狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「新証言がなければ勝てなかった」 岩波側の本音

2008-04-01 07:42:35 | ★集団自決

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■慰霊祭現場で判決を聞く■

「集団自決」のあった渡嘉敷島で慰霊祭の日に現場で判決を聞く・・・

誰が上手くこの日を設定したのか。

ともかくこの歴史的シーンをマスコミが見逃すはずは無い。

厳かであるべき慰霊祭も当日はマスコミを中心に外野席がうるさかったと聞く。

3月30日の琉球新報「声」欄に、この欄ではお馴染みの方が現場の様子を伝える投稿があった。

慰霊祭で岩波訴訟判決 渡嘉敷村 源哲彦 (61歳)

<式典が始まる前に大阪地裁で争われていた「大江・岩波訴訟」の判決が出た。 しかも予想通りの「棄却」(原告敗訴)であった。 関係者一同「やっぱりね」と納得顔であった。>

裁判の結果が源氏の予想通りだったかどうかは別にして当日の慰霊祭は本土各地からマスコミが殺到し例年に無い騒ぎだったという。

偶々慰霊祭に参加した知人の話によると当日は住民主体の慰霊祭と言うよりマスコミが主役だったようだ。

以下伝え聞いた話。

判決直後のエントリーで判決直後の渡嘉敷島の様子は、村の有識者はほとんどの人が、被告側の負けを信じていたようで、判決にびっくりしていた。

タイムス、新報もおそらく負けを覚悟していたのか、取材も駆け出しの記者1名ずつで、本土マスコミ記者が逆に不思議がって、どうしてだろうかと聞いていたくらいだった。

日頃マスコミでよく発言する「軍命あり派」の吉川氏も敗訴を予測してか前日までは、マスコミの取材は受けない予定だったが、判決の結果を聞き、慰霊祭の場にどこからとも無く現れ、マスコミの取材に得意げに応じていたと聞く。

その談話は⇒検定撤回 決意新た/体験者ら「歴史正す一歩」

めったに参拝には姿を見せない上記「声」の源哲彦氏も勝訴の結果を聞いたからか、初めて参拝に姿を見せた模様。

判決日と慰霊祭が同じというオイシイ現場には本土マスコミが10数名集結しており年寄りの参拝者が現れると談話の奪い合いを演じ、日本テレビなどは衛星中継車まで持ち込んでいた。

左系マスコミに、おもしろおかしく談話を継ぎ接ぎされるのを恐れてか、良識ある地元の人は、ほとんど参拝に姿を見せていなかったという。

地元の参拝者約90名(うち老人クラブ員15名)、ツアー客等50名、マスコミ15名。

老人クラブ会長の村田實保氏は、旧軍人、退職高校長上がりで殺到したマスコミに当日のコメントは抜粋して都合のいいように、うまく記事に使われた。

■敗訴を想定した被告側■

素人目にも穴だらけの判決文には敢て触れないが、有り余る弁護側「証拠」に弁護団に心の緩みが有ったのか、100%勝訴を確信していた原告側は敗訴の場合の「即日控訴」の準備を怠っていた。

一方被告側は岩波の談話として「一部敗訴」も想定していたとある。

おそらく被告敗訴の場合は即日控訴を行っていただろう。

判決翌日(29日)から始まった琉球新報の連載特集「岩波・大江判決」「軍命推認」にも被告側が敗訴を予測していたような記述がある。

「軍命推認」(上) 3月29日付け

<・・・宮城晴美さんは、那覇市内の自宅で「集団自決」訴訟の判決を聞いた。 「原告請求、全面棄却」の知らせに一瞬、時が止まったかのような驚きの表情の後、涙を浮かべ「良かった」とだけ語った。>

勝訴の知らせで一番驚いたのは「母の遺言」を踏みにじって「後出しジャンケン」の宮城晴美氏だったことが上記の表情から分かる。

被告側の岩波書店・「世界」編集長、岡本厚氏は「一部敗訴を想定していた」と正直に吐露する一方、勝訴に心が緩んだのかもう一つの本音を吐露している。

新しい証言がなければ勝てなかった

<「沖縄の人たちの怒りがすごかった。 (原告は)虎の尾を踏んでしまった。 沖縄の真実を無神経に否定する人たちを沖縄は許さなかった」と語る「世界」編集長、岡本厚さん。 「新しい証言がなければ勝てなかった。・・・・」>

岩波側岡本厚氏はもう一つの本音を漏らしていた。

「新しい証言がなければ勝てなかった。・・・・

「新しい証言」とは? 

「集団自決」生涯忘れず 宮平春子さん証言(琉球新報)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-25258-storytopic-1.html 

裁判の僅か一ヶ月ほど前に唐突に出てきたこの証言で宮城晴美氏はいとも簡単に「母の遺したもの」を書き変える気に気になり、裁判長はこの検証無き証言を採用した。

そして被告の岩波側に「これがなければ勝てなかった」と言わしめた。

宮平春子氏は事実上「集団自決」を指導・強制したとされる助役宮里盛秀氏の妹である。

しかも宮城晴美氏は旧版の「母の遺したもの」を著したときにも宮平春子氏に聞き取り調査をしておりそのときには岩波側が言うような重要証言をしていない。

つまり当事者(宮里盛秀助役)の妹宮平春子氏は裁判直前に「後出しジャンケン」のような「証言」をし、それを聞いた宮城晴美氏は更なる「後出しジャンケン」の後追いで故母初枝氏の「遺言」を書き換える「証言」をしたのである。

裁判長はこのような検証されない被告側証言を全て採用し、多くの検証済みの原告側証言を殆ど採用しなかったのだ。

「戦後レジーム」という巨大な怪物の影響力の恐ろしさを改めて感じる。

 

一昨日の日曜日、沖縄で「大江・岩波沖縄戦裁判判決報告集会」が行われた。

会場の「アップルタウン3F組合員活動室」とは沖縄でも大手のスーパーチェーン「コープおきなわ」の3階の「組合員活動室」である。

あの毒ギョーザのコープが怪物の一部であり、「コープおきなわ」の理事長は反戦地主の新垣勉弁護士である。

大江・岩波沖縄戦裁判判決報告集会

日程:3月30日(日) 午後7時~9時
場所:那覇・おもろまちアップルタウン3F組合員活動室

◇大江・岩波沖縄戦裁判判決(3/28)報告
◇講演『挑まれる沖縄戦』(集団自決)取材から 謝花直美さん(沖縄タイムス編集委員)
資料代:500円
主催:沖縄平和ネットワーク
℡098-886-1215

コープの会場を被告弁護団が使用したのはたまたま空いていたからと思う方もいるだろう。

だが去年まで勤めていた先代コープおきなわ理事長の新里恵二弁護士は左翼弁護士と言うだけではなく沖縄歴史の専門家でもあり岩波書店を始めから多くの沖縄関連本を出している人物である。 

沖縄 (1963年) (岩波新書)
比嘉 春潮,霜多 正次,新里 恵二
岩波書店

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ところで座間味島の「集団自決」には大きなひとつの謎がある。

自決には村の指導者の1人である宮里盛秀氏が深くかかわったとされていたが、もう一人の有力な村の指導者の存在である。

この人物に関しては不可解にも今では殆ど語られることはない。

 

◆【おまけ】

琉球新報は一面や社会面の目立つスペースを避けるように小さな人物往来のようなコラム記事が時々載る。

一面や社会面に登場する人物がこの目立たぬコラムで「本音」を語ることがある。 この「本音」が時々新報の論調とはそぐわない場合もあるが、これはデスクの見落としなのかそれとも僅かに残る新報の良心なのか。

3月30日付けコラム【談話室】は「毒おにぎり」の仲里利信県議会議長の談話。 今季限りで勇退とのこと。

<○・・・実行委員長を務めた「教科書検定意見撤回を求める県民大会」について「たまたま議長を務めていただけ。 わたしがやったことではない」と、核県議、県民の思いが結集したと振り返る。 それでも「私が戦争体験者だったことは何かの巡り合せだ。 体験者でなければ想像できない。 戦没者の方々のおぼしめしかもしれない」と感慨深げだ。 
○・・・2年間の議長生活は「いいことずくめだった」。 黒塗りの車が迎えに来るし、空港でもきちんと迎えてくれる」と正直な感想も。 4年16期の議員生活を終えた後は、「農業でもして余生を楽しみたい」と話している。>(新報 3月30日)

戦争体験者なら想像で方っても良いわけでもなかろが、「毒おにぎり証言」の件は新報だけの特ダネ?のようなので、新報記者の「残酷な日本軍」誘導でウッカリ「想像」を語ってしまい、引っ込みが付かなくなったのではと推察する。

ご苦労様でした。

 

◆【おまけ】もう一つ。

このコラムも「残酷な日本兵」のイメージとはほど遠いがね。

「音楽好きなやさしい日本兵」のイメージしかわかないが、大丈夫ですか新報さん。

コラム【あしゃぎ】 平和の象徴

子供の頃の戦争体験は今でも色濃く残っている国指定重要文化財「琉球古典音楽」臍者(人間国宝)の照喜名朝一さん。 
「ずっと防空壕に隠れていたが、自分が見られているようで、空を見るのが怖かった」と語り、平和の大切さ、自由に生きられることの素晴らしさをあらためて強調する。
終戦直前、艦砲射撃が激しくなったため逃げ回り、日本兵が引き上げた壕に一時的にみを潜めた。 するとそこには、なぜか蓄音機が残されていたという。 
「戦時中は音を立てないように暮らしていたが、その時、レコードをかけて音を聞くことが出来た」。 まるで“音楽の神様”に見守られていたかのようなエピソードを無邪気に語る。
さらにその後も、父が持っていた手りゅう弾が死を覚悟した時に何故か紛失したり、訪ねてきた日本軍の将校が「米兵がやって来ても降参しなさい」と忠告してくれるなど、生き延びる道が自然と開けていった。「戦争を体験することで、音楽こそ平和の象徴だと知った。 沖縄の音楽を、芸能を世界に向けて伝えていきたい」。 やわらかい口調の中に、切なる思いがこもった。(琉球新報 3月26日)

「米兵がやって来ても降参しなさい」と忠告してくれるなど

うーん、心温まるエピソードだ。

少なくとも沖縄の日本復帰以前にはこのような日本兵と沖縄住民とのほのぼのとした交流の話題も新聞等でよく見たが、

復帰後は何故か新聞に出てくる日本兵は揃って「残虐非道な日本兵」。

確か今回の「集団自決裁判」の原告敗訴の理由に「手りゅう弾は当時貴重な軍備品云々・・・」の文言を見たような気もするが、

父が持っていた手りゅう弾が死を覚悟した時に何故か紛失したり・・・

当時の沖縄では被告側の主張するように「軍民混在」状態で手りゅう弾の保有も必ずしも軍の専売特許ではなかったように思える。

「手りゅう弾配布」イコール「軍の強制」はこれを見ても無理筋だと思いますがね、裁判長さん。

 

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