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一昨日の講演会「沖縄戦『集団自決』と教科書検定」には沖縄タイムス、琉球新報の記者も取材に来ていたので、彼らに対し
「(一方的記事だけ出さずに)今夜の講演会の内容も大きく掲載して欲しい」(必ずしも正確な表現ではではないが)
といった呼びかけがあった。
だが実際は記者が会場に来たことを示すアリバイ記事のようなベタ記事だったことはご承知の通り。(琉球新報)
新聞社の判断基準に合わない行事は斯くの如し。
■新聞が「歴史」の判決を下す■
新聞の見出しが歴史を作ったという、もっとも典型的な例は「南京百人斬り競争」であろう。
そもそも判事は法律の専門家ではあっても歴史の専門家とは限らない、いや専門家では無いと断定してもよい。
その判事が専門家の検証はともかく新聞記事が出たということだけを証拠にしたという。
こうなると新聞の恣意的記事、(この場合は読者に媚びて面白おかしく講談のように書いたのだが)が裁判の判決さえ作ることになる。
下記引用文の「この記事」とは「100人斬り競争」を講談のように報じた毎日新聞の記事のこと。
この記事を「事実」と判断するにあたって、内心の躊躇を感じなかった判事はおるまいー彼らは「虚報」とは別の事実を体験していた。 だがこの体験を基にすれば、この記事が「非戦闘員虐殺」「虐殺者の英雄化」「日本人虐殺民族」という「論理」をたどらざるを得ない。 だが、そうならざるを得ない点が探求の出発点で筈であって、痴呆のようにこの「論理」のコンベアにのせられていくなら、それは裁判官の任務を放棄したと言えるであろう。(『私の中の日本軍』下 山本七平)
南京落城時、便衣隊、即ちシナ人の市民服を着た兵隊が市民生活の中に溶け込んでいた。 勿論便衣隊を殺しても戦時法違反ではない。
その時期、実際に百人斬りを見た人はいない。
■新聞が「医療」の判決を下す■
裁判官が歴史の専門家とは限らないのと同様に医療の専門家である可能性は少ない。
医療裁判でも裁判官が判決を下す証拠に新聞記事になったかどうかが重大なポイントになる。
【東京】11の病院に搬送断られ95歳女性死亡-清瀬市スレッドより。
奈良県でも新聞の一方的思い込みで糾弾された病院に救急医をしり込みさせるような判決が下りた。
救急隊と患者は絶対善で、病院側は絶対悪であるという思い込みの記者の記事と空気を読みすぎる判決は「卵が先かひよこが先か」の関係にある。
かくして「記事」と「判決」はお互いに悪循環でスパイラル状態に「首都圏救急医療破壊工作」を拡大していく。
■全知全能と錯覚する記者■
歴史の専門家が専門誌に研究の成果を論文として掲載するより、
新聞記者が歴史の一部分を誇大に捉え、場合によっては捏造してセンセイショナルなキャンペーン記事を書いたほうが歴史は動く。
人間はポジションによって、自分の能力を超えて、その道に関しては、専門家以上に専門家であると思い込んでしまうことがある。
新聞記者が「○○を取材した」となると、その瞬間○○の専門家に化身する。
山本七平は、戦前の陸大出の軍官僚は現在の東大に負けずとも劣らないエリート意識に満ちた集団だったとこき下ろした後、現在の新聞記者について次のような文を書いている。
こういうタイプの人(陸大出の軍官僚ー引用者注)は、戦後はあまりお目にかからないが、暴力という点を別にすれば、新聞記者の中にはいるようである。 いわば自分は何もかも知り、かつ何もかも理解しているという前提に立つので、自分の知らないことや理解できないことを、すべて、嘘か間違いか、ありえないことにしてしまうタイプである。 従って自分に理解できないことがあると、それを理解するために質問しようとはせず、反射的に「おかしいですね」「そんなことはないでしょう」と言い、あげくの果ては滔々(とうとう)一方的にまくし立てと、「つまるところ、こういうことですネ」と勝手に決めて帰ってしまい、こちらを唖然とさせるタイプである。(『私の中の日本軍』上 昭和50年)
>いわば自分は何もかも知り、かつ何もかも理解しているという前提に立つので、自分の知らないことや理解できないことを、すべて、嘘か間違いか、ありえないことにしてしまうタイプである。
勿論山本氏は彼が接した新聞記者一般のことを言っているのだろうが、
最近の沖縄の「集団自決」に関する記事を見る限り、沖縄紙の記者を特定して述べているのではないかと思うほど見事に当てはまる。(山本七平氏が沖縄タイムスの愛読者だったかどうかは寡聞にして知らないが、それにしても当てはまり過ぎる!)
そう、『鉄の暴風』を書いた大田記者は、現地取材などしなくとも全知全能の記者たる自分達が歴史を作っていくとでも考え、自分の知らないことは「嘘か間違いか、ありえないこと」にした。
彼の後輩である現在の沖縄の記者達は、彼から継承した自分の基準を絶対化する。
そして新聞社の基準に外れたものは「不都合な真実」として決して紙面を飾ることはない。
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