狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「琉球処分」Ⅱ 王朝の春 優美に幕開け

2008-01-22 09:31:37 | 歴史

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沖縄タイムス 2008年1月3日(木) 朝刊 26面   
 
王朝の春 優美に幕開け/首里城きょうまで【写真】

 琉球王朝時代の正月儀式を再現する「首里城公園新春の宴」(主催・国営沖縄記念公園事務所、海洋博覧会記念公園管理財団)が一日から那覇市の首里城公園で開催されている。三日まで。元日の午前中から大勢の観光客や家族連れが詰め掛け、厳粛で優雅な儀式に見入った。
 正殿前の御庭では三部構成の壮大な「朝拝御規式」が披露された。中国の明や清の時代、琉球に伝わったとされる御座楽(うざがく)の演奏のもと、国王や親方に扮した人々が色鮮やかな衣装を身にまとい入場。祭壇に焼香と合掌し、一年の平穏を祈った。

 初めて儀式を見たという八重瀬町の会社員、亀川博芳さん(57)は「息子夫婦に誘われて来た。ゆったりして優雅な感じが素晴らしくて感動した」と話した。

                                            ◇

最近の沖縄のマスコミはこの記事のように琉球王朝時代の行事を誇らしげに紹介するが通例である。

だが、沖縄マスコミが琉球国王を目の敵にしていた時期があった。

住民を搾取した専制君主ゆえ、琉球王朝の宝物も処分して人民に還元すべきだという論調である。

戦火で壊滅した首里城の再建にも、人民を搾取した国王の居城再建に無駄な金を使うべきでない、といった左翼インテリの意見が新聞で紹介されたりしていた。

終戦直後の日本共産党が君主制(天皇制)の打倒を目指したのと同じく、琉球国王は打倒されて当然の専制君主だった。

これは当時の左翼インテリが、コミユンテルンの「32年テーゼ」の影響下にあったことを物語っている。

米軍統治下の沖縄では共産党は禁じられていたため、瀬長亀次郎氏のような筋金入りの共産党員は沖縄人民党の名で「隠れ共産党」として活動していた。

隠れ共産党の沖縄人民党も沖縄の君主(琉球国王)は打倒すべき人民の敵と看做していた。

それが復帰後、沖縄左翼は「反日の丸」、「反日」に方向転換を始めたあたりから、従来の「反琉球国王」から「琉球王朝賛美」に軸足を変えていく。

つまり沖縄左翼の論理は、敵である日本帝国が「琉球処分」で琉球王朝を廃したのであるから、敵である日本の敵は賛美すべきものと変質した。

即ち琉球王国は沖縄左翼の賛美の対象となったのだ。

その結果彼らは夢のような物語を描いて見せた。

憎むべき日本帝国に侵略されなかったら、琉球王国は今でも平和を愛する王国として、独立を享受し繁栄していただろうという幻想である。
 
そこで冒頭記事の「琉球王朝賛美」と裏腹に恨み節で語られるのが「琉球処分」である。

そう、「琉球処分」にはシナ人になりそこなった琉球王国支配層のルサンチマンが凝縮されている。

沖縄在住の評論家恵隆之介氏によれば、琉球王国は住民から過酷な収奪を続けた北朝鮮の「金王朝」のようなものだったという。

そういえば、どちらの王朝も統治者の顔だけが目立って、国民の顔が見えてこないのが共通している。

昨日の「琉球処分」に関するエントリーに読者の「きんじょう」さんから次のようなコメントを頂いた。

<「沖縄は日本ではない」というテーゼに立てば確かに琉球処分は、琉球という国が日本に侵略、併合され、琉球国民は皇民化教育をうけ、悲惨な戦争に駆り出され、あげくのはて集団自決までさせられたということになるのでしょう。韓国の反日理論と同じです。

しかしその頃の琉球は国として存立できるだけの力があったのでしょうか?ペリーが浦賀に行く前か、帰るときか忘れましたが、琉球に立ち寄った際の日記に「琉球の農民は世界で一番悲惨だ」と書いてあるそうです。

大交易時代で栄えたのはほんの一時の話であり、琉球王朝は農民を搾取するだけだったとも聞く。再建された首里城は圧政の象徴としてみればそれほど有難がる気にもなれない。

それに比べて、江戸時代後半の庶民の暮らしは江戸に上った琉球国の役人の目にはとんでもなく豊に映ったろうと思われる。日本につくか、シナにつくか、結果的に琉球は日本を選んだ。琉球国民も馬鹿ではなかった。

琉球処分という言葉は当時の「シナ派」が言い出したと確信していますが、その生き残りがマスコミに巣くい、沖縄を韓国と同一のカテゴリーに嵌めようとしている。

>大交易時代で栄えたのはほんの一時の話であり、琉球王朝は農民を搾取するだけだったとも聞く。

大交易時代は沖縄の歴史学者が誇る琉球王国栄華の時代だが、ほんの一時の話というより、幻ではなかったという気さえする。

その当時、世界交易をするには、各種の航海関連技術、例えば大型船の製造技術、操船術、天文学、地理学、貿易知識、語学、等々が思い浮かぶが、

現在の沖縄に小型漁船のサバニ製造の技術以外に主だった技術の継承の痕跡は見当たらない。

文献にある交易時代とは琉球王国というより、明の時代に鄭和率いる大船団を派遣したといわれるシナの「大航海」に、

琉球に帰化したシナ人が便乗し、これを琉球王国の大交易時代として誇った、と考えた方が自然である。

或いは琉球の朝貢品に対する明の下賜品に大型船もあったというから、それをシナよりの帰化琉球人が操船して交易したとも考えられる。

いずれにしても大交易時代は琉球王国とは言っても一握りのシナ帰化人によって実行されたものであり、一般の琉球国民は大交易時代という華やかなイメージとはかけ離れた生活をしていたことが事実のようだ。

>琉球処分という言葉は当時の「シナ派」が言い出したと確信していますが、その生き残りがマスコミに巣くい、沖縄を韓国と同一のカテゴリーに嵌めようとしている。

「ダッタン人の踊り」とは、ロシアの作曲家ボロディンが作曲したオペラ『イーゴリ公』の第2幕の曲であるが、・・・

「ダッシン人の呪い」とは、・・・これこそ当時の「シナ派」が言い出した「琉球処分」である。

脱清人と称する一握りの「シナ派」は帰化人の係累として琉球王国で権益を享受していたが、

廃藩置県が決まるやこれに反対し清に援助を求めて亡命した。 

「琉球処分」という明治政府に対する呪いの言葉を残して。

 

明治政府は廃藩置県の方針を伝達し、実施するために松田道之内務大丞を琉球に派遣した。

松田は数度にわたり琉球王府首脳の説得にあたったが、事は明治政府の思う通りには運ばなかった。

松田は後に、説得交渉の関連文書をまとめて、『琉球処分』(全3冊、明治12年12月)を刊行した。

琉球王府の「シナ派」要人との交渉過程で「琉球処分」は明治政府への呪いの言葉と化して行った。

廃藩置県も日本史の中で捉えると、「藩」という一種の地方王朝を廃して県にしたわけだから、例えば鹿児島県の場合は「薩摩処分」といえなくもない。

薩摩藩の下級武士だった大久保利通によって突きつけられた「薩摩処分」とも言うべき廃藩置県に、

藩主(国父)の島津久光は怒りのあまりに錦江湾に花火を打ち上げて怒りを何とか抑えたという話もある。

他の藩でも大同小異で権力を享受していた士族階級が、

それを奪われて路頭に迷った例は「士族の商法」という言葉で今でも語り継がれている。

「琉球処分」の折、日本人になるのを拒み中国に助けを求めて亡命した「シナ派琉球人」は、清のシンボルカラー黄色で飾った軍艦が沖縄救援のためやって来ると、本気で信じていたという。(下記沖縄タイムスコラム参照)

彼等「脱清人」の清を祖国と考えるDNAは現代の沖縄の一握りのインテリ達に引き継がれている。

中国を祖国と考えているとも思われる沖縄タイムスが「琉球処分」前後の沖縄について興味深いコラムを書いていた。

◆<2005年5月16日> 沖縄タイムス
[大弦小弦]

 黄色軍艦がやってくる…。船体に黄色の龍の文様を描き、黄龍旗を掲げる清国の南洋艦隊は黄色軍艦と呼ばれたという。知人とこの話をしていたら、黄色軍艦が沖縄を侵略すると、勘違いして話がややこしくなった▼実際は逆で、明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。武力で琉球国を併合した明治政府に対し、琉球の首脳らは清へ使者を送って救援を求めている。そして、沖縄側はその黄色軍艦を待ちわびたのだった▼一八八六(明治十九)年に大迫貞清県知事が上申した「事変準備ノ件」が残る。清が軍艦を派遣するとの報に対し、政府派遣の知事は、対策十項目を提案。政府も北洋艦隊から戦艦九隻が派遣されると情報を得て、県に指示を出した▼日清戦争時にも清国の援軍は話題になった。それから百余年が経過し、あれほど待ちわびた援軍をも敵と間違うところに今の位置があるのか。林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。歴史の反転は大きかったようだ▼百余年前はともかく、少なくとも最近の銃口や占領者を忘れてはいけない。境で揺れる島だからこそ、平和の選択肢を選び取る覚悟も必要だろう。(後田多敦)

 

林泉忠著『「辺境東アジア」のアイデンティティ・ポリティクス』は当時の言葉を紹介する▼「生きて日本国の属人と為るを願はす、死して日本国の属鬼と為るを願はす」。生きても死んでも日本とは一緒にならないという激しい決意。中国で死んだ幸地朝常が李鴻章へ送った書簡に残る言葉。

林泉忠氏は国立大学(琉球大学)に在籍しながら反日、独立で沖縄を扇動する中国人教授である。

明治の琉球人にとって清国軍艦は援軍だった。

どうりで中国軍艦が沖縄領海を侵犯しても、沖縄タイムスはこれを静観しているわけだ。

いや、静観というより日本から沖縄を解放に来た援軍とでも思っているのだろうか。

軸足の踏み所を忘れた沖縄タイムスよ、

恥を知りなさい!

 

  【緊急お知らせ】


=教科書問題を考える集い=

沖縄戦集団自決と教科書検定

新しい歴史教科書をつくる会の

藤岡信勝会長、沖縄に来たる!

主催「新しい歴史教科書をつくる会」沖縄県支部

後援 「日本会議沖縄県本部」 「教科書問題を考える会」

講師 藤岡信勝氏( 新しい歴史教科書をつくる会 会長) 昭和18年北海道生まれ。
北海道大学教育学部卒業、同大大学院教育学研究科博士課程単位取得。
東京大学教育学部教授などを経て、現在拓殖大学日本文化研究所教授。
教育学専攻 平成9年新しい歴史教科書をつくる会の創立に参加し、現在会長。
著者に「教科書採択の真相」(PHP新書)共著に「レイプオブ南京」の研究など。

【日時】 平成20年1月24日(木)午後6時30分~ 午後8時30分

【場所】 エッカホテル沖縄 14階ヒルトップ 那覇市天久1068-9 867-5111 地図

【会費】 1,000円

【連絡先】 教科書問題を考える実行委員会 867-3037 担当 敷田氏



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