狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「集団自決」 宮城晴美氏が新版で「後出しジャンケン」

2008-01-23 09:37:59 | ★集団自決

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<沖縄集団自決>女性史家、新版で「軍命令あった」の新証言毎日新聞) - 1月22日
 
 第二次大戦時の沖縄・座間味(ざまみ)島の集団自決について、那覇市の女性史家、宮城晴美さん(58)が、「新版 母の遺(のこ)したもの」(高文研)を30日に出版する。

 00年12月出版の前作「母の遺したもの」(同)は、宮城さんの母初枝さん(90年12月死亡)が生前に語っていた「集団自決を座間味村の助役が申し出るのを見た」との証言を掲載し、波紋を広げた。今回は前作をベースにしながら、助役が「軍の命令があった」旨の話をしていたとの新たな証言を追加し、助役の自発的な申し出を逆に否定的に見る内容になっている。

 宮城さんによると、村助役の妹が昨年6月、宮城さんに「兄は『軍からの命令で、敵が上陸して来たら玉砕するように言われている』と言っていた」と証言した。前作時にも取材したが、当時は証言が得られなかったという。

 さらに、助役の別の妹も「父が『もうどうにも生き延びられんのか』と言うと、兄は『軍から命令が来ているんですよ』と答えた」と証言したという昨年9月の沖縄タイムスの報道も盛り込んだ。

 宮城さんは、これらの証言から「助役が集団自決を申し出た」時より前に、軍が助役に住民を自決させるよう命令していた可能性が高いと指摘する。

 また、「住民が国の補償を得るために『軍命令』とする話を作った」という説にも反論。国が補償の調査を始めた1957年より前の55年に書かれた「地方自治七周年記念誌」(沖縄市町村長会)にあった「部隊長の命により、若い者は最後まで戦い、老人子供は玉砕するようにとのこと」との記述を収録した。

 宮城さんは「住民は勝手に死んだのではない。軍の責任は問われるべきだと訴えたい」と話している。(略)

 

                     ◇

「後出しジャンケン」。

必ずしも適当な比喩ではないが、

「新版 母の遺(のこ)したもの」の出版を聞いてとっさに浮かんだ印象である。

それともう一つの印象は大江健三郎氏が、大阪地裁の証言台で行った、自著『沖縄ノート』には記されていない「タテの構造云々」の長演説を、

新説として加えた『新版 沖縄ノート』を出版したといった感じだ。

いずれにせよ、既に勝負では負けているのに屁理屈をこねくり回し勝ちを主張する往生際の悪い印象だ。

そもそも、この「改訂版」出版の話は宮城氏が法廷に立ち、初版本が論破された後、急遽持ち上がったのではなかったのか。

                     

               ◇

『母の遺したもの』は読んだが「新版」はまだ読んでいないし、出版されても読む気はない。

読んでない本を批判するの気が引けるが、上記毎日記事で知る限り旧著と新著の違いは読まなくとも自明である。
 

 >今回は前作をベースにしながら、助役が「軍の命令があった」旨の話をしていたとの新たな証言を追加し、助役の自発的な申し出を逆に否定的に見る内容になっている。

「新たな証言」とは、「集団自決」を事実上指導したといわれる村の助役の妹宮平春子氏の証言だが、助役は一部に「集団自決」の事実上の責任者だと見られている。

その助役の実の妹の証言なら、しかも62年も経過した後の証言なら、刑事裁判では証言価値は極めて薄いだろう。

>宮城さんによると、村助役の妹が昨年6月、宮城さんに「兄は『軍からの命令で、敵が上陸して来たら玉砕するように言われている』と言っていた」と証言した。前作時にも取材したが、当時は証言が得られなかったという。

>さらに、助役の別の妹も「父が『もうどうにも生き延びられんのか』と言うと、兄は『軍から命令が来ているんですよ』と答えた」と証言したという昨年9月の沖縄タイムスの報道も盛り込んだ

宮城さんは、これらの証言から「助役が集団自決を申し出た」時より前に、軍が助役に住民を自決させるよう命令していた可能性が高いと指摘する。

宮平春子氏の証言は本人自身が「軍命を聞いた」訳でではなく実兄の助役がパニック状態で軍命と口走ったのを聞いた「伝聞証言」である。

命令していた可能性が高い」とは単なる著者の思い込みにすぎない。

著者の宮城氏はこの証言を初めて聞いた訳ではなく、旧著を出版時にも本人に取材している。

他の些細な部分ならともかく「母の遺したもの」の最重要部分である「軍命の有無」に関わる事を、前に取材をしておきながら180度異なる結論を出すとは驚きだ。

この新著は三月に出される判決を前にしてプロパガンダの意味で出されたとしか思えないトンデモ本としか思えない。

「住民が国の補償を得るために『軍命令』とする話を作った」という説にも反論。国が補償の調査を始めた1957年より前の55年に書かれた「地方自治七周年記念誌」(沖縄市町村長会)にあった「部隊長の命により、若い者は最後まで戦い、老人子供は玉砕するようにとのこと」との記述を収録した。

 57年に調査は開始されたというが、その調査を担当した当時の琉球政府職員照屋昇雄三さんが援護業務勤務の辞令書を受けたのが54年であるので、

「地方自治七周年記念誌」が書かれた頃、既に「軍命の口あわせ」が行われていてもおかしくはない。

更に当時の戦史の記録の殆どは、50年に出版された『鉄の暴風』の影響を多大に受けており、「地方自治七周年記念誌」の記述者が『鉄の暴風』の影響を受けていたとしても不思議ではない。

 結局「新版」によって、戦後生まれの娘が実際に「集団自決」の生き残りの実母初枝氏が書き残した「旧版」の結論(軍命はなかった)を否定することになる。

                   ◇

宮城晴美氏の証言が特異なのは、実母の宮城初枝氏(故人)と親子二代に渡って、証言が180度変わったことである。

コロコロ変わる宮城親子の証言についてはこれまで再三に渡ってエントリーしているので、

以前からの読者には問題整理のため 、途中からの読者には復習のため、

「母の遺言」を書き変える娘 揺れ動く「証言」より、その経緯を抜書きして以下に再掲します。

                   ◇


宮城さん、原告を批判/「集団自決」訴訟で報告会

自分のついたウソの証言に自責の念にかられた宮城初江氏は「真実」を綴ったノートを娘に託した。

娘はそれを『母の遺したもの』として出版した。

それが係争中の裁判の原告側の証拠として提出された。

娘は故人となった母の代わりに証人尋問の証人として出廷し証言した。

だが、「平和活動家」になっていた娘にとって「母の遺したもの」は「不都合な事実だった。

ちなみに証言者宮城晴美氏はサヨク学者安仁屋教授の教え子である。

証言者は、亡き母の証言を否定し『母の遺したもの』の内容を書き変えて改訂版を出版すると言う。

                    *

宮城氏の証人尋問で次のことが明らかになった。

①宮城氏が、軍による自決命令があったと見解を変えたのは、わずか1月前の本年6月だということ。

②そして宮城氏自身が今も、梅澤さんが自決命令を出したと主張しているわけではなく、

軍に責任があり、そうであるなら部隊長の梅澤さんに責任があると考えるようになったに過ぎない>と言うこと。

 

宮城氏は戦後生まれであり、本来なら「集団自決」の証言者の資格はない筈。

だが、母である初枝氏が座間味島「集団自決」の唯一の生き残証人でその証言を死ぬ前にノートに綴っており、

それを娘の宮城氏が『母の遺したもの』として出版した為、証言者となった。

従って、本人の証言というより「母の証言」についての証言者である。

証人尋問で唯一本人の意見としての証言は

「母が言及している時間帯における梅澤隊長の命令が無かったとしても、以外の時間で梅澤さんの命令があったかも知れず、梅澤さんの責任はあると思うし、そもそも軍としての命令はあったと思う」という証言。

「そもそも軍としての命令はあったと思う」と言うことはその場に居なかった者の推量であり証言とはいえない。

しかも、そう考える(推量する)ようになったのはわずか1ヶ月前の事。

『母の遺したもの』の中で実際に自決を命令したと記述のある村の助役の妹が一月前、自分の兄である助役を庇う証言をした。

それを聞いて宮城氏は自説(母の証言)をいとも簡単に変えたのである。

助役の妹の証言とは、県議会の現地調査の時に出てきた証言である。

これにについて、裁判長が「本当にその証言でよいのですか」と聞き返したことは「母の遺したもの」の母の証言を、裁判の僅か一ヶ月前に翻したことへの不信感の表れなのでしょう。

ちなみに宮城氏が証言を変えた助役の妹の証言の出た県議員団の「現地調査」が、

いかにデタラメな噴飯物だったかは次のエントリーに詳しい。

【新聞が報じない現地調査の実態!】 県議団調査団の醜態

この調査には沖縄タイムスの「ねつ造記事」に対する「お詫びと訂正」というオマケ迄付いたいわくつきの調査である。

 沖縄タイムスの「大きな捏造記事」と「小さな訂正記事」

又しても沖縄タイムスが捏造記事訂正 証言続出の「集団自決」

                     *

ところで宮城証言の根拠である『母の遺したもの』の母初江氏の証言はどうなっているのか。

時間をしばし巻き戻そう。
 
 「集団自決」から37年後の、昭和57年6月。

元座間味守備隊長梅澤さんが座間味島で宮城初枝氏(宮城晴美氏の母)に再会した。

その際、初枝氏は、長年一人で抱え続けて来た苦しい胸の内を一気に吐き出し次のように語った。

「隊長は、自決してはならん、弾薬は支給しないと明言しました。そのことを知っている唯一の生き証人です。」

そして初江氏は、梅澤さんに何度も謝罪した。


そして、その翌月の7月。

初枝氏から梅澤さんに、次のような手紙が送られた。

<真実の歴史を残すためには此れから私のやるべき事が残っております。
あの悪夢のような二十五日の晩のでき事は五人の中、私一人が生存しその内容を知り、語り伝えるための宿命だったかも知れません。
後、一人は生きていて欲しかったのでございます。
誰と話す事なく一人で悩んでいる訳でございます。
私の戦後は終っておりません。

今後、下谷さんが悲劇の座間味の本を再発行する事になりましたので好い機会ですので訂正させて頂き度いと思います。当時の島のふん囲気の軍命を出し、誰がも(誰もが)知れない真実を自分一人で知り乍ら、忠魂碑の前集合は住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。

何時も私の心境は梅沢様に対して済まない気持でいっぱいでございました。しかし、村の方針に反する事はできませんでした。
お許し下さいませ すべてが戦争のでき事ですもの。>(沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会より)

その後、更に初枝氏から梅澤さんに、『とっておきの体験手記』と題する手記の写しも送られて来た。

それには、弾薬を渡すよう村の助役が申し出たことに対し、梅澤さんがはっきりと拒んだことが書き綴ってある。

又集団自決を命じた村の助役の実弟宮村幸延氏が、梅澤元隊長が命令したと証言したことに対して梅澤氏に詫びており、詫び状まで書いている。

                       ◆                 

 

母の証言をまとめて『母の遺したもの』を著した娘晴美氏は皮肉にも母の証言を否定する立場で証言台に立った。

彼女が選んだ選択は、自著の表現が未熟であり、関係者に誤解を与えてしまった、座間味島における「集団自決」は梅沢隊長の命令によると証言し、被告側を支援するという道である。

結果的に彼女は自著を否定することになった。

≪果たして彼女はその選択を、一体いつ決めたのだろうか。自らの主体的な意思で選んだのか。母初枝さんは昭和三十一年、村の長老の半ば脅迫じみた言辞に証言を拒めず、しぶしぶ、虚偽の証言をしてしまった。宮城晴美氏もまた、かつての母と同じように、関係者の「圧力」を受けたのだろうか。≫(世界日報より引用)

 

  宮平春子氏の証言は沖縄タイムスが

梅沢隊長は『舌をかみ切って死になさい』と言った」

という誤報を掲載して、

後で「お詫びと訂正記事」を出している。

その誤報記事とは、↓

 県議ら「軍関与を確信」/「集団自決」証言次々

<座間味コミュニティセンターでは、沖縄戦時下、座間味村助役だった宮里盛秀さんの妹の宮平春子さん(80)ら体験者六人の証言を聞いた。「玉砕命令を聞いた」「梅沢隊長は『舌をかみ切って死になさい』と言った」などの証言が次々に飛び出した。体験者が声を詰まらせ、手を固く握り締めながら語る姿に、涙を流す委員もいた。 >

 

 

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