時々、古い記事にアクセスが増える場合がある。
それがこれ。⇒2・26事件雑感2011-02-26
上記のコメント欄が興味深い。
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以下、再掲です。
75年前の今日、2月26日、午前5時。
青年将校が率いる決起部隊1400余人は、東京都内のそれぞれの攻撃目標に殺到した。
そう、本日は「2・26事件」の起きた日である。
「昭和維新」を唱える青年将校の決起で殺された政府要人は、内大臣斉藤実、大蔵大臣高橋是清・・・、いや、2・26事件の詳細を論じるのは本稿の主旨ではないのでここでは省略。
2・26事件と聞いて筆者が連想する言葉が二つ、「愛国無罪」と「忖度」がある。
正確に言えば、連想は逆であqる。
「愛国無罪」と「忖度」という言葉で2・26事件を連想したというほうが正しい。
愛国無罪とは、反日デモが行き過ぎて器物破損等の犯罪を犯しても動機が愛国心なら許される、という中国人の勝手な理屈を言う。 愛国無罪と2・26事件との関連については後に述べるとして、先ず「忖度」と2・26事件との関連について、2009年の小沢一郎氏の天皇陛下に関する発言を回顧してみる。
小沢氏は 「1か月ルール」を無視した形で、中国の習近平国家副主席の天皇陛下への拝謁を実現させた。 これに対する批判に反論し、とんでもない発言をしている。 小沢氏は中国の次期主席を天皇陛下に拝謁させるという自己目的を達成するため陛下の心の内を勝手に「忖度」したのだ。
何とも傲慢不遜な発言だが、その会見での小沢発言は……こうなっている。
記者:「会見は「30日ルールにのっとらずに行われるが?」
小沢:「『30日ルール』って誰がつくったの? 知らないだろう? 君は。法律で決まっているわけでもなんでもない。そんなもの。君は日本国憲法を読んでいるかね? 天皇の行為はなんて書いてあるの?」
記者:「国事行為と……」
小沢:「国事行為は内閣の助言と承認で行われるんだよ。だから、ナントかという宮内庁の役人がどうだ、こうだと言ったそうだけれども、全く日本国憲法、民主主義というものを理解していない人間の発言としか思えない。ちょっと私には信じられない。しかも、内閣の一部局、一役人が内閣の方針、決定したことについてどうだ、こうだというのは日本国憲法の精神、理念を理解していない、内閣にどうしても反対なら辞表を提出した後に言うべきだ。当たり前でしょう、役人なんだから」
記者:「ルールはなくてもいいと?」
小沢:「なくていいもんじゃない。私はルール無視していいとか何とか言っているんじゃない。宮内庁の役人がつくったから金科玉条で絶対だなんて、そんなバカな話あるかって言うんですよ、ね。天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?天皇陛下のお体が優れないというならば、それより優先性の低い行事はお休みになればいいことじゃないですか、そうでしょう、分かった?」
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■小沢一郎の畏れ多い「忖度」
本人の品性の無さをそのまま体現したような傲慢な発言の連続だが、一番のキモは次の小沢氏の次の言葉だ。
「天皇陛下ご自身に聞いてみたら『それは手違いで遅れたかもしれないけれども会いましょう』と必ずおっしゃると思いますよ。分かった?」
畏れ多くも天皇陛下の意志を直接確かめていないにもかかわらず、一方的に「~と必ずおっしゃる」と忖度している。 しかも“自分の忖度は絶対正しい”とする思い上がりが見られる発言である。
これは、政府要人を殺害した2・26事件の青年将校達と同じ思考である。 彼らは「陛下も(自分たちと)同じ思いである」と勝手に「忖度」し政府要人を「君側の奸」と看做して殺害したのだ。
百歩譲って、このような絶対的な思い上がりの「忖度」が偶然天皇陛下の意思と一致したとしても、そのことを当たり前として「忖度」を既成事実化した場合、“自分の忖度は絶対正しい”として忖度の絶対性を一般化してしまう。
かくて小沢氏の陛下に関するべての忖度自体が絶対となり、小沢一郎自身の考えがを絶対化することになる。
小沢氏が天皇陛下の心の内を勝手に忖度することが、如何に危険な忖度であり、独裁的な政治利用の意志であるかが分かる。
■青年将校達の「忖度」
青年将校達はこう考えた。
農村が、娘を売りに出すほど極貧に呻吟しているのは、天皇陛下を取り巻く「君側の奸」が私腹を肥やす政道を行ったためであり、これら「君側の奸」を成敗することこそ、「大御心(おおみこころ)」である、と忖度したのである。 その意味では永田軍務局長の惨殺した相沢中佐も自身の凶行を大御心である、と陛下の心中を忖度して疑わなかった。
では2・26事件に対する陛下の心の内はどのようなものであったか。
昭和天皇は在任中、立憲君主制の下の天皇という立場をを厳しく守ったいわれるが、二つだけ立憲君主の立場を踏みははずしたことがある・(・・と何かの本で読んだ)
一つ目は終戦の聖断であり、もうひとつが2・26事件の際の決起将校達への聖断である。
軍の上層部が青年将校たちに同情的かつ優柔不断な態度を示したのに対し、陛下は彼ら決起将校達の想定外の行動を示した。
陸軍大臣川島義之大将が参内し、当事者の軍として、単に状況報告を天皇にしたのは、午前九時をすぎていた。 天皇は陸相にぴしりといった。
「今回のことは精神の如何を問わず不本意である。 速やかに事件を鎮定するように」と。(『ドキュメント 太平洋戦争への道』(半藤一利著・PHP文庫)
この瞬間、憂国の志に燃え「昭和維新」を夢見た青年将校達は、勤皇の志士から賊徒になった。
同時に決起将校の「愛国無罪」の期待も粉砕されてしまうことになる。
2・26事件は陸軍の統制派と皇動派の人事抗争の結果内輪もめだといわれている。
革新将校の精神的支柱であった真崎甚三郎が教育総監の要職を辞めさせられたのは「君側の奸」の画策だと考えていた。
果たせるかな決起将校の攻撃目標は、総理大臣、内務大臣、大蔵大臣、侍従長の他に真崎大将(皇道派)の後釜の教育総監におさまっていた渡辺錠太郎陸軍大将(統制派)も含まれていた。
2・26事件以降、陸軍は統制派が実権をもつようになり、軍部は、絶えず“二・二六”の再発をちらつかせて政・財・言論界を脅迫した。 優柔不断の近衛内閣は日米開戦の道へ追い詰められ、無責任にも首相の座を放り出した。
■東条英機は日米開戦を阻止する目的で首相になった
日米開戦のわずか50日前に首相の座に着いたのが陸軍統制派の東条英機大将であった。
戦後の後付けで東条英機はヒットラー、ムッソリーニと並ぶ三大独裁者だと罵倒する向きもある。
当日記で案内している東条英機のお孫さん東條由紀子氏の講演会に対しても、「何でヒトラーやムッソリーニの様な残虐な政治家である東條英機の遺族の講演会を案内するのか」といった趣旨の声が耳に入ったりもする。
だが、果たして東條英機は戦争するために首相になったのか。
否である。
日米開戦が抜き差しならない状況になると、近衛首相は政権を放り出し、開戦を主張する軍部を抑えるため首相になったのが東条英機であった。
偶然にも東條由紀子氏の講演会の演題「開戦前夜」と同じタイトルが、『文芸春秋』3月号に連載中の「昭和天皇」の副題になっている。⇒(69)開戦前夜」。
第一次近衛内閣の蔵相となり、大蔵省顧問のあと北支那開発株式会社の総裁になっていた賀屋興宣は東條に組閣のため官邸に呼ばれることになる。
日米開戦を避けるため東條が首相になった経緯が述べられているので、その部分を抜粋引用する。
福田和也著 「昭和天皇ー(69)開戦前夜」
陸軍を統制できるのは、東條ぐらいだからな・・・。
戦争をしないためには、陸軍の主戦派を抑えるしかない。
文民で陸軍を抑えられる、それだけの力があるのは、平沼麒麟一郎と近衛しかない。
しかし、近衛は、政権を放りだしたばかりだし、平沼は歳が歳だ。
となれば開戦を避けるには、東條しかいない・・・。
とにかく、陛下の云う事には、必ず従う奴だから。
後になって彼(か)の人(人)が、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と木戸の処置を賛美したと知った。
木戸はさすがに巧妙で、これまでの御前会議で決定された開戦計画をすべて白紙に戻し、
平和を最優先で追求するように、との御定をつけて大命降下をしたのだった。
官邸に着くと、玄関で秘書官の赤松貞雄大佐が待っていた。
賀屋は、大きい顔には不釣合いに小さい目をパチパチさせながら、東條に質した。
「世間は陸軍が、戦争をはじめると考えている。本当にするのか。するならば理由は何なのか」
大蔵省はじまって以来の秀才と云われた男にたたみかけられて、東條はやや狼狽(うろた)えた。
「いや、自分は平和でやるつもりだ。陛下からも御定をいただいているし、一生懸命交渉して、戦争をしないようにしたい」
対米交渉するといっても、満州事変や支那事変ははどうするのだ。統帥権の濫用で、どんどん
戦線を拡大してしまったじゃないか。いくら政府が和平交渉をやっても、軍が独断専行してしまえば、
交渉なんて何の意味もないじゃないか・・・。
賀屋は、東條の、そして陸軍の一番痛いところを突いてやった。
東條は云った。
参謀本部が何を云おうと、陸軍大臣が判をつかないと軍は動かせない。だから、自分は、総理と
陸軍大臣を兼ねることにしたのだ(結局は内務大臣も兼ねることになった)・・・。
賀屋は電話で近衛と相談した。
「閣内に入って、戦争にならないように努力した方がいいのか、到底、見込みがないから
やらない方がいいか」
身も蓋もなく問いかけた。
受話器の向こう側の貴公子は、しばらく沈思した後、云った。
「できるだけやってみたらいかがでしょう」
それで賀屋は決心がついた。(『文芸春秋』3月号、512頁、513頁)
東條英機 は、日米開戦の直前の1941年10月18日に内閣総理大臣に就任し、敗戦直前の1944年07月22日 に辞任している。
東條は少なくともヒットラーやムッソリーニのような、独裁者でもなければ、沖縄紙が喧伝するような「残虐非道の軍人」ではなかった。
そして日米開戦を阻止するため首相に就任した。 だが実際は軍部を抑えきれず、結果的に開戦の総責任者として東京裁判で断罪され絞首刑に服した。
歴史的人物に直に接した人たちが次々と物故する中、祖父東條元首相に可愛がられた東條由紀子氏の「開戦前夜」と題する講演会は、東條への賛否はともかく、「開戦前夜」に興味のある方なら是非聴講して頂きたい講演会である。