美保純である。

「シティロード」は廃刊になってしまった。
「ぴあ」もずいぶんと買っていない。
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クイーン2

2005-03-15 23:33:28 | Weblog
フレディマーキュリーはライオンズの帽子をかぶって「コンバンワ、ニッポン!」と言って登場。

でかいライトを一台一台、人間が手動で動かしていた。それは、「スターウォーズ」でマークハミルとハリソンフォードが操縦していた「光射砲」のようだった。

西村は「俺はすべてを忘れて、クイーンのライブに熱狂できない」と嘆いている。西村はこの時が3度目のクイーンだ。はじめての私も、それほど盛り上がることができなかった。

帰りに池谷と会うことができた。携帯もない時代、待ち合わせたわけでもないのによく会えたものだ。
池谷は「隣の席の女の子が可愛くて、その子とばかり話していたよ」と言っている。

クイーンが再結成されるそうだ。フレディなしで、どうやるのだろう。

ポールロジャースっていってもなあ。

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クイーン

2005-03-14 22:49:14 | Weblog
1982年11月3日にクイーンのコンサートに行っている。西武球場だ。ウオークマンで録音し、日記にも書いてあるのでよく覚えている。

もともと西村と池谷で行くことになっていた。西村が池谷のチケットも購入したが、池谷が同級生から「もっといい席のチケット」を購入してしまったので、チケットが余り、私が行くことになったのだ。チケット代は4000円である。今から考えるとずいぶん安いが、当時は大金だった。

西村は私にこのように頼んでいる。
「頼むよ、お前が来てくれないと困る。他に手頃な奴がいないんだ」

「手頃な奴」とは、ずいぶんな言われ方だ。

我々はスタンド席で、池谷はアリーナ席だった。

西武球場は、「まだ、できて3年ほど」で、「とてもきれいだ」と書いてある。
まだまだ、西武に勢いがあった頃である。
 
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野人会

2005-03-13 21:21:16 | Weblog
望月は早稲田大の「野人会」というサークルに所属していた。実はなにをするサークルだったのかよく知らない。政治かなにかの集まりではなかったか。「早稲田雄弁会」みたいなものだろうか。ここには、望月と中学の同期の服部も、所属していた。池谷も「会員」だったかどうか。怪し気な部室には何度か行ったことはある。

大学1年の時は「早稲田祭」で模擬店も出していた。「ビートルズ喫茶」だったが、即席ラーメンを出すという、およそまともな模擬店ではない。その即席ラーメンを作るのも、銭湯で使う洗面器で便所から水を汲んで運び、その水で作るという不衛生極まりないもので、とても食う気がしなかった。どこが、「ビートルズ喫茶」なのかと思った。

その頃の早稲田祭は有料パンフレットを購入しないと入場できないしくみになっていて、その売り上げが学生運動の資金になっていた。その後、早稲田祭は取り止めとなった。現在はまた早稲田祭は開催されているが、有料システムはなくなったと聞く。サークル活動もかなり制限がかかり、模擬店なども減ったそうだ。
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大学1年 10

2005-03-12 22:45:20 | Weblog
花島は東洋大学のビックバンドで活動していた。何度か公演に行ったことがある。西村は獨協大学に進学してマンドリンクラブに所属した。西村は高校時代から音楽は好きだったが、自ら演奏することはなかった。が、なぜかマンドリンクラブに入って、マンドリン人生を送ることになる。現在も浜松で活動中だ。

花島はプロとして活躍している。

マンドリンの公演にも何度か行った。卒業公演が終わり、上級生だか、OBだかが、「ここではまだ泣くな」と叫んでいたことを思い出す。「泣くな」と言ったのは部員に対してであり、まだ、かたづけなどしなくてはならないことがあり、「泣くのはすべて終わった後だ」という意味だったのだろうか。

熱い人たちだなあ、と思った。
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