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沖縄の出版物には蝿のように左翼文士が集まってくる。
過去の『うらそ文藝』もその例外ではなかった。
同誌のバックナンバーをめくると、「タイムス史観」で毒された文化人の名前が続出する。
古い号には『鉄の暴風』の執筆者の太田良博氏の名前も見られるくらいだ。
「集団自決軍命説」を唱えるお馴染みの面々をザット拾ってもこのようになるー石原昌家、嶋津与志(大城将保)、目取真俊、石川為丸の各氏、そしてこれに元琉球新報社長の宮里昭也氏や福地曠昭氏を加えると『うらそえ文藝』は「集団自決論争」に限ってみても左翼文士の巣窟と見られても仕方ないだろう。
その『うらそえ文藝』が発売されて既に2週間経過するが、予想通り沖縄二紙は黙殺でこれに答えている。
一方ネット上では当日記が火付け役になった感はあるが、『うらそえ文藝』の衝撃が駆け巡っているようだ。
だが、揶揄するものはあっても、まともに反論するものはいない。
沖縄タイムスは「米軍流弾事件」でもすっトボケているが、トボケついでのつもりか、次のような記事を平然と書いている。
<空襲が途切れ、壕から出て海を見ると、島の周囲を埋め尽くすような黒い艦船の群れ。「遊軍が来たぞー」。バンザイしたのもつかの間、地鳴りのような艦砲射撃が始まった。日本軍ではなく、米軍の艦船だった。自宅のある○○○の街を見ると、天を突くような炎に包まれていた。
途中で合流した父親は、戦車砲の破片で左足をえぐられ動けなくなった。もう家族みんなで死のう―。覚悟を決めたが、父親から「君らは逃げられるだけ逃げなさい」としかられた。父親を壕に残し、最北端の○○○岬を目指して歩き始めた。それが父親との別れとなった。>( 2009年05月24日 社会 )
わざと地名は伏せたが、これは沖縄戦の「集団自決」の記事ではない。
沖縄タイムス 2009年05月24日 社会
わが祈り 海越えて/南洋墓参・最後の旅/名護市の仲村さん 深い心の傷 同行できず【社会】
県人1万3000が戦没
太平洋戦争中、日本の統治領だった旧南洋群島で亡くなった県出身者らを供養する南洋群島慰霊墓参団(主催・南洋群島帰還者会)が26日、サイパンに向け、沖縄を出発する。帰還者の高齢化などで、40回目の今年で打ち切りとなる。「もうひとつの沖縄戦」といわれ、1万3000人ものウチナーンチュが命を落とした戦い。多くの帰還者が高齢の身をおして参加する一方、過酷な記憶からいまも再訪に踏み切れない人も少なくない。「どうか自分の分まで手を合わせてほしい」。さまざまな思いを背負い、墓参団は最後の旅に向かう。(鈴木実)
銃を手に、木にもたれかかった姿で息絶えた日本兵。うつろな目で空を見上げたまま、何の反応も示さなくなった友人。累々たる死傷者をかき分けるように、「鉄の暴風」の中を北へ北へと逃げた。
サイパンへの米軍の攻撃が本格化した1944年6月。名護市の仲村繁一さん(78)は、現地の国民学校高等科1年生だった。
空襲が途切れ、壕から出て海を見ると、島の周囲を埋め尽くすような黒い艦船の群れ。「遊軍が来たぞー」。バンザイしたのもつかの間、地鳴りのような艦砲射撃が始まった。日本軍ではなく、米軍の艦船だった。自宅のあるガラパンの街を見ると、天を突くような炎に包まれていた。
途中で合流した父親は、戦車砲の破片で左足をえぐられ動けなくなった。もう家族みんなで死のう―。覚悟を決めたが、父親から「君らは逃げられるだけ逃げなさい」としかられた。父親を壕に残し、最北端のマッピー岬を目指して歩き始めた。それが父親との別れとなった。
多くの避難民が海に身を投げたバンザイクリフの近くで、繁一さんも右足を撃ち抜かれた。唇や左手も被弾し、いまも傷あとが残る。近くにいたいとこの女の子は足の甲をえぐられ、みるみるうちに血の気がなくなり、息を引き取った。
その後、捕虜になり、収容所に送られた。再会した乳飲み子の妹は、栄養失調と疲労でまもなく力尽きた。墓地の一角に穴を掘って埋め、「照子の墓」と書いた角材を立てた。写真はすべて焼け、父や妹の顔も、もう思い出せない。
終戦後、仲村さんは当時の記録を書きつづった。だがあまりにもつらく、記憶を消し去るようにすべてを捨てた。墓参団にも参加せず、人に話すことを避けてきた。「後世に語り継がねば」と、少しずつ体験を口にするようになったのは、定年を迎えてからだ。
だが、胃の全摘出や糖尿病の合併症で体力はなく、もはや現地行きはかなわない。「行きたい気持ちもあるが、どうしても勇気がなく、年も取りすぎた。せめて代わりに祈りをささげてほしい」と思いを託す。
◇
このところ慶良間島の「集団自決」の記事を沖縄二紙の紙面で見ることはないが、それに代わって南洋群島慰霊墓参団の記事が続いている。
いきなり冒頭引用の文を読んだら渡嘉敷、座間味両島の「集団自決」の記事と錯覚した人も多いだろう。
だが、サイパン玉砕時の県出身住民の「集団自決」とその翌年続いて沖縄で起きた「集団自決」は同じ状況で起きている。
両者の関連性を無視して沖縄戦を語ることは出来ない。
そう、サイパンの集団自決も慶良間島の集団自決も犠牲者のほとんどは沖縄県人という共通点があり、
圧倒的多数の米戦艦に島を包囲され、逃げ場を失った住民がパニック状態になって「集団自決」に走った状況はサイパンも沖縄も同じであった。
ところが沖縄戦・慶良間島の集団自決では戦後60数年も経っているのに、
集団自決は「軍の命令だった」として、自分が親兄弟を殺害したことを軍の命令に責任転嫁する一団がいる。
その一方、ほとんど同じ状況で起きたサイパンの「集団自決」では「軍の命令だった」といった責任転嫁の声は聞かれない。
その理由は「援護法」の集団自決に対する被害者適用の有無にあると書いた。
この事実だけ見ても「集団自決軍命論」がいかにこじつけであり、後付けの責任転嫁であることが自明である。
沖縄タイムスはサイパン玉砕の生存者たちが「集団自決は軍の命令だった」といわない事実に何の疑問も持たないのだろうか。
事実を報道するのが新聞記者なら当然疑問を持つだろうし、疑問を持てば必然的に『鉄の暴風』のいかがわしさ、すなわち「集団自決軍命説」のいかがわしさにも気がつくはずなのに。
さもなくば、バンザイクリフの投身自殺も満州での集団自決も「軍の命令だった」と主張すべきではないのか。
◇
沖縄タイムスは報じていないが珍しく琉球新報が小野田さんの講演会を報じている。
教育者としての小野田さんの講演会なら黙殺も出来ないのだろうか。
「助け合いが大切」 元日本兵、小野田さん講演(2009.5.24)
生徒らを前に講演する小野田寛郎さん=23日、伊良部高校
小野田さんの話に聞き入る生徒ら=23日、伊良部高校体育館
【伊良部島=宮古島】伊良部高校PTCAは23日、太平洋戦争の終結を知らないままフィリピンのルバング島で1974年までの約30年間生活していた旧日本軍の元陸軍少尉・小野田寛郎さん(87)を同校へ招き、講演会を開いた。同校の生徒らを前に小野田さんは「戦争は一番、人間がやってはいけないこと。人は一人では生きていけない。助け合いが大切だ」と呼び掛けた。
講演会は小野田さんの妻・町枝さん(71)が、テレビ番組で離島で少人数ながら全国大会にも出場する伊良部高校バレー部について知り「励ましたい」と提案したことで実現した。
講演会の冒頭、小野田さんが74年に帰国した際のニュースや、75年にブラジルへ移住し牧場を開発した様子、84年に再び帰国し、キャンプ体験を通し青少年育成を図る「財団法人小野田自然塾」を開いた経緯などを映像で紹介した。
小野田さんはルバング島での生活を「残って何年でも戦えとの命令だった。殺すか殺されるかが続いた。しかし一人で生きていたわけではない。仲間を亡くし最後の1年半の後に日本へ帰れた」と明かした。
「皆さんが生きる中で自分だけ良ければ良いというのは駄目。伊良部高校がバレーボールで優勝したのも各選手が力を発揮する目的意識があるからだ」と語った。
◇
◆田母神沖縄講演会告知⇒前航空幕僚長田母神俊雄氏 沖縄講演会
【集団自決の真相解明のための三点セット】
沖縄戦「集団自決」の謎と真実 秦 郁彦 PHP研究所 このアイテムの詳細を見る |
あばかれた「神話」の正体 鴨野 守 祥伝社 このアイテムの詳細を見る |
この三点セットをご購読いただいたら、沖縄戦の「集団自決」に軍の命令も強制も無かったということがよくわかり、『鉄の暴風』や『沖縄ノート』がデタラメなウソ塗れの本であることがよくわかる。
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