「静岡県民バンド」は成蹊大学の大学祭で演奏したのが最後だった。青柳は横浜放映を卒業して劇団に入った。劇団名は「空間演技」という。劇団では当然食っていくことができずにアルバイトをした。住まいも横浜から京王線、代田橋に移った。
青柳と池谷はバンドの方向性について深く話し合っていた。「既存の音楽スタイルにとらわれないもの」をやっていくことで彼等の意見はまとまっていた。実験的なライブをしていくというものだった。1982年3月時点では、芸大を目指している平田も参加するという話もあった。
池谷にお前はどうする、と聞かれ、「べつにいいんじゃない」と答えて「そんなに受け身じゃいけない」とたしなめられている。
「はる」の原形は1983年の3月に青柳と池谷から生まれた。
青柳と池谷はバンドの方向性について深く話し合っていた。「既存の音楽スタイルにとらわれないもの」をやっていくことで彼等の意見はまとまっていた。実験的なライブをしていくというものだった。1982年3月時点では、芸大を目指している平田も参加するという話もあった。
池谷にお前はどうする、と聞かれ、「べつにいいんじゃない」と答えて「そんなに受け身じゃいけない」とたしなめられている。
「はる」の原形は1983年の3月に青柳と池谷から生まれた。