「旅の坊主」の道中記:常葉大学社会環境学部・小村隆史の防災・危機管理ブログ

日本唯一の防災学部はなくなっても、DIGと防災・危機管理を伝える旅は今日も続いています。

「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」

2014-10-25 21:03:18 | 日常の一コマ
今日は防災とは関係ない話を。

昭和19年10月25日。
この日付でピンとくる人は、どのくらいいるだろうか。

ちょうど70年前の今日、フィリピン・マバラカットの飛行場から、
最初の神風特攻隊が突っ込んだ。

海軍兵学校出身の関行男大尉を指揮官とする神風特別攻撃隊敷島隊。

「統率の外道」

完全にショーアップされた、かつ、
戦略的な意味はもちろん、戦術的・戦闘的にも意味があるとは思えない、
強制された死だったと、私は考えている。

特攻生みの親と呼ばれた大西滝治郎中将は、終戦の翌日、
「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を残し、割腹自決した。

人としての責任の取り方とはどうあるべきか。
介錯を拒否し、「生きるようにしてくれるな」と言った大西中将の自決は、
その一つの姿を示したのだろう、と、今としては思う。
それに匹敵する壮絶な自死は『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』の若泉敬しか私は知らない。

大西中将の死から44年。年号は平成と変わったが、
「俺は大西瀧治郎の生まれ変わりだ」が口癖の人物に育てられたのが四半世紀前の私だった。
その時の私は、大西瀧治郎の名も知らない、10月25日に何があったのかも知らない、
ただの25歳の男だったが。

だが、最初の勤め先であった防衛研究所は、旧陸海軍時代の公文書館でもあった。
史料は語らずとも、そこには史料に携わった方々の思いは残る。

20年前の今日、つまり関大尉が突っ込んでからちょうど半世紀後のその日、
私は鶴見・総持寺にある大西中将の墓に詣でた。
だからといって何もないことはわかっている。
わかっているが、その墓に佇み、何かを感じたかった。
その日の19年後に生まれた者として。

今日も、海上自衛隊徳島航空隊の部隊が、
関大尉の墓のある松山上空を慰霊飛行したことだろう。
では、私に出来る慰霊は何だろうか。

標題に掲げた寺山修二による短歌が特攻を意識してのものなのか、
それは知らない。知らないが……。

防災をライフワークと見定めた者として、
この国のあり方、そして、人としての責任の取り方、考えていきたい。
次世代にメッセージを託したいと思っている身にとっては、
現時点で捨つるほどの祖国かどうかは、大した問題ではないだろう。

「敦盛」よりも1年余計に生きてしまった。
まぁ、平均寿命まではまだ四半世紀くらいはある。
この間、「旅の坊主」は何を残せるだろうか。